シンポジウム

20周年記念京都シンポジウム 「自然葬を語る集い」

大転換期迎えている日本人の葬送
自由に、墓にこだわらない死生観


 関西では初めてとなるシンポジウム「自然葬を語る集い」が、会結成20周年事業として1月23日、京都市の京都教育文化センターで開かれ、大きく変わる現代の葬送事情と自然葬の広がりを背景に大きな議論が展開された。北海道や四国からも含めて参加者は180人。講師は、会の顧問でもある宗教学者の山折哲雄さん、国際日本文化研究センター教授の末木文美士さん、歌人の道浦母都子さん、安田睦彦当会会長と司会役に帝塚山学院大教授の中川謙さん。5人の講師の話のなかから、歴史の転換期のなかにさ迷う日本人の横顔も浮かびあがり、会の運動を深く考えさせる場にもなった。

【出席者】

山折 哲雄さん
本会顧問、国際日本文化研究センター名誉教授。専門は宗教学、思想史。
末木 文美士さん
東大教授を経て国際日本文化研究センター教授。専門は仏教学、日本思想史。
道浦 母都子さん
歌人。歌集『無援の抒情』で現代歌人協会賞を受賞。
安田 睦彦
本会会長
【司 会】
中川 謙さん
朝日新聞パリ支局長、外報部長、論説副主幹などを経て、帝塚山学院大学教授。

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中川 今年65歳、法律上の高齢者になります。友人が自分の墓をつくった、やっと安心して死ねると話していました。これまでなら、よかったなというところですが、自然葬という言葉をインプットされて考えが違ってきた。墓をつくるとなぜ安心できるのか、勉強しなくてはと思いました。この友人は長男なので、なぜ家の墓に入らないのか聞いてみました。家は広島で遠い、住居に近い宝塚市の高台に買ったという。家族のありかたが変わり、核家族化がすすみ、墓も拡散している。人が死ぬと火葬し骨揚げし骨つぼに入れ墓に納める。御影石の立派な墓がたつ。そこにも無自覚だった。環境を考えても、墓石にする石材を掘りだすことから始まり、墓園を造成など含めて相当な負荷を与えている。死生観、家族のあり方、墓そのもののあり方、葬儀など含めて墓を考え直してみなくてはいけないと強く思いました。まず、「自然葬と私」といったところから始めたいと思います。1人10分ぐらいで……。

墓を否定しているわけではない=安田

安田 私は運動をしてきたので、そのきっかけから話したい。多摩川上流の東京都の水源林にある過疎村でリゾート開発の話が出て、木が切られようとした。水が汚れると都民は反発し、過疎から脱却しようとする村と対立した。水問題をやっていたので相談を受けた。そこで「再生の森構想」を考えました。東京は墓地不足で困っている。遺灰を過疎村の森に還せば山を肥やすことができる。基金を積んで村おこしに使ったらどうか。全国に広がれば環境対策になる。民俗学者の柳田国男は、このまま墓がつくられていったら日本中が墓だらけになってしまう、と為政者に苦言を呈しています。

 ところが、当時私は葬送のことは知らなかった。遺灰を自然に還すことは日本人になじむだろうか。法律的にはどうか。墓地埋葬等に関する法律(墓埋法)がある。焼いた骨も墓に納めねばならない。また、遺骨遺棄罪という刑法の規定がある。宗教感情を保護するための規定だが、灰をまくことは遺骨遺棄に当たらないか。これらが壁になった。

 葬送の歴史でいうと、昔は「おきつすたへ」といって屍を山野に放置し風化にまかせていた。奈良時代に仏教が入ると火葬が貴族階級に浸透し、天皇が薄葬でいいという。淳和天皇は、墓をつくるな、葬式をするな、焼骨は山野にまけといっている。浄土真宗の親鸞は自分が死んだら葬儀もするな墓もつくるな、遺灰は鴨川の水に流して魚のエサにしてほしいと遺言までしている。しかし、鎌倉時代から江戸時代に入り、キリシタン禁圧のために檀家制度ができ、供養だ、墓だ、といって幕府とお寺が結びついた。それがおそらく今の葬式仏教といわれるもとになったと思います。

