海外の葬送事情

モンゴル

自然の猛威を率直に受容
草原に生まれ草原に還る


                四釜嘉総(モンゴルで乗馬クラブ会社経営)

 モンゴルは、広大なゴビ砂漠や大草原だけでなく、アルタイ山脈の山々やロシアに接する森林地帯もある高原の内陸国です。豊かな自然の中で、人々は遊牧を生業にして6000年の歴史を生きてきました。ロシア革命からしばらくして親ソ連の社会主義国になりましたが、ソ連崩壊後の1992年には社会主義を放棄し人々の生活も大きく変化してきました。社会主義時代には9割を超えていた遊牧民は次第に都市に移り、今では、260万人の人口の半分以上が都市生活者です。町の風景も毎年変わり、首都ウランバートルは100万都市へと変貌しています。すべてが急速に変わる中で、民衆の間には、社会主義時代には息を潜めていたラマ教と呼ばれるチベット仏教の復活が目立っています。

 私は、国際協力機構(JICA)の職員として、モンゴルが市場経済化に進む激動の時代に通算9年を過ごしました。その時の見聞をもとにモンゴル人の葬送観、死生観について記してみたいと思います。

■生まれ故郷を大切にする心

 世界唯一の遊牧国家といわれたモンゴルの遊牧民の数は減っていますが、その生活ぶりは悠久の時を経て大きな変化はありません。遊牧民は家畜の飼料である草を求めて移動を繰り返しますが、それは夏の期間、家畜に飼料である草を十分に与えないとマイナス30度C以下にもなる厳冬を越すことが出来ないからです。実際に、毎年1割の家畜が冬を越せないといわれています。

   草原を遊牧の後、冬には毎年同じ場所に戻ってきます。土地は都市の一部を除いてすべて国有地ですから、国内であればどこにでも移動できます。移動式の住居(ゲル)ならどこに建てても構いません。都市生活者でも、本人または両親が遊牧民であった人たちですので彼らの人生観、死生観といったものは共通しています。モンゴルの人たちは生後どこに移動をしても、死後その魂は広大な大地を延々と移動して生まれ故郷に帰ると信じているので、どこで生むか生まれるかは重要です。

 大相撲の横綱・朝青龍が第1子誕生に際し、医療設備の整っている東京でなく、ウランバートルに奥さんを里帰りさせたのもこの思想があるからです。

 遊牧では農業のような地域の共同作業はほとんどありあません。例えば、草の豊なところに自分の羊を追って行っても、すでにその地に他者が入っていたら草の量に限界があるので他の草原へと移動させなければなりません。モンゴル人は個人で行動する人たちで、私にはとても逞しく映ります。その性格はスポーツにも表れ、団体競技が不得意ですが個人で戦う競技には群を抜いた力を発揮します。日本の大相撲で横綱や大関を輩出するのは、相撲が彼らの性格に合っているからだと思います。

 どの人も自分の生まれ故郷を自慢げに話します。

■チベット仏教との深い関係

 社会の大きな変化の中で、民衆の間には社会主義時代の約70年間、禁止されていた宗教が急速に復活しています。その宗教とは粛清の嵐の中で息を潜めていたチベット仏教です。葬送観の基本にこれがあります。

 モンゴルとチベット仏教の関係は、もともと歴史的に古く、深いものがあります。チベット侵攻などを通して、モンゴルの支配者である歴代ハーンはチベット仏教に触れ、その保護者になっていたようです。16世紀にモンゴルの勢力を広げたアルタン・ハーンは、チベット侵攻の際に仏教に帰依し、当時のダライ・ラマをモンゴルに迎えたといわれます。そして、孫が第4代のダライ・ラマとなったとされています。チベット仏教を深く信仰する人たちは、息子のうちの1人を僧にするべく、金、銀、財宝を持たせ遠路本山であるチベットのラサへ送り出家させました。ラサの寺院建立にはモンゴルの資金が大量に流れ込みました。

