海外の葬送事情

タンザニア

故郷に移送される都市生活者の遺体
 死後の安寧を求め、民族が助け合い


                  溝内克之(京大大学院生=アフリカ地域研究専攻)

 タンザニアの中心都市ダルエスサラーム。就職、求職、商売、進学のため多くの人々がやってくる。日ごとに街は拡大している。夕刻、人々が帰宅する時間になると乗り合いバスは、日本のラッシュ時間を思い出させるほど満員になる。動く隙間もないほどの満員、延々と続く渋滞、蒸し暑い気候、イライラはつのるばかり。車内の騒がしさが追い討ちをかける。大音量で流される音楽、さらに客を乗せようとする客引きの大声、乗客のおしゃべり。降りる頃にはへとへとになる。この騒々しいダラダラ車内が、午後4時、突然静かになる。ラジオの死亡告知番組が始まるからだ。

著者

 「ご家族、ご親族、ご友人の皆様。悔やみをお伝えします。ロンボ県マキーディ村の××さんは、兄弟○○さんの死を告知します……」

近年、携帯電話が急速に普及してきているとはいえ地域のインフラ整備は遅れており、情報のやり取りは容易ではない。この番組が果たす役割はいまだに大きいようだ。車内の皆が、村で暮らす家族や友人を想いラジオに耳を傾ける。同じ時間、村の人々も、そのラジオ番組に周波数を合わせ、都市で暮らす夫、息子や娘、兄弟や友人が無事であることに気をかける。世界中、どこでも共通することであろうが、「死」は大きな関心事であり、それに関わるさまざまな事柄に対してさまざまな注意が払われる。

葬儀の光景少ないダルエスサラーム

 ダルエスサラームには、約400万人が暮らしている。しかし、その人口に対して、墓地の数はさほど多くない。また、音楽隊に先導された結婚式の車列に出くわす機会と比較すると、葬儀を見かけることは非常にまれなような気がする。何故だろうか。

 その理由のひとつとして、多くの遺体が故人の故郷に移送され、そこで埋葬されていることが挙げられる。タンザニアには約130の民族が共に暮らしており、各民族にそれぞれの葬儀の手続きがある。多くの民族が都市から村へ遺体の移送を実践している。私がここ数年お世話になっているキリマンジャロ山間部の村の人々「チャガ」も移送を実践している民族のひとつである。今回、チャガの事例を挙げ、この遺体の移送、故郷での埋葬に関わるさまざまな事柄を紹介したい。

 チャガは、キリマンジャロ山間部の村々に暮らし、主食のバナナと換金作物コーヒーを栽培している人たちである。他方、都市で働く人々も多いことで知られている。19世紀末に開始された植民地支配の頃(1961年独立)からコーヒーの販売で現金を得てきた彼らは、学校教育や都市での商売などに資金を投入し、都市に出稼ぎ民として移動を果たしてきた。男性は少年・青年期を都市で暮らし、適齢期になると村に戻り家を建設し、父親から与えられた畑で農業を始めるか、家族を村に残し都市で出稼ぎをしばらく続けるという人生サイクルが一般的であった。しかし近年、都市での滞在期間も長期化し、かつ家族も都市で一緒に暮らすことも一般的になっているようだ。保有する農地が人口増加と男子全員への土地分配の結果、狭小化していること、さらにコーヒー販売価格が低下していることがその一要因であろう。近年、畑作だけに頼った生活は容易ではなくなっており、多くの人々が都市に生活の拠点を移している。

埋葬地は生活の空間でもある屋敷畑

 さて、すこしチャガの基本的な葬送に関して説明しておかなければいけないだろう。村の人々の説明によると人は死後、祖先たちが暮らす「別の世界」に移動するという。そこで現世の子孫の幸・不幸に影響をあたえるという。19世紀末、キリスト教が伝来し、今では敬虔なキリスト教徒として知られる彼らであるが、さまざまな機会に祖先のためにヤギやウシなどを供犠する。これら儀礼の場、そして埋葬地となるのが、生活の空間でもある「キハンバ」と呼ばれる屋敷畑である。キハンバには家屋を中心にして主食のバナナと換金作物コーヒーが栽培されている。そこに遺体も埋葬される。すべてが土葬であり、彼らから言わせると火葬は、死者をさらに痛めつける行為だという。