 明治政府は、墓を中心とする先祖崇拝を天皇制家族国家の支柱にしたいと考えた。墓埋法の前身の墓地及埋葬取締規則ができたのは明治17年。初めは神道に葬式をまかせようとし、廃仏毀釈の大爆発が起きた。その後、葬式は僧侶と神主だけに許し、キリスト教徒などの自葬は禁止した。これが外国から信教の自由を侵すと批判されて撤回し、その代わりにつくったのが取締規則です。墓に入れてまつる。天皇制家族国家の柱は強化された。何々家の墓が広がり、100年の間にしっかり洗脳されてきた。

 英文学者の中野好夫さんは沖縄の海に還したかったのに弁護士に墓埋法があるととめられた。東京都の石原慎太郎知事は、裕次郎を海にと密葬の席でいったのにあきらめた。当時の都の霊園問題調査会でも、三原山の噴火口からまく、海へ散葬船を出したらどうかなどとわれわれと同じようなことを考えるところまで行っていたのに、墓地にこだわる委員の違法論により消えてしまった。

 われわれは現行法でもできるという理論的な確信をもって1991年、第1回の自然葬を相模灘でやりました。当時の厚生省は自然葬は墓埋法の対象外といい、法務省は祭祀のために行うなら問題ないといって追認しました。環境問題があり、核家族化、少子高齢化と社会が変わっているとき、墓一辺倒でいいか。私たちは墓はダメとはいっていない。葬送の自由をと主張しているのです。

海から生まれたので海に還りたい=道浦

道浦 葬送の自由をすすめる会の資料をいただき、にわか勉強をしました。火葬した骨を全部まくのかとか、さまざまな疑問があります。今、日本人は病院で生まれ病院で死ぬ。生も死も自由にならない時代になっています。60歳をすぎ、死までの時間を歩いている。今日は、山折さん、末木さんがいらしているので、死に対する気持ち、死生観、着地点への至り方を教えていただけたらありがたいと思います。

 個人的なことですが、父が昨年12月になくなりました。母は10年前になくなっていて、大阪湾を見渡せる墓地に母の名と父の名を刻んだ自然石の墓をたてました。私は夫も子もない。私の代で墓を守るものがいなくなります。それをどうするか、この会で答えがきけると思っていた矢先に父が亡くなったので、ごく普通の通夜、葬式、火葬をしました。父は、花のあるところに遺灰をまいてほしいといっていました。今後どうしたらいいかこの会で知って帰りたいですね。

 実は、私は火葬が大嫌いです。熱いといっている死者の自分の夢を見て、怖いと思っている。日本の一番西の与那国島に行ったら、今も火葬をしていない。棺を墓に入れて放置し、1年ぐらいしたら洗骨をして改めて納骨するそうです。そうしてもらえるのは与那国島で死んだ人のみということでできない。何とか火葬されない方法がないかと思っています。

 私は和歌山市出身で、海から生まれたので海に還りたいという気持ちがある。海から生まれたという歌、若いときにつくりました。それを紹介します。

   海より生まれ海に還らん生き物の一人と思う海恋うる日は

 鶴見和子さんは尊敬する南方熊楠の紀州の海に散骨を、ということで実際にされた。私も生まれ故郷の海でと思っています。

墓は死者とかかわる場という意味も=末木

末木 会ができて1年ぐらいたったころ入会しました。ずっと死に関心を持ち続けていたので、こういうやり方があるんだと新鮮に感じた。それでは自然葬に積極的かというと、そうでもない。道浦さんがあとをどうするかといわれたが、私も子どもがいないし墓があっても仕方ない。自然葬もいいなと田舎の妻の甥にいったら、とんでもないオレがみてやるといわれ、それでいいかなとも思う。妻の田舎は過疎がすすんで、両親の墓は荒れている。義父は行き倒れの人も入れてやったらしい。数年前に義母が亡くなったとき、骨つぼを入れる余地がなく、スーパーのポリ袋に骨をあけて入れてある。それも面白い。ポリ袋に入れられ、打ち捨てられた墓に入って、やがてアリかゴキブリになって踏みつけられる来世もあるかなと。

