海外の葬送事情

エジプト

  イスラム社会に現われた墓の町「死者の町」
  止まぬカイロの人口増、2万人が棺と同居

               松本仁一(ジャーナリスト、元朝日新聞編集委員) 

エジプトの首都カイロ郊外に、「死者の町」と呼ばれる一角がある。
カイロ東のモカッタムの丘のふもと、幅1キロ、長さ1キロ半の地区に、立派な堂屋式の古い墓が立ちならんでいる。そこに何と2万人の「生きた人間」が住んでいるのである。

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■バスが通い、食堂や床屋や旅館も

 中世のカイロは城壁都市だった。人々は城の中で生まれ、学校に行き、仕事をし、最後のときを迎えた。はじめは、住人が死ぬと城の中に埋葬した。ところがカイロが繁栄して人口が増えるにしたがい、そうもいかなくなった。死者の数が多くなって、とても城内では埋葬しきれなくなったのである。火葬ではないので衛生的にも問題がある。14世紀ごろになり、王が城外に墓地を指定し、死者はそこに埋葬するように命じた。

 城の住民は裕福だった。まだケープタウン回りの航路は開発されておらず、カイロがアジアとヨーロッパを結ぶ東西交易を独占していたからだ。インドや中国からのコショウ、絹など高価な品々がカイロに集まり、そこで付加価値を付けられ、イタリアやフランス、ポルトガル、スペイン、トルコに運ばれた。カイロには莫大な富が蓄積した。

 金持ちの市民は競って豪華な墓をつくった。多くは半地下式のお堂のタイプで、正面には立派な破風が付けられた。中には3階建て、5階建ての墓をつくる人もいた。

 お堂の一区画は約10メートル四方でけっこう広く、屋根付きだ。中はがらんどうで、壁の側面は何段かの棚が付けられ、5、6人分の棺が収容できるようになっている。

 カイロは砂漠の中の町だ。ナイル川のおかげで農業はさかんだが、年間降雨量は20ミリにも達しない。日本の平均が約1800ミリだから、約90分の1だ。空気は乾燥しきっている。そのため、外気の中に置かれた遺体はたちまちミイラとなっていく。合理的な自然乾燥方式だった。

 しかし、その後も人口は増えつづけた。19世紀になると住民は城内に収まりきれなくなってしまった。支配者の英国は、現在のカイロ市街にあたる地域に都市機能を移して新都心とし、人口が100万人を超しても大丈夫なように設計した。住宅は石造り5階建て、6階建ての、パリ市街のような集合住宅方式である。城壁都市の方は、新市街に対して「オールドシティー」と呼ばれるようになった。

 ところが、100万人ではすまなかった。現在カイロの人口は、政府発表で800万人を超えている。実際は1200万人が住むとの報告さえある。東京をはるかに上回る過密ぶりで、それでもまだ地方からの人口流入は止まらない。 周辺農村から職を求めてカイロに流れ込んだ人々は、住む場所の確保に懸命となった。そしてとうとう死者の町に目を付けたのである。とにかく屋根があり、壁があるのだから住宅として文句はない。

 墓に住むということは、棺と同居するということである。だが棺の中身はすでにカラカラになってしまっていて、化けて出る気配はない。気にしなければいいのだ。死者の安寧より生者の必要なのである。

 「死者の町」の人口は増え、やがて店ができ、食堂や床屋ができ、旅館ができた。都心に仕事に通う人がいる。学校に行く子も出てくる。行政当局はしかたなく、墓地の角々にバス停をつくり、路線バスを走らせるようになったのである。

■墓の主は居住を黙認、家賃は無料

 知人のエジプト人男性の案内で「死者の町」を歩いてみた。

 十字架や墓石があるわけではないので、普通の町を歩いている感じだ。舗装こそないが、古い墓地なのに道幅は意外に広い。10メートル以上あるのではないか。金持ちの家の大きな葬列を通すためだったのだろう。東洋人が珍しいらしく、子どもたちがあとをついてきた。墓の半地下から、ひょいと小さな子どもが現れ、私を見てびっくりした顔をする。