市街
百万都市になったウランバートル市街。しかし住民の心はいまでも遊牧民のままだ。

 人々は仏教の「輪廻転生」の人生観を持ち、来世での平穏を祈って行動します。ある時、モンゴル人との会話で「この世で悪いことをしたら何に生まれ変わるの」と聞くと「来世は虫でしょう」との答えが返ってきました。モンゴル人の食生活は赤い食べ物(肉)、白い食べ物(乳製品)です。私が「緑の食べ物(野菜)はないの」と聞くと「それは虫の食べ物」と言われたことがあります。野菜は定住しないと栽培出来ないので遊牧民は食べる習慣がなかったのですが、「輪廻転生」を思うと、自分が食べない理由づけにしていたようにも思えました。

 モンゴル人の友人が経済的にとても困窮していると聞いて、段ボール箱5個分の食料と100ドル紙幣1枚を子どもの教育費に差し上げたことがあります。その後、その友人から「あのお金は家内がお寺に寄進した。家族の皆があなたに感謝している」とお礼をいわれました。私が想定していなかったお金の使い方で、彼らの人生観の一端を見た思いがしました。

■葬列に続く土を積んだトラック

 100万人都市ウランバートルの人々の住居は、社会主義時代の名残でロシア型の集合住宅(アパート)の形がほとんどです。死者はハタグと呼ばれる絹の布で体をぐるぐる巻きにされて棺に入れられます。棺は、大地を示す緑と空を示す青の布をかけ部屋に安置されます。親族は寺院に行って葬儀の日取りを決めてもらいます。出棺は月、水、金曜と決まっています。

 棺を置いた部屋または別室に故人の写真と灯明、乳製品や米などの白い食べものやキャンディなどを供えます。出棺までの数日は弔問客に食事を出し故人を偲ぶ話をしますが、人々はあまり多くは語らず、静々と食べて帰ります。

 出棺は早朝で、家族、友人など近しい人たちが棺の周りを無言で周り、最後のお別れをした後、親族や関係者が車で墓地へ向かいます。この車列の最後尾にはトラックが続き、荷台には土が積まれています。冬は凍てつき穴を掘ることができないので、墓の管理者が夏の間に冬場の死者の数を予想し、あらかじめ穴を掘っておきます。僧の読経の後、関係者が墓穴に棺をいれ土をかぶせます。 掘っておいた穴が足りなくなった場合、以前は棺をそのまま置いておいて夏が来るのを待ったそうですが、最近は古タイヤを2日間燃やし地面をやわらかくして墓穴を掘るようです。日本のような葬儀社はないので、通夜から埋葬まですべて親族が行います。

 モンゴル人はこの車列に遭遇すると運が良い日と解釈します。亡くなった人が邪運を取り払って未だ使っていない幸運を残してくれると信じていますので車列に合掌し念仏を唱えます。

 遊牧民が草原で亡くなった場合でも、近くの村などの墓地に埋葬するようです。隣近所と数十キロ離れていても連絡は可能です。遊牧民の足は馬ですが、それを使えば1日で相当の距離を行けますので、伝令方式で関係者には死の知らせは伝わるのです。

 かつては鳥葬、風葬などもありましたが、社会主義時代は土葬だけになりました。2002年、首都郊外に火葬場がつくられ、火葬にする人も増えています。

 四十九日が過ぎると、親族で集まって肉の入っていない料理を食べます。 埋葬後は家族、知人とも、ほとんど墓参をしないのがルールになっています。墓地は家族ではなく個人単位で、あまり構われているふうでもありません。

■参列した知人質素な葬儀

 赴任中に幾つかの葬式に参列しました。1つはモンゴル国立大学の副学長の実母のお葬式です。彼は社会的地位もあり経済的にも恵まれていますが、葬儀は彼の住居である集合住宅(アパート)で4階建ての3階の自宅で行われました。死者はハタグで体をぐるぐる巻きにされ、棺は緑と青の布をかけてありました。弔問客である私たちの服装は普段着でしたが、喪主も普段と変わらない服装をしていました。

 喪主に葬儀のお悔やみを言い、持参したお香典(金額としては500円ほど)を渡し個人の写真の前で手を合わせます。その後、スーティーサイ(牛乳とお茶を混ぜた飲み物)とビスケット、野菜のスープなどが供されました。みな静々と食事をし、喪主が「私たち家族の悲しみを共有して頂いてありがとうございました」といい握手をして別れました。その後数日して、香典返しとしてロウソク、マッチが届けられました。