 実は、墓はけっこう好きなんです。お墓には死者とかかわる場という意味がある。安田さんの本の中で、漱石などが墓をつくるなといったのに遺族がつくってしまいけしからん、などといわれているが、死んでいくものと残されたものにはズレがある。調査があって、「自分が死んだらどうなるか」という問いには、死ねば何もないとか、ゴミになるという人が少なくない。ところが「親しい人が死んだらどう思うか」には、死んでも何かの形でいるという答えが圧倒的に多くなる。自分の死と身近な人の死への思いは違う。葬送の自由は賛成だが墓がなくなったら、その代わりに死者とどうかかわるかが問題だ。死に行く人の自己決定権と同時に残された人の思いをどうするかも考える必要があると思う。

中川 私も日曜日に死に火曜日のゴミの収集日にポリ袋に入れて出してくれ、などといったことがある。死者の自己決定だけが問題を支える課題ではないということ、議論したい。それでは山折さん。

インドで感じた万葉期への懐かしさ=山折

山折 会の設立以来のメンバーでともに歩んできました。ためらうことなく運動に参加したのは、その10年前のインドの体験がある。ベナレスというヒンズー教の聖地では、川岸に焚き木を積んで年がら年じゅう火葬をしている。その奥に十数軒の「平和の家」がある。医師から見放された人がその館で家族に看取られ死んでいく。家族は黙って体をさすっていた。亡くなると担架で目前のガンジス川の岸に運ばれる。男は白い布、女は赤い布で覆われている。焚き木を積み遺体を安置し、重油を注ぎ火をつける。3、4時間で骨になる。遺族はそれを5メートルぐらい離れたところで見ている。看取りの究極のあり方は家族だけで送ることと思い、痛烈な体験だった。

 95パーセント以上のヒンズー教徒は、聖なる水の力によって魂がぬけ出て昇天すると考える。魂の行方だけに関心がある。あとの白骨は魚のエサ、ハゲタカのエサになると受けとめる。だから墓はつくらない。

 「平和の家」の場面や毎日の火葬を見ていて、懐かしいという感じがした。意外でした。自然に受け入れていた。考えれば、われわれの万葉の時代はこうだったと気づいた。万葉集には、愛の歌の相聞歌と死者を悼む挽歌がおさめられている。挽歌のほとんどは、人が亡くなると山のふもとに運び放置し、風葬にすると、魂は遺体から抜けでて山頂に昇っていく。ヒンズー教徒が川で火葬をしているときの信仰と同じと思った。インドでは今日までその信仰を維持しているが、われわれは近代化、文明化の結果、魂の存在を受け入れなくなった。魂への信仰がなくなれば、万葉人のような考えを持ち続けることはできない。ここがヒンズー教徒と日本人の違いと思いました。

 懐かしい気持ちの意味は何か。万葉以来の先祖が経験した死者への考え方を忘れてしまった自分自身のさびしさ、頼りなさ、不安が意識の底にあり、インドでその場面にぶつかり懐かしい思いにかられたのかなと思う。死後について日本人の作法が乱れ始めている。いろんな考えがあるのはいい。しかし軸になるものが見いだせない。日本人の心の定まらなさを性格づけているのではと思います。

 今年78歳になりました。60を超すころから天の声が聞こえるようになった。お前いま死ねるかと。しかしたいていは、きょうはだめと答える。20回に1度、30回に1度、いまならいいよ、と答えるときがある。鴨川のほとりを歩く。晴れた気持ちのいい日、風がほほをなでる。鳥のさえずりが聞こえ、東山の山並みをみていると、そのまま自然の中に消えるようにこの世を去ることができたら気分がいいだろうなと思う。自然につつまれ溶け込むような死に方とは何だろう。遺体は自然に還す、土に還す、森の中に還す、と思うことが一番自然と思うようになってきた。