仮の住まい
首都・ダルエスサラームに家は建てても仮の住まい。
本当の居場所は村の屋敷畑。

 19世紀末のキリスト教伝来以前、また多くのチャガがキリスト教を信仰してからもしばらく、遺体は、家屋の中に埋葬されていた。そして、男性で3年目、女性で4年目に掘り起こされ、骨を屋敷地内の別の場所に再埋葬していたという。その再埋葬の場所は「ンブホ」と呼ばれ、霊的な力のあるといわれる木(イサレ)が再埋葬された人の数だけ植えられている。キリスト教会が改宗者に対して、再埋葬を厳しく禁じたため実際に掘り起こすことはほぼなくなったが、それでも教会が認めていない儀礼が今でも執り行われている。

 通常、すべての男性が土地を父親から譲り受け、自分のキハンバを持つことになる。そこに将来、自身、妻、子孫が埋葬される。また長男か末の男子が父親の家屋のある土地を相続するのだが、もし古くから利用されている土地であれば、多くのイサレが植えられたンブホを伴っていることになる。そこに家を建て、畑を手入れし、そしていつの日かそこに埋葬され、子孫が同じサイクルを続けることがよい事であると人々は説明する。後にも述べるが、それは都市に暮らす人々も同様にそれを実行しようとする。

寄付で集められる遺体移送の費用

 実際どのように遺体は都市からキハンバに運ばれてくるのだろうか。

 都市で人が亡くなった際の緊急の課題は、移送のための費用集めだ。多くの場合、親族や友人たちが故人の写真が貼られたノートを持ちまわり、寄付を募ってお金を集める。寄付を依頼された人たちはそれぞれの懐具合と相談し、100シリングから数万シリング(10シリングは1円ほど)を寄付する。ダルエスサラームから故郷キリマンジャロまで遺体を搬送した場合、50万シリングかかるといわれる。零細な商人など安定した職を持たない人も多い彼らにとってそれは決して少ない額ではない。しかし、よほど人付き合いが悪い人でない限り、すぐ集まる。「結婚式の寄付はなかなか集まらないが、葬式のためのお金はみんな出してくれる」と多くの人がいう。

 近年、新たな動きも見られる。このノートを悪用した詐欺や持ち逃げなどが頻発したことがあり、毎月の掛け金を納入していれば移送の費用を出してくれる組織が見られるようになったのだ。以前から親族や隣人達が集まった小規模な組織は存在したが、最近では同郷であることを組織原理とした大規模な組織が現れている。その中には5千人以上のメンバーをあつめ、余剰金で故郷への支援や商売の貸付活動を始めようとしている組織もある。「死」への関心が、人々を集め、新たな動きへと向かっているようだ。

 資金が集まると、マイクロバスが貸し切られる。親族、友人達が同行するのだが、これに併せて帰省しようとする人も多くいるため、バスはすし詰め状態になる。ダルエスサラームを夜にでて、キリマンジャロの村には明朝到着する。およそ650キロの距離を8時間から10時間かけて移動する。都市から来た人たちは、村に来ると、果たす役割はさほどない。たまの帰省でしか村に滞在しない彼ら、様々な葬儀の手順などを熟知していないため、村の人々にそれを任せるしかないのが実情だ。

ひつぎ
バナナやコーヒーが栽培されている屋敷畑の中に埋葬されるひつぎ

 多くの場合、遺体が到着した日に埋葬が行われる。神父がミサを終え、埋葬の段になって初めて、近しい親族の女性たちだけが泣き始める。そのとき以外に、人々は泣くことはなく、その理由は明らかではないが「良くない事」「悲しみを助長させるだけ」と村の人々は説明する。

 村での葬儀・埋葬を取り仕切るのは、故人が属する親族集団が組織している「親族会議」である。日常の揉め事や雑事を処理することがその組織の役割であるが、一番多くの時間を割くのが、葬送に関わる事柄であるという。参列者を迎えるために、故人が埋葬されるキハンバに近隣から借りてきた長いすが運び込まれ、バナナの間を縫うように設置される。振舞われるバナナの酒や食事の準備もされる。特に数日間にわたって振舞われるバナナの酒は、数千リットルが用意される。高齢者の葬儀の場合、お祝いのような雰囲気があり、親族達が揃いのTシャツを作成するときもあり、驚かされる。

老人の記憶に依存する葬儀手続き

 儀礼の手続きは、老人たちの記憶と経験に依存しているが、都市で暮らす人が増えた現在、ノートに書き留められていることもある。また、埋葬時には、神父がミサをおこなうためやってくる。その手配やミサの進行は、故人のキハンバの近隣の人々で組織される祈祷グループが行う。

