海外の葬送事情

パプアニューギニア

遺体前に歌う森の歌、弔問客は唱和
 先祖伝来の土地の情景に悲しみ託す


                         吉田匡興(桜美林大学講師)

 パプアニューギニアは、人口約600万人、オーストラリアの北側にある熱帯の国で、世界で2番目に大きな島ニューギニア島の東半分とその周辺の島々からなっています。第一次世界大戦後にオーストラリア領となり、1975年に英連邦の一国として独立しました。太平洋戦争中は、推計16万人余の日本人将兵が飢えとマラリアに苦しみながら亡くなりました。この惨禍を思い出される方も多いでしょう。ここで紹介するのは、私が文化人類学的な調査を行っているアンガーターテ地域に住むアンガティーヤという人々の葬送のあり方です。

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■50年代に「白人」社会と本格遭遇

 パプアニューギニアには、独自の言語や習慣を持った民族集団が多く存在し、その数は800にのぼると言われます。アンガティーヤは、人口が約2500人の、そうした民族集団の一つです。この人々のやり方がこの国全体の葬送観の基調にあると言うことはできませんが、深い森の奥の自然と密着した葬送には深く考えさせるものがあるように思います。

 彼らが暮らしているアンガーターテの地へ行くには、パプアニューギニア第2の都市レイから4輪駆動車で、8時間ほど未舗装の山道を登らなければなりません。道路は度々がけ崩れで寸断され、雨が降ると沼のようになってしまう所もあります。アセキという小さな町に着いてからは、20キロほどの道を歩いて行かなければなりません。

 たどり着いたのは、標高1200メートル前後の山の斜面にある森と草原の混じった土地でした。昼間の日差しは肌を刺すように強いのですが、朝晩はずい分冷え込みます。生活の単位は夫婦と子どもたちの核家族で、先祖伝来の森に焼畑を拓き、コーヒー豆や主食のさつまいもやタロイモ、野菜を栽培して生計を立てています。夫が高床式で切妻造りの住まいのための材木や竹などを森から切り出して壁や床を造り、妻が草を刈り取り屋根を葺くのです。家の周りにはバナナの木や竹、観葉植物が植えられます。

 こうした家々が集まってできた大きな集落が4つあり、各集落にはキリスト教ルーテル派の教会が住民の手で建てられています。教会の建物も、森から切り出した材木などで建てられますが、屋根だけはトタンで葺かれています。草の屋根は、数年で腐食してしまうからです。

遺体
埋葬を前に、家の外に出された遺体。参列者は別れを惜しむ

 アンガティーヤの人々が豪州植民地行政府などの「白人」と本格的に遭遇したのは、ようやく1950年代に入ってからで、51、54、57年に行政府のパトロール隊が来訪します。それまでは、近隣の異民族と土地をめぐり激しい争いを繰り広げ、大勢の人が死んでいます。人々は、戦いを通じて祖先伝来の土地を守り、自分たちが一つの集団であることを実感していたようです。いまも、彼らは祖先の勇敢な戦いぶりを熱心に語ります。

 植民地行政府が民族間の争いを厳しく押さえ込んで一応の平和状態が出現し、1956年以降キリスト教ルーテル派のニューギニア人伝道師が布教活動を展開、1963年までには多くがルーテル派に入信、いまでは、公式には全員がキリスト教徒です。

■特別な礼拝の対象にならない墓

 各集落には教会に加えて共同墓地が設けられました。人が死ぬと、遺体はコーヒー豆をいれるビニール袋で作った担架に載せられて自宅に安置されます。遺体が自宅に置かれている期間は、大勢の弔問客が見込まれる成人男性の場合は2、3日、女性であれば1、2日、子どもなら1日といったところです。遺体は棺に入れることなく担架で家を出て墓地へと向かいます。墓地に着くとまずキリスト教式の礼拝が行われ、それから参列者はひとりひとり遺体と握手をし、遺体は墓穴に収められるのですが、遺族の中には、自分も墓穴に入ろうとする人や地面に伏し泣き叫ぶ人もいます。アンガティーヤにおける感情表出の激しさを実感する瞬間です。

