会員総会記念講演

ツブリの餅、骨正月の餅…
もとは遺骨だったかもしれない
根底に、死者の魂を体内に生かそうとする骨噛み習慣も

2005年会員総会記念講演
 民俗学者 酒井卯作

 死んだ人とどうつきあうか、これにはおよそ2つの方法があります。1つは、墓や盆行事のように、自分の体の外に死者の魂をおいて祀ろうとする方法、もう1つは自分の体内に死者を同化してしまう方法です。ここでは後者について考えてみます。つまり死者の骨を噛むという、現代ではかなり猟奇的と思われる風習の中に、死者とのつきあいをみようというわけです。

四十九日に寺や墓で食べる餅

 日本各地では、49日というのが、死者を祀る行事の1つの節目になっています。死んだ人は、およそ49日ぐらいまでは家の棟あたりに留まっているというのは、日本各地にその伝承があります。その頃、葬家では49個の米の団子、もしくは餅をついて、これを寺に届けるか、若しくは墓に持っていきます。
 49日で一応忌が明けますから、その忌明けの行事ですが、そのときの餅の上に、さらにもう1個、大きな餅を添えます。これをツブリの餅、つまり頭の餅と呼びます。三重県尾鷲市の例をあげましょう。ここでは四十九日に1升餅を1臼でつきあげ、これを50等分します。それを寺に持参して、1個だけを盗むようにして家にもち帰り、それを家族一同が分けて食べました。福島県岩瀬郡旧白方村では、49の餅は墓に持参して、塩をかけて身内の者が餅を引っぱりあって食べました。
 頭になぞらえた餅を、なぜに一家で分け合って食べたのでしょうか。その意識の底には、死んだ人の魂を、自分の体に同化しようとする考えがひそんでいたからに違いありません。今では、例えば熊本県宮地地方のように、頭の餅を家人に知られぬように盗んで食べると、百日咳がなおるとか、佐渡では喘息がなおるなどといいます。おそらくこのような伝承は、本来の意味が忘れられてしまってからできたものでしょう。
 別の角度からこの本来の意味を考えてみます。四十九日ではなく正月前後の行事として似た風習があります。高知県から徳島県の太平洋沿いの各地では12月初己の日に、骨正月といって、その年に死んだ人の正月をしたものです。大月町の例をあげましょう。ここでも骨正月には1升餅を1臼でつきあげ、これを夜明け前、墓にもっていって、墓石を俎板にして小さく切って食べました。

屋久島の骨正月では魚の骨

 餅を小さく切って食べるのに、なぜに骨正月というのか。これはさきの49の頭の餅の食べ方とほとんど同じですが、本来は餅ではなくて、ほんとうの骨であったかもしれません。鹿児島県屋久島では正月20日を骨正月といって、ここでは餅ではなく、魚の骨を食べます。そのときの食べ方は、魚の骨を叩いて、その身をせせって食べるので、ふだんこんな食べ方をすると叱られたそうです。まさしく骨正月なのかもしれませんが、長崎県西海町では鶏の肉です。ここは筆者の生まれ故郷ですからよくわかります。
 ここでは12月13日、骨切り飯というのを作って食べます。米飯に野菜と鶏を炊き込んだ混ぜ飯で、甘藷と麦飯ばかりの生活でしたから、この骨切り飯はたいへんおいしかったことを覚えています。この飯の理由を聞くと、老人たちは一様に、末子を殺して食べたからといいますので、子供心に、何となく恐ろしかった思い出があります。長崎空港のある大村市の萱瀬ではこれを「聟どんの骨しゃぶり」といいましたから、少なくとも餅や団子ではなく、このとき何かの動物の骨か肉を食べたことは想像できます。
 四十九日の忌明けではなく、なぜ年の暮に死者のための骨正月をするのかは、柳田国男氏の説があります。それは本式の正月を迎えるにあたって、亡者と最後の食事をして、新春を迎えようとする絶縁の式だろうというのです。
 つまり、四十九日も年の暮も、死者と縁を切ろうとした行事には変わりないので、その絶縁の機会が、四十九日前後の頃か、年の暮頃だったのか、その時期についてはまだ検討する余地があります。私の考えでは、たぶん四十九日頃を、昔は死者との最終の別れをした、と思っています。それは死者の魂を呼び出して、その声を聞いて魂を鎮めるための巫女の口寄せが行われるのがこの頃で、死者が腐敗を終えて骨化するのもこの頃だからです。

