海外の葬送事情

インドネシア

「多様性の統一」を目指す国がら 宗教の壁超え共通する死者への礼

                      尾村敬二(アジア問題専門家)  

 インドネシアは多様である。約17,000の島に230の民族が住み、その宗教もさまざまである。最近は地球温暖化のために5000以上の島が水没しそうである。南太平洋のツバルだけの問題ではない。こうした多様性があるので、インドネシア人の死生観とか、葬儀観とかを一方的に決めつけることは難しい。インドネシアの国家統合の象徴は「多様性の統一」であり、国章の「ガルーダ」(神の鷲)の足元に「BINEKA TUNGGAL IKAT」とサンスクリット語で銘記されている。

庶民に根付いた民間信仰の影響力

 主要民族は2億3000万人の人口の7割を占めるジャワ人で、そのほかにはスンダ人(西部ジャワ地域)、バリ人(バリ島)、ブギス人(南スラウェシ地域)など15民族である。言語数は方言を入れると580あるが、共通語の現代インドネシア語は、スマトラのリアウ地域に住むムラユ民族のムラユ語を母体とする。1000万人に満たない少数派の言語を共通語とする国家は世界でも稀である。なぜムラユ語が共通語となったかの理由は、紀元前からの海のシルクロードにおいてクローブ(丁子)が取引された際の商業語として、現在のインドネシアやマレーシアに普及していたためといわれる。人口の最大多数を占めるジャワ人は農耕民族であり、海洋支配民族ではない。

 宗教分布はイスラム教徒が人口の87パーセントと主流であるが、神学者に言わせると、敬虔なイスラム教徒は20パーセント程度とのことだ。そのほかに、国家が宗教と認めるものは仏教、ヒンズー教、カトリック及びプロテスタントである。しかし、庶民の生活に根付く民間信仰(クバティナン)の影響は強い。クバティナンはイスラムの教義からすると邪教であり、国家は宗教慣習という口実で正規の宗教として扱っていない。スハルト元大統領も熱心な信者であったと言われ、クバティナンがインドネシア人のいかなる民族の日常生活にも影響している。

 ジャワの暦などは冠婚儀式の日取り決めに重要な決定要因となる。あるインドネシア人はインドネシア人の体は、頭がイスラム及びキリスト教、ボディーがヒンズー教及び仏教、下半身がクバティナンであると説明していた。日本人が葬式は仏教、結婚式はキリスト教や神道、及び、盆、正月、クリスマスをごた混ぜにしているのと同様、インドネシア人も宗教間の壁に対する意識は低いようだ。

盛大になる一方の葬儀の列

 まず、筆者が最初にジャカルタに駐在した1973年から1976年までの間と、2回目の1993年から1996年の間の葬送についての経験を比べてみる。

 初回に遭遇した葬列は、ジャカルタのクバヨラン・バル地域で見かけたものである。同地区はジャカルタでは2番目に古い高級住宅地として1950年代に開発された地区であり、中産階級が住むところである。現在は一大商業地域となったが、今でも住宅街としての趣は残っている。自動車の渋滞で道路が麻痺している現在との違いは、非常に閑静であり葬列を妨げる自動車は皆無であったことだ。棺を担ぐ男子たちに続き、親類縁者が行進して埋葬の場に赴くのが一般的であった。同地区の主要葬苑はプラパンチャと呼ばれる。行進に先立ち、死者の宗教に基づく方法で、自宅で送別の儀式を行うようであったが、筆者はその現場に居合わせたことはないので、ここでは紹介できない。1970年代前半のインドネシアではモータリゼーションが始まったばかりであり、自動車やそれに続くモーターバイクの葬列は金持ち層の一部に限られていた。

 2度目の駐在の1990年代には葬列も大掛かりになっていた。ジャカルタは巨大都市となり、かつての中心部であるメンテン地区とクバヨラン・バル地区とは完全に一体化された。両地区の間は約4キロありバナナやパイナップルが栽培される田園地域であったが、今は高層ビルが立ち並ぶオフィス街となっている。葬列の形も様変わりした。先頭に、モーターバイク部隊や荷台に黄色の旗を振り交わす多数の若者を乗せたトラックが、けたたましく警笛を鳴らしながら進み、後続の棺を乗せた車や親類縁者の車両を先導する。道路がどんなに渋滞していようとも、一般車両は道をあけて、死者に敬意を払う。街中が葬列に参加する趣である。