 もう1つの例は、私が所有する馬の管理を依頼している牧童の実母が亡くなられたときのことです。実母の家はウランバートルの郊外の山の中腹にありました。社会主義体制の崩壊後、多くの地方出身者が首都のウランバートルに移り住むようになりました。しかし集合住宅を購入する資産がありませんのでウランバートルを取り囲む山にゲルを建て住んでいました。牧童の実母の場合もそうで、舗装されていないデコボコ道を4輪駆動車で駆け上がると、粗末な板塀の中にそのゲルはありました。遺体は葬儀のために建てたゲルに安置されており、若いときに写したであろう写真が小さなテーブルに置かれてあるだけでした。お悔やみを言い香典を手渡すとスーティサイが出されましたが食事の用意はなく、飴がお皿に山盛りに乗っているだけでした。質素でしたが悲しみを分け合うことが出来ました。

■墓にこだわりを持たない人々

 モンゴルは広漠とした高地にあり、厳寒の地です。遊牧は、動物を管理しなければならないため農業のような休日はありません。大自然に恵まれた草原で家畜が草を食んでいる光景は牧歌的でのどかな風景に映りますが、夜には狼も出現し家畜を襲います。旱魃やゾドと呼ばれる雪害でも家畜を失います。人間として自然の猛威に抵抗出来ないことが頻繁に起こることから、厳しい自然の中で発達したチベット仏教のような自然を敬う宗教が受け入れられてきたと推測しています。遊牧では家畜の生と死が身近で起こります。人間の死に対しても同じように素直に受け入れているように思います。

 かつての鳥葬、風葬などと比べると葬送の姿は少し違うように見えますが、私にはモンゴル人の葬送観は現在でもほとんど自然葬に近いのではないかと思えます。墓は個人のもので墓参りにも行かない。墓石も自然石です。チンギス・ハーンは自分の埋葬場所がわからないようにとの遺言を残しましたが未だにどこにあるのかわかりません。モンゴル草原に生まれ草原に還ることを実行している人たちなのだと思います。  

■モンゴリアンブルーの下の散骨

 作家胡桃沢耕史の直木賞受賞作「黒パン俘虜記」に竹田軍医の名で登場する春日行雄先生から聞いた話です。日本人捕虜は栄養失調だったので、極寒の中多くの人が命を落としました。1日のうちで一番冷え込みが厳しいのは日の出前の時間です。栄養失調のうえ防寒具も十分でなく、少しでも暖を取ろうと両手を合わせた姿のまま凍死したそうです。寒さで地面は岩のように凍りついていたので穴を掘ることはできず、遺体は大地にごろりと並べられました。春になって埋葬しようとすると、狼に体の一部を食べられていたそうです。

 モンゴルの大草原は司馬遼太郎、開高健、椎名誠等の書籍で紹介され、多くの日本人が訪れるようになりました。モンゴルの大地に足を踏み入れた人たちの中には死後は散骨をと望む人もいます。私も友人からの依頼で日本人の散骨のお手伝いをしたことがあります。その方は1度モンゴルに来て大自然に感動し、その素晴らしさを夫人によく話されていたそうです。モンゴル訪問から数年してがんで亡くなられました。夫人は夫の憧れの地に散骨することを思いつき、私の友人に相談し私に伝わりました。夫人の依頼は大自然の中に空中から散骨したいとの希望でした。

 モンゴルには観光用の軽飛行機などはありません。思案していると夏場の気候が安定しているときに観光用に熱気球を飛ばす会社があり、そこの社長に事情を話し依頼することにしました。モンゴルの天候はとても変わりやすいので懸念しましたが幸いにも当日は晴天で風も弱く30分の飛行ができました。モンゴリアンブルーの青い空、どこまでも続く眼下の緑の大草原に向け散骨されました。

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しかま よしふさ(四釜嘉総) 1946年生れ、63歳。
政府開発援助(ODA)実施機関である国際協力機構(JICA)職員としてモンゴルで2度の勤務をし通算9年滞在した。1995年から1999年まで、JICAモンゴル事務所初代所長、2001年から2006年までモンゴル・日本センター初代所長。現在、ウランバートル郊外の乗馬クラブ(ノゴンザム社)副社長、新モンゴル高校顧問。

「再生」第68号(2009年6月)

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