 主人が建設現場で働いているという一軒をのぞかせてもらった。堂屋の床は半地下で、路面からは階段で降りるようになっている。その内部をべニア板で3つに仕切り、主人夫婦と、17、8歳の娘さん二人が住んでいた。壁の棚には棺が3つ置かれている。いずれもかなり古く、ほこりをかぶっていた。

 奥さんは40歳ぐらいだ。ご主人は南部アシュートの農家の8男で、20年ほど前、職を探してカイロにでてきてこの墓に住みついたのだという。奥さんとはいとこ同士で、夫の2年後に「死者の町」に嫁いできた。娘さん二人はこの墓で生まれた。彼女たちにとっては、この「死者の町」が故郷なのである。

 堂屋の外には、やはり半地下の庭がついている。葬儀のときや、命日などの法事で遺族が集まったときのために設けられた庭だろう。沖縄でも、亀甲墓の前には法事用の広庭がついているのを思い出した。

 一家は、その庭にトウモロコシやモロヘイヤなどの野菜を植えていた。近所の市場に持っていって売るのだという。張りわたしたビニールひもに洗濯ものがひるがえる。

 堂屋の壁には、丸く穴を開けた石油缶がかかっていた。ハトの巣だ。エジプトではハトを食べる習慣がある。日本のような伝書バトの種類ではなく、茶色で小型のキジバトの種類だ。この家でも20羽ほどを飼っており、市場で売るのだといった。ハトはのべつ繁殖期で、すぐ増える。

 墓の持ち主に家賃をいくら払っているのか尋ねると、奥さんは口ごもった。案内の知人が笑い、「彼らは家賃など払っていませんよ」といった。

 イスラム教では、お彼岸とかお盆のような祖霊信仰の儀式がないため、遺族が墓地にやってくることはめったにない。そのため墓をつくって3世代目ぐらいになると、先祖の墓のことなど忘れてしまい、だれも墓参りに来なくなるのだという。要するに「無縁墓」になってしまうのだ。

 日本だと寺が墓地の管理をするが、死者の町にそのような管理者はいない。となると、墓にだれが住みつこうと目くじら立てる人はいない。住みついた人の、無料の借家権ができてしまっている。

 たまには、命日にきちんと墓参りにくる家族もいる。そういうときには事前に居住者に連絡が来るのだという。すると居住者は家財道具をまとめて墓を空け、知人の家などに数日滞在する。墓参りが終わったらまた戻る。

 堂屋は無人だと荒れやすい。だれかが住んでいた方が長持ちする。屋根の補修や庭の草取りなども各自がしてくれる。墓の持ち主もそれを知っているから、先祖の墓に人が住みつくのを黙認しているのだと知人はいった。

■やむなくイスラムを受容したエジプト人

 それにしても、おかしな感じがした。イスラム教では祖先崇拝はタブーである。それなのに、カイロのイスラム教徒たちはなぜこんな立派な墓をつくったのだろうか。

 いつかやってくる「最後の審判」の日に、死者はよみがえって神の前に立ち、天国に行くか地獄に行くかの審判を受ける――。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3大一神教ではそういうタテマエになっている。したがって、現世での死は最後の審判までの「仮の状態」にすぎない。大切なのは、最後の審判の日に天国行きの裁定を受けることであり、現世では「死んだってどうってことはない」のである。その傾向はイスラム教でとくに強い。

 そのため、イスラム教で墓はあまり重視されない。いずれよみがえるのだから、それまでの仮の宿りなのだ。だとしたら豪華な墓をつくってもしかたがない。さらに、死者の霊のために祭壇をつくったり遺影をかざったりするのは「アラーのほか拝んではいけない」という偶像崇拝タブーに触れることにもなる。

 墓を重視しない傾向は、イスラム教の中でもスンニ派で強い。スンニ派の国であるサウジアラビアなどでは、遺体を砂漠に持っていき、墓標も立てずに適当に埋めてしまうところもある。遺体は砂漠の砂の中で干からび、天然ミイラになり、やがて砂になる。

