自然葬と現代社会・論考など

「千の風になって」の作者は米国の主婦だった

作者探しの本に、新井満さんも「納得いく解答」と

                      吉田秀樹(関西支部代表世話人)


 今年の2月、『「千の風になって」紙袋に書かれた詩』(井上文勝著、ポプラ社)という本が出版されました。インターネットなどを手始めに「千の風になって」の原作者探しをすすめると、アメリカのボルチモアに住んでいたマリー・E・フライという一主婦に行き着いた。その主婦はどのような人か、詩はどのようにして書かれたかを取材した記録です。

 朝日新聞にも紹介され、また、原詩を訳し曲をつけて広めた新井満さん自身が、新聞で「ようやく納得のいく解答にめぐり合えた」とコメントしています。でも、それほど話題にならず忘れ去られそうです。読まれていない方も多いのではと思い一文を書いてみようと思いました。

紙袋
『「千の風になって」紙袋に書かれた詩』

 日本では、この詩は『あとに残された人へ 1000の風』(訳・南風椎、三五舘)という本で初めて翻訳、紹介されました。1995年のことです。詩に感動した作家で作詞・作曲家の新井さんが新しく翻訳し、曲をつけ私家版CDにし、2003年8月、朝日新聞のコラム「天声人語」で紹介されたのが爆発的な流行のきっかけになったことは、昨年の会のシンポジウム「自然葬と千の風」でも明らかにされました。

 この間ずっと、原作者は不詳で諸説があることになっていて、アニミズムに近い内容だからネイティブ・アメリカンの誰かが書いたと考えるのが自然、などとされてきました。

 当初から、欧米ではかなり知られていることは分かっていました。新井さんは2003年出版の『千の風になって』(講談社)で、次のような例を紹介しています。

 ・1977年、映画監督のハワード・ホークスの葬儀で、俳優のジョン・ウェインが朗読した。

 ・1987年、マリリン・モンローの25回忌にワシントンで行われた追悼式で朗読された。

 ・IRAのテロで死んだイギリス軍兵士が両親へと託していた手紙を開封すると、この詩が出てきた。1995年、BBCで父親が朗読する模様が放送されると、反響を呼び、「詩のコピーがほしい」というリクエストが殺到した。

 ・2001年9月11日、ニューヨーク同時多発テロ事件で父をなくしたブリッターニさん(11歳)が、2002年にグランド・ゼロで行われた1年目の追悼式で朗読した。

 そして、作者については、19世紀末にアメリカに移住したイギリス人男性説、米国先住民の伝承説などとともに、メリー・E・フライというイギリス人女性が1932年に書いたという説などがあると紹介しています。そして天声人語を引用し、「どこで生まれたのか分からない、風のような詩だ」と記しました。歌の大ブレークで作者探しどころではなくなったでしょう。

  『「千の風になって」紙袋に書かれた詩』の著者、井上文勝さんは、イスラエル占領下のパレスチナに住む建築家です。2007年5月、東京の実家に帰省するとテレビやラジオで毎日「千の風になって」の歌が流されていました。パレスチナに帰り、原作者についてインターネットなどで調べると、たくさんのことが分かってきました。

 本によると、新井さんが書いた以外にも1960年代から、5歳で死んだ子どもやベトナム戦争で死んだ息子をしのぶ投書でこの詩が新聞の追悼欄にたびたび紹介され、ジョン・レノンの死の際の投書にも登場していました。

 1979年10月、NBCテレビで、あるドラマが放送されました。老人ホームの入居者が、ホームの運営に不満を持ち反乱するコメディーで、亡くなった仲間の墓前で指導者がこの詩を読みあげる場面が放映されると、視聴者から詩のコピーを求める電話が殺到しました。しばらくして、NBCに一通の手紙が届く。ボルチモアのマリー・E・フライと署名があり、「詩は実は私が書いたものです」とありました。

 作者については、もともと自薦他薦の名乗りがたくさんありました。インディアナポリス紙芸能ジャーナリストのリチャード・K・シュール記者が、手紙に興味をもち取材を始めました。マリーと電話や手紙でやり取りを続けたシュール記者は、この人こそ原作者と確信し、4年後の1983年6月にインタビュー記事をテレビ欄のコラムに発表しました。翌年には、ボルチモアの地元紙も「マリー・E・フライの詩は50年を経てアメリカ国内での認知を得た」という記事を載せています。マリーは新井さんがイギリス女性と書いていた人物です。

 この中で、マリーは「千の風になって」は1932年に書いたこと、友人のユダヤ人の娘がナチの嵐の吹きすさぶドイツに残してきた母が亡くなったことを知り、お墓の前に立って泣くことができずに苦悶する姿を見て慰めるために書いたことなどを語っています。

 その記事も全米的にはそれほど注意されることもなく、1986年、著名なコラムニストのアン・ランダースがスペースシャトル、チャレンジャーの爆発事故で亡くなった7人の乗組員を追悼する投書にこの詩があったことを紹介したときは、再び多数の自称原作者の名乗りの場になりました。しかし、翌年にはフロリダで発行されている季刊詩誌に「マリー・E・フライ、悲しみにくれたときの友人」という特集が載ったり、2000年には、カナダのCBC放送が「詩的な旅」というラジオ番組でボルチモアのマリー宅を訪れ、94歳のマリーにインタビューしていたようです。知る人のなかでは、すでに「作者不詳」ではなかったのです。

 1999年7月には、上院議員のエドワード・ケネディから、「軽飛行機事故で亡くなった兄の息子夫婦の葬儀で、あなたの詩を読ませていただきたい」という電話もあったようです。

 マリーは1905年オハイオ州デイトン生まれで、3歳で孤児になり、12歳でボルチモアに移り住んだと話しています。10歳から家政婦として働き始めながら近くの図書館で独学し、ほかにも詩誌のコンテストで入賞したことがあります。CBCのインタビューでマリーは、詩の中の「私は雪の面のダイヤモンドのきらめき」とある部分について、「これは誰かが変えたのです」と語り、原詩は「私は静かに舞い落ちる雪」だったなどと話したそうです。2004年に98歳で亡くなりました。

 井上さんは、マリーの娘のリンダにも克明な取材をしています。本の表題に「紙袋に書かれた詩」とあるのは、詩は最初、マリーが母の死で悲しむ友人の娘とともに買い物をし、そのときの紙袋の切れ端に書かれたからだそうです。マリーは著作権のようなことには無関心でした。そのことが後に世界的な規模の「作者探し」を生み出したのでしょうか。



再生78号(2010.9)

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