墓碑
セメントの台に埋め込まれた墓碑

 埋葬直後の墓には木でこしらえた簡単な十字架を立て、数年後にお金を貯めて墓碑を設けるのが一般的です。墓碑設置にあわせて親類縁者を招待し、数頭の豚をつぶして肉や米飯を振る舞います。この墓碑設置を境に、「死者のことを忘れてしまう」とアンガティーヤの人々は言います。墓碑は設置するものの、墓が特別な礼拝の対象になることはなく、遺族がその後そこを訪ねることもほとんどありません。遺骨を死者の代理として特別視する観念は希薄なようです。

共同墓地での埋葬が始まったのは、キリスト教進出以降のことです。お年寄りに聞くと、土葬が取り入れられる以前は、遺体は自宅に数日間とどめられた後、死者が祖先から受け継いだ森の中に建てた小屋や岩陰、洞窟の中に安置されたそうです。遺族は、遺体の安置場所をそれが腐敗するまでのあいだ訪れ、骨になってしまったところでそれを集めます。遺骨は祖先伝来の土地の中にある大きな樹木にひっかけたり、あるいは岩陰や洞穴に置かれたりしたということです。

 アンガティーヤの葬送は、キリスト教進出前後で、大きく変わったということも出来るでしょう。しかし、それ以前と変わらないと思われる葬送のかたちもあります。自宅に安置された遺体の周囲で、遺族や弔問客が泣くそのやり方です。

■むせぶような声で聞こえてきた歌

 初めて葬送の場に立ち会ったのは、2000年の3月5日のことでした。フィールドに入ってひと月が経ったころです。死者の家は、川の向こう、山の中腹にある集落の中の一軒です。私の下宿先から1時間半ほど歩いて到着した家の前にはテントが張られ、人であふれ返っていました。恐る恐る家に入ると、窓がないために暗い家の中は座る隙間もないほどです。遺体を遺族が取り囲み、取りすがりながら泣いていました。遺体の枕頭で、家族の一人が葉のついた枝を手に持ち、左右にゆっくりと揺らしています。遺体にたかる蝿を追い払っているのです。

 遺族の周囲で、大勢の人々が調子をあわせて「イエーイエー」という掛け声を繰り返し、それが終わると、別の節回しで「アウェアウェ、アウェ」という掛け声に移り、それからまた別の掛け声へと移っていきます。掛け声の間からは、何事かをむせぶように口説いている声が聞こえてきます。

 自分は調査にきたのだから、この泣き声や掛け声を録音しなければと思いながらも、そうした振る舞いが不謹慎にも思われ、なかなか録音の許可を求めることができないでいました。しかし、それでは何のためにわざわざニューギニアに来たのかわかりません。思い切って遺族に尋ねると、ぜひ録音してくれとの答えが返ってきました。

 ちょうど埋葬が行われる日でした。遺体を運び出す前に、参列者に食事を振る舞うのがアンガティーヤのやり方です。地面に掘った穴に焼き石を敷いた石焼き炉で調理され豚の肉、さつまいもや野菜、そして炊いたご飯などが、屋外のテントで供されました。

 埋葬にも立ち会うつもりでしたが、午後3時を過ぎた頃に雨が降り出しました。同行してくれた男性が、早く帰るよう促します。残りたいと伝えたのですが、川が増水し渡れなくなるとのことです。川に着くと、来た時は膝の下くらいだった水かさが胸くらいにまで来ていました。森の中を迂回して帰ったのですが、びしょ濡れになって家に着いたときは夜8時を過ぎていたでしょうか。

 帰宅して数日が経ち、助手の男性に手伝ってもらいながら録音の翻訳に取りかかりました。そして分かったのは、大勢の掛け声の間から聞こえたむせぶような声が歌だということでした。歌い手自身の森や土地のことを歌っていたのです。歌詞は、次のようなものです。

 ――言葉を交わしあうがよい。カウィヤソム山、ウカトゥオグ山(の)ヤマルナアア(花をつけるつる草)。開いている時、閉じている時、話をせよ。オナアマ川、カサワ川、イワアトゥアパ川、アサタワサムトゥ川(が山の近くを流れていく)――「話す」というのは、互いに近くに咲いている花が風に吹かれて揺れている様を喩えた言葉です。