 にもかかわらず、同じスンニ派のエジプトで、なぜこのように立派な墓をつくる風潮があったのだろうか。

 エジプトではそもそも古王朝のピラミッド時代から、祖霊崇拝的な多神教宗教が数千年にわたって続いてきた。祖霊崇拝や多神教というのは、農耕社会の文化なのである。農耕社会は、自然の恵みが豊かな地域で成立する。豊かな水、穏和な気候。農業を支えてくれるあらゆる自然の恩恵に感謝し、将来も恵みをたれてくれるように祈る。太陽の神、雨の神、川の神、山の神、田の神、ご先祖さま……。多くの神が当然のごとく生まれてきた。

 ギリシャやローマも同様に農耕社会だ。そこでもギリシャ神話やローマ神話などに見られる多神教文化が生まれた。ところが紀元969年、エジプト多神教社会はファーティマ朝のイスラム勢力に武力で制圧される。「剣かコーランか」――。エジプトの人々はやむなく一神教であるイスラム教を受け入れたのである。

 一神教はもともと砂漠の人々の宗教だった。3大一神教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教はみな、農耕には適さない過酷な砂漠地域で生まれた。人々は砂漠周縁の草原での遊牧か、砂漠を越えての通商で暮らすしかなかった。アラビアンナイトの世界である。人々はつらい現世を厭い、天国での平安な暮らしを夢見た。

 しかし、死んだらだれもが天国に行けるとしたら問題が出てくる。「隣のあの男は、表向きは善人ぶっているが、実はとんでもない悪人だ、あの男まで天国に行くなんて不公平だ」――。そんな不満が、最後の審判の発想を生み出した。

 陰でも善根を積んできた人間と、裏では悪事を働いている人間を、神様はだまされないで見分けてほしい。そのため神様は全知全能で、何でも分かっていなければならない。神様が途中で審判を交代するのも困る。そのたびにストライクゾーンが変っては、安心して審判をゆだねられない。だから神様は一人でなければならない。そこから「全知全能、あまねく存在する唯一の神」という存在が生まれた。一神教も多神教も、多分に環境が生み出した宗教だということができよう。

 ただ一神教は攻撃的で、周辺の農耕多神教社会を武力でつぎつぎに征服していった。エジプトはイスラムに飲み込まれ、ローマ、ギリシャはキリスト教に飲み込まれたのである。

 ■墓を通じ農耕的多神教文化に先祖返り

 しかし農耕の生活自体は変わっていないのだから、時代がたつにつれ、農耕社会一神教徒は、もとの多神教文化に戻っていく。いわゆる「先祖返り」である。ヨーロッパ社会では、聖人の名を付けた教会を建て、聖人に豊作を祈願するようになった。イスラム社会でも聖人の廟を建て、メッカの代わりにそこを巡礼するような文化ができた。一神教が変質を始めたのである。

   しかし先祖返りしても、人々は自分は相変わらずキリスト教徒であり、またはイスラム教徒であると思い込んでいる。仏教などに縁のない生活をしている日本人が、お寺の檀徒だから自分は仏教徒だと思っているのと同じである。

 「死者の町」は、エジプトに古来あった農耕的多神教文化に先祖返りした現象なのではないだろうか。「この世」と「あの世」がどこかでつながっており、墓を通じて先祖の霊とコミュニケートすることが可能な文化。それはイスラムにはない考え方だ。

 ピラミッドいらい続いていたエジプト古来の文化が、イスラム征服から数百年たってひょっこり顔を出した。それが「死者の町」だと思えるのである。

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まつもと・じんいち 1942年、長野県生まれ。68年東大法学部卒、朝日新聞社入社。82~86年、ナイロビ支局長。90~93年中東アフリカ総局長(カイロ)。93年から編集委員。08年退社、朝日新聞書評委員を務める。94年、中東和平報道でボーン上田国際記者賞。98年、「アフリカで寝る」で日本エッセイストクラブ賞。02年、「テロリストの軌跡」で日本新聞協会賞。07年、「カラシニコフ」で日本記者クラブ賞。 著書に『アフリカ・レポート』(08年、岩波書店)、『カラシニコフⅠ』『カラシニコフⅡ』(08年、朝日文庫)、『アフリカを食べる・アフリカで寝る』(08年、同)、『ユダヤ人とパレスチナ人』(95年、朝日新聞社)、『アパルトヘイトの白人たち』(89年、すゞさわ書店)、『テロリストの軌跡』(共著、02年、草思社)など
「再生」第78号(2010年9月)

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