 インドネシア中の民族が集まるジャカルタではあるが、死者に対する礼は共通する。また、インドネシアは多宗教ではあるが、宗教間のこだわりも感じられない。異なることは時の変遷に応じて、葬儀も一層盛大になることだ。田舎での葬送はまだ伝統的な形で行われているようだが、ジャカルタ同様に盛大になっているようだ。

日本人航空事故死者の火葬に協力

 埋葬場所は一般的には公共の葬苑であるが、宗教ごとに住み分けがある。特に華人系の葬苑は独立しており、イスラム教徒の墓碑と異なり、中国式のものとなっている。華人の墓碑は所得レベルの差が歴然としているようだ。

 一般の葬苑は、「ブンガカンボジャ」とよばれる白い花を常時付けた木々に囲まれている。この木は野生動物が嫌う匂いを発し、古来、土葬される遺体の保護に役立つようだ。日本でも、和歌山県などには墓前の供花に代えて「しきみ」を植えたり供えたりするのと同じ発想であろう。近頃はジャカルタの人口膨張によって、埋葬場所も不足しており、また新たに葬苑を開発する余地もない。日本のように葬園事業が市場化されておらず、不動産業者は都市部の土地にはオフィスビルやショッピングモール建設を優先するからだ。経済の近代化は拝金主義とともに、死者を粗末にするようである。

 墓地不足ということとは別に、もともと故郷での埋葬を望む死者やその家族も多く、航空機による遺体搬送も増えている。この場合に重要なことは、イスラム教徒は死後24時間以内に埋葬されないと天国へ行けないとされ、緊急に葬儀手続きがなされなければならないことだ。死体の搬送は金持ち、貧乏人を問わず、一族郎党が協力して行う。

 インドネシアでは土葬が主流の埋葬方法であるが、火葬も可能である。ジャカルタにも火葬場が1か所設けられている。仏教徒及び火葬を伝統とする宗派や外国人死者のためのものであるが、これ以上に重要な社会的要因として、インドネシアが宗教間の調和を原則とする社会であるということである。1970年代初めにインドネシア発ホノルル行きのパンナム機がバリ島で墜落した。犠牲者の中に30余名の日本人がおり、遺体はかろうじて火葬にされた。バリ島はヒンズー教徒が大多数を占めており、バリ人がヒンズー式の火葬に協力してくれた事実がある。バリ人の協力を得るためには遺族だけでなく、在留邦人をはじめ日本政府のインドネシア政府に対する協力依頼も欠かせないことであった。当時のバリ島は現在のように日本人にはポピュラーではなく、領事館もなく領事事務は東ジャワにあるスラバヤ領事館が兼務する時代であった。

「泣き屋」雇う華人、感情抑えるムスリム

 敬虔なイスラム教徒は墓参を欠かさない。ジャカルタに移住した人たちは年に1度のレバラン(断食月明けの大祭)休暇の際に故郷で墓参をする。この休暇は日本人の盆・暮れの帰省と同じようなものである。筆者も友人の帰省に同行して西ジャワ州のタクシマラヤという町に同行し、イスラム式墓参を体験した。

 タクシマラヤはスンダ人地域であり、ジャワ更紗(バティック)をはじめ手工業産業地域である。バリ島土産として人気のあるバリレースの産地であることは意外に知られていないし、北海道の熊の木彫り、仏壇、スウェーデン家具なども生産する。近くのガルンガン山は活火山で、十数年に1回は噴火する。温泉もあり、日本式スパなどを建設して現地の雇用拡大を図ってもよい。友人は村の有力者の一員であったため一族郎党の数も多く、墓参は遠足気分でもあった。畳1畳ほどの墓碑を一族が囲むが、頭の部分には長老である友人が跪き、筆者はなぜか客人とされ彼のとなりに跪いた。10分ほど呪文が唱えられ、献花された。もちろん筆者に呪文の意味は理解できなかったが、アラビア語であった。日本人でも僧侶の読経を理解できないのだからそれはよしとしよう。

 後で聞いた話であるが、友人の家族の墓は10年経つと土に返され、別人の墳墓にしてもよいとのことである。他のイスラム教徒も同様かどうかについては確認をしていないのであしからず。

 葬送から窺えることは華人の場合は分かりやすい。華人は仏教徒でもキリスト教徒でも、死者を悼むために「泣き屋」を雇い、親族がいかに死者を大事にしていたかを明らかにする。特に仏教方式では顕著にみられる。かつて、タイやマレーシアでも華人の葬儀に遭遇したがインドネシアでもほとんど差がないようだ。華人の葬送スタイルは中国本土のみならず華人が住む東南アジアでは共通する。