 インコをうたった歌もありました。

――パララオモの木、ナズィメアタムの木、(この)細い枝の中で、お前は(インコは)叫ぶ。シャプトオム山、ウオプノアイの草原、プジュモアグの森の中(にあるその木で)。マアウアノの木、ショアイプオオムの木、その木の太い枝にある枯れ枝、蜘蛛の巣、ビンロウジの花のなかでお前は叫び、そして寝る。プペアウ(近隣異民族メンヤの一氏族)の男が、カムトテアウの男(同じくメンヤの一氏族)が、ナインジャウの男(メンヤの一氏族)が、そしてアイパ(アンガティーヤ内の一氏族)の男が矢を向けて、(インコに)次の矢を撃つ。次の矢を撃つ。

歌い手は、自分たちの一族が祖先から引き継いだ土地の中にある特徴的な場所―山、川、滝や岩-や、そこに生息する動植物たちの様子を歌っているのです。ひとつのテーマにはひとつの掛け声が対応し、別のテーマに移ると新しい掛け声で唱和します。それぞれのテーマを、歌い手の始祖が初めて土地を歩き巡った順序に従って歌いながら、いま自分の生活の舞台になっている土地を歌の中で巡り歩いているのです。

■泣きあって互いのつながりを確認

 アンガティーヤの人々は、この歌を歌うだけで、悲しみはさらに深まると言います。祖先伝来の土地の情景は、悲しみの表出を託すにふさわしいのです。少々、硬い言い回しになりますが、彼らにとって、祖先伝来の土地は、「存在の根拠」とでも呼べそうなもののようです。これは、人々がキリスト教の洗礼名と並んで、依然として祖先伝来の土地に因む名前も持っていること、自分たちの土地の素晴らしさを繰り返し語る際の熱を帯びた調子などからもうかがえます。

 葬儀への参加を重ねるうちに分かったのは、人の死に際してうたわれる森の歌は、死者のためというよりも歌い手自身のために歌われる色彩が濃いということでした。どんな時も、誰の死に際しても、人は自分の森を歌います。死者に合わせて歌を変えることはありません。レイにある病院でひとりの男性が亡くなった時、彼の年配の兄弟や従兄弟たちは、遺体の到着前に仲間うちの家で土地の歌を歌い始めました。若い世代が、「遺体が到着してからにしては」と勧めたのですが、お年寄りたちは聞き入れません。歌は、自分たちの感情の自然な発露として位置づけられているのです。

 悲しむ遺族を囲み、大勢の人が森の歌を歌いながら泣くことは、遺体が自宅にあるあいだ休みなく続きます。葬送のほとんどは、この「泣く」という営みが占めています。悲しみはひとりきりの経験ではないのです。遺族が泣いているから自分も泣くのだ、と語ってくれた人物もいます。葬送の席では、泣くことを通じて人と人とのつながりが立ち現れてくると言えそうです。そして、残された者の悲しみを表現するのが、祖先伝来の森の情景なのです。

 また、レイの病院で死んだ男性の場合もそうでしたが、よそで死んでも、遺体がアンガーターテの地に運ばれることに例外はありません。死にゆく人はアンガーターテの地への帰還を願い、家族もまたそれを強く望む。死に際して人々が立ち返るところが、祖先伝来の土地なのです。

 アンガティーヤでも、日本の葬送事情についてしばしば尋ねられます。日本では焼いて骨にすると話すと、「ヨシダが焼かれてしまうのは忍びない」と人々は言います。「ここに埋めてやるから」というお年寄りも何人かいますが、私は葬られるのなら故郷・富山市の、お盆に毎年家族で行った墓のある丘陵・呉羽山がいいという思いを抱いています。呉羽山からは、市街が一望でき、立山連峰も見渡せます。お年寄りの思いにうなずくことができない私自身の気持ちは、もしかするとアンガティーヤの人々が祖先伝来の土地に寄せる思いと重なるのかもしれません。

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よしだ・まさおき 1970年、東京で生まれ富山県で育つ。文化人類学専攻。2000年からこれまでに計34ヶ月間、アンガティーヤ社会の呪術信仰などについてフィールドワークを行う。

「再生」第77号(2010年6月)

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