 このように、村で埋葬されるという性質上、村の人々の協力なしでは事は進まない。しかし、時にこれらの作業が拒否されたり、もしくは簡素化されたりすることもある。それは、村の人々と良好な関係を築いてないような場合だ。自身や家族の埋葬がつつがなく執行されるには、村の親族や隣人との関係を常に意識しておかなければいけないのかもしれない。

 都市から同行してきた人たちだけではなく、多くの親族が各地から駆けつけ、数日村に滞在する。兄弟、姉妹は「不幸をはらう」必要があり埋葬から2‐3日、村をでることができなくなる。葬儀に集う人たちと飲食をともに、都市から久々に帰郷した人々と村の人たちの関係が再確認されるそのような機会を村での埋葬が提供してくれる。

 キリマンジャロ山間部の村々には驚くほど瀟洒な家屋が建ち並んでいる。さらに驚くことにその家の多くに、その主たちは住んでいない。先にも触れたが、大抵のチャガの成人男性は自分の土地を持っている。都市に暮らしていても、その土地に家を建設するのだ。「なぜ、そんな家を?」と愚問を投げかける私に、みなはそれぞれの答えを返してくれる。しかし、みなが口をそろえていう理由とは、「先達たちへの感謝」と「埋葬の準備」である。都市にいながら、先祖から受け継いだキハンバに家を建て、バナナとコーヒーを育て、そこに埋葬されるという「よい生き方」を望んでいるのだ。では、なぜ彼らは村での埋葬にこだわるのだろうか。多くの人が「慣習だから」と、説明にならない説明しかしてくれない。しかし、ある女性がその回答のヒントを教えてくれた。

 私が暮らす村では、女性が建設した家が見られるようになった。本来、女性は、嫁ぎ先の土地に埋葬されるのが慣例である。しかし、未婚や離婚する女性たちが増えており、彼女達は積極的に村との関係を維持し、土地を獲得し、家を建設しているのだ。村のひときわ綺麗な家の主の女性が、私にヒントをくれた人である。彼女は、ダルエスサラームで手広く商売を展開している。村に休暇で帰ってきた彼女に「なぜ、このような家を」と愚問を投げかけると、彼女は諭すように教えてくれた。

 「死んだらゆっくりするため。これが私の墓」

生地近くに土地求め家を建てる人々

 彼女は、他民族出身の夫に先立たれた後、嫁ぎ先の家族とうまくいかず、女手で商売をしながら、必死で子供を育てた。商売も大きくなり、子供も手から離れようとしたとき、大病を患った。それを機に生地近くに土地を求め、家を建て始めた。将来、苦労を重ねた都市ではなく「村」で死にたかったのかもしれない。「都市は疲れる」といって年に数回、村に静養にやってくる。

 将来、バナナやコーヒーの木々に囲まれ、自分の建設した家屋のそばに埋葬される。その家屋には、頻繁に都市から家族が帰省してくることができる。また、多くの都市で暮らすチャガ人たちは、都市に家を建設していたとしても、その家はあくまで仮の住まいであるとよく述べ、自身の本当の居場所は村のキハンバだという。都市で働く彼ら・彼女らの故郷への思い、死後の安寧を求める心が、村への遺体の搬送を支える背景にはあるのかもしれない。

 今後も、村での埋葬は続いていくのだろうか。ある男性が父親との関係が悪化したことを理由に、本来、彼の埋葬地となるはずだったキハンバを放棄した事例が最近あった。彼はそのキハンバの土と儀礼において用いられる木「イサレ」を持って、キリマンジャロから遠くはなれた場所に将来の埋葬地を定めたという。キハンバでの埋葬も決して固定的なものではないのかもしれない。また、最近では都市育ちのチャガも多い。彼らは村で話されているチャガ語も知らなければ、畑を耕したこともない。今後、チャガの人々の葬送はどのように変化していくのだろうか。  溝内克之(みぞうち・よしゆき) 京大大学院アジア・アフリカ地域研究科の大学院生。ダルエスサラームを拠点に、キリマンジャロ山間部農村で調査活動をしている。

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溝内克之(みぞうち・よしゆき)
 京大大学院アジア・アフリカ地域研究科の大学院生。ダルエスサラームを拠点に、キリマンジャロ山間部農村で調査活動をしている。


「再生」第66号(2007年9月)

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