 イスラム教徒の場合は「死」を天命と受け止め、努めて悲しみを表現しないのかもしれない。筆者の乏しい体験を述べる。2度目のジャカルタ滞在の折に使用人の姉がお産直後に母子ともども亡くなったのだが、その家族は天命であるとし、医者等の不手際などを一切非難しなかった。家族の気がかりは死者が天国に行けるかどうか、行かせるために24時間以内に故郷での埋葬を執り行えるかどうかにあった。もちろん費用も気がかりであったようだが、それは問題外のようであった。すべてがアッラーの思し召しと思うことで悲しみや死に対する恐怖を和らげようとしているようである。これは異教徒の単なる誤解かもしれないのだが。

英雄墓地に入らなかった海軍の将軍

 今年の5月20日、1人の元政府高官が逝去した。元ジャカルタ州知事のアリ・サディキン海軍中将である。国民的英雄であり、だれしもが英雄墓地「カリバタ」に葬られると思っていたが、本人の遺言により公共の墓地に埋葬された。その理由は憶測にすぎないが、知事退任後はスハルト元大統領に反旗を翻し、「ピティシ・50」という批判グループを結成したことにある。筆者流に考えれば同将軍は庶民の将軍の意思を貫きたかったのではなかろうか。

 「カリバタ」は庶民や外国人が立ち入り難いところである。幸い、筆者は1度入ったことがある。友人であり、筆者がその回顧録を日本語に翻訳したことのある某政府高官の口利きによるものであった。その際は、1965年に発生した9・30事件(共産党クーデタ未遂事件)の犠牲となった6人の将軍と、1人の生き延びた将軍の補佐官の墓を見たかったためだ。英雄の墓ではあるが、墓碑そのものは大きくなく、イスラム教徒はアッラーの前ではすべて平等であることを感じた。9・30事件を契機としてスハルト元大統領が登場し、インドネシア2代目大統領として32年間の権勢をほしいままにすることになった。その代償は、事件によって数十万人と言われるインドネシア人の血が流れたことである。

 しかし、サディキン将軍の葬送は荘厳であった。逝去したシンガポールの病院から搬送された後、政・財界をはじめとする錚々たる顔触れの人たちが弔問した。インドネシアのステータスの高い人への儀礼でもある。さらに、軍高官ということで、軍の葬送儀式も荘厳であった。自宅からの出棺時には海兵隊司令官指揮下に葬送式が行われ、埋葬時には海軍参謀長の指揮による埋葬式が執り行われた。もちろん葬列は大規模であったが国葬ではなく、元知事の出身母体である海軍及び海兵隊葬である。軍高官が英雄墓地に埋葬されない稀なケースであったが、軍の威光発揮をすることはインドネシアにおいて重要な政治マターといえる。特に、スハルト失脚後の軍の威光は地に落ちている現状況において言えることだ。

 失脚したスハルト元大統領の葬送は国葬で、その屍は中部ジャワ州に前もって建立されていた霊廟に祀られている。不名誉な理由で失脚しても大統領は大統領として葬られるのがインドネシア流である。建国の父と崇められるスカルノ元大統領はスハルト元大統領に失脚させられたのであるが、東部ジャワのブリタールの霊廟に祀られている。その長女メガワティ・スカルノプトリ氏は、わずか2年間であったが、インドネシアの第5代大統領を務めている。 おむら・けいじ 早稲田大学卒、都立大大学院修士課程修了。アジア経済研究所に入り、在ジャカルタ日本大使館へ出向、米国ジョージ・ワシントン大学客員研究員、インドネシア大学客員教授、嘉悦大学教授などを経歴。著書に、アダム・マリク元副大統領回顧録の翻訳「共和国に仕える」や「インドネシア政治動揺の構図」「インドネシア経済 野心的再建計画」など。

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 尾村敬二(おむら・けいじ)
 早稲田大学卒、都立大大学院修士課程修了。アジア経済研究所に入り、在ジャカルタ日本大使館へ出向、米国ジョージ・ワシントン大学客員研究員、インドネシア大学客員教授、嘉悦大学教授などを経歴。著書に、アダム・マリク元副大統領回顧録の翻訳「共和国に仕える」や「インドネシア政治動揺の構図」「インドネシア経済 野心的再建計画」など。


「再生」第70号(2008年9月)

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