 これを思わせる風習を、鹿児島県の沖に位置する悪石島(あくせきじま)にみましょう。ここでは死後3日目に塚丸めといって墓地の整理をします。このとき、墓地の入口の石の上に49個の餅を供えますが、その餅は、以前は人間の頭や手足を形どったものでした。それを墓地で残さずに食べてしまいます。
 要するに、忌明けという機会に、餅を人間になぞらえて食べること。さらには動物などの骨を故意に食べること、これらを重ね合わせてみれば、ひょっとしたら、人を食べたかもしれないという想像するのは、決して無理ではないと思います。
 もちろんこうした考えには異論があります。葬式には経済的負担が大きいから、その形容として骨をかじるというのだ。親のすねかじりといっても、じっさいにはかじるわけではないではないかなど、むしろ否定する考えが多いのは、現代の感情からすれば当然かもしれません。

納骨した残り骨を薬にする風習

 しかし次の例をみて下さい。間接ですが、人をかじることはありました。児玉識氏によれば、山口県の笠佐島は浄土真宗地帯ですが、ここでは骨の一部を京都の西本願寺に納骨してしまえば、残りの遺骨は捨ててしまいます。その捨てた骨を薬として飲む風習が、大正時代まであったそうで、長野県伊那地方や群馬県多野地方では、墓の穴掘りのとき出てきた古い骨は持ち帰って、解熱用に砕いて飲むといいます。
 遺骨が内服薬としての効果があるばかりでなく、外薬としても利用されました。筆者の義母は栃木県産ですが、打撲傷には人骨を粉にしたものに小麦粉を混ぜて、これを練ってつければ効果はてきめんだといいます。
 こうなると、遺骨はまさしく万能薬の感じがします。さきに四十九日の餅を盗んで食べると百日咳がなおるというのも、じつは餅ではなく、もとは遺骨であったのかもしれません。屋久島の例のように、わざわざ人間の手足を形どった餅を食べるのも、その考えの根底には遺骨をかじることにあったと思います。
 遠まわしの話はやめて、もっと現実の問題に入りましょう。じっさいに死者の骨を噛む例は日本でも珍しいものではありません。香川県の佐柳島では親が死んで湯潅をするとき、親の指を噛むそうです。これを「親マケ」といい、兄が先に死ぬと「兄マケ」といいます。この場合はナマの指を噛むのではなく、もとは火葬骨を噛んだ風習の変化したものかもしれません。じっさいに遺骨を噛む例は各地にあります。
 考古学者である国分直一氏によれば、山口県岩国市東部の周東町では明治40年頃、埋め墓から火葬にして拝み墓に骨を移すとき、その骨を「おやじの骨」といって噛んだといいますが、この付近にはこうしたことは珍しくなく、明治40年に生まれた女性の話によれば、ある家の奥さんが、亡くなった主人の骨を噛んだというし、また故宮本常一氏によれば、山口県大島で、氏の祖父が亡くなったとき、その火葬骨を、叔父にあたる人が噛んだといいます。

白骨になると消える穢れ感情

 死は本来は穢れであり、恐怖でもあります。しかしこれが風葬や火葬などによって白骨化してしまった状態になれば、穢れの感情も変わります。そこにあるものはもう人間ではなく、石灰質の白い固まりです。せめてもの死者の思い出に、その白い骨を身に着けようというのは、けっして異常とはいえないでしょう。日本では弥生時代に死者の骨、とくに歯や指などに穴をあけて装飾した例がありますが、現に沖縄の粟国島では八月踊りの歌に「親ぬたま骨や、糸口抜ちためて、黄金と思うて首にはちゅさ」とあります。親の霊骨を首に下げて、それを黄金のように大事にしようという意味です。そこにはもう、死者への穢れの感情は見当たりません。
 死者に対する愛情は、このようにして死者のものを身につけることで具体的になるのです。かつて大正9年12月20日の読売新聞の随筆欄に、次のような記事がありました。郷里に菩提所がないので、海外生活をして転々としているうち、持参してきた亡父の遺骨が少しずつ砕けて容積が減っていく。砕けすぎた骨は捨てるわけにもいかないので食べてしまう。そのために日本に戻ったときは、骨の量は半分に減っていた、という話です。
 こうした例をみると、私たちは、遺骨について大きな関心を抱きすぎたような気がします。死者への追憶が、冷たい石に名を刻んで、思い出したときお参りに行くばかりではなく、自分の血の中に死者の思い出を生かし続けようとする骨噛みの習俗もあったのです。芸能社会せ慣習となっている襲名なども、その変形の一つだと考えられます。要は、墓は自分の心の中に建てるものです。

(了)

酒井卯作(さかい・うさく)さんは1925年長崎県生まれ。日本の民俗学の始祖と言われる柳田国男の最後の高弟で、とくに琉球民俗学の第一人者として知られる。本会の副会長。