 私は魂の実在を信じていない。山に昇るとは信じられない。だけど自然に還るということは素直に受け入れられる。自然に自然の中に還ること、これなら何とか納得できるかなと最近は思う。

中川 シンポジウムがめざす本質的な部分に触れていただいた。定まらない日本人の死生観から一人一人が自身の死生観を築いていく。山折さんのお考えを分かりやすくお話しいただいた。末木さん、道浦さんにももう少しお聞きしたい。

末木 自分が死んでその先どうなるか分かるわけはない。しかし、生きている人は現実に死者と何かでかかわっている。ゴミですよ、終わりですよ、ではなく、何年も前に死んだ人なのに自分の中ではその人とずっと語り合っていることがある。身近な人が死ぬと体も参ってしまう。死者の力を受けざるをえない。死を自分の問題という前に、死者の問題と考えてその発展上に自分の死も考えればいいと思ったら、いろいろ分かってきた。

 葬送の歴史についてお話があった。たしかに江戸時代に寺檀制度ができ幕府と寺院が政治的に共生して葬式仏教になり、明治になって家父長的家族制度に組みこまれたのは事実だ。マイナス面ももっている。いまの家族制度崩壊の中で成り立たなくなった。しかし、葬式仏教がマイナス面だけかというとそうではない。日本人は葬式仏教の中から、死者とどうかかわるかを学んでいる面がある。

 古代の葬送について、自然に還るといえばそういうことだが、仏教が伝わる前は死者の処置には困っている。典型的にはイザナギ、イザナミの神話に表れている。イザナギが死んだ妻のイザナミを訪ねて黄泉の国に行く。再会を喜び、いっしょに地上帰ろうとしたとき、イザナミに後ろを見ないでといわれたのに見るとイザナミはウジがわいてひどい状態だった。怖くなって逃げるとイザナミが追いかけてくる。死体処理は恐ろしいイメージが基本だ。本居宣長は黄泉の国について、恐ろしいことだ、嫌だがしかたないことだと述べている。そこにプラスイメージが出てくるのには仏教の力があった。江戸時代の後半、平田篤胤が死者は身近にいるんだといいだす。これは新しい考え方なのです。いま、時代が変わり葬儀も墓も変わらなくてはならない。そこで過去をマイナスとばかり見るのでなく、仏教が果たしてきた死者とのかかわり方も考える必要がある。過去を切り捨てて新しくということはできないと思う。

道浦 死は無。お墓はいらないと私自身は思う。私が困っているのは父と母のお墓があり、これをどうするかです。山折さんはベナレスで懐かしいと感じられたということですが、私は海の前に行くと懐かしい。私は自然の一部で、たまたま一瞬を生きる人間の肉体をもってこうしているが、肉体はやがて滅び、無の世界に戻る。そういうことが許されている肉体であるということを海という大きなものの前で一番感じます。それが理想の姿、あこがれる生き方です。懐かしい生き方、死に方を選びたいけれど、現実に実行に移すとなるとむずかしい。両親の墓も散骨のような形ですすめ、守る人がいなくなっても問題のないようにしたいと思う。いい方法を教えていただきたいです。

中川 海から生まれ海に還るというお話に感銘を受けた。自然に還ることを死に行くものが決めた場合、死に行くものは遺族の気持ちをどうこなしたらいいのでしょうか。

山折 一番大事なのはそこかもしれない。イザナギ、イザナミの話ではないが、死のケガレの問題がある。死のケガレから人類はどれほど自由になれたか。

 土葬の場合、遺体が土に埋められ白骨化するまでケガレがそこに濃厚にこびりついている。沖縄で最近まで行われていた風葬というのは、そこに普通の人は近づかない。1年なりたって白骨化したことを見定めて骨を採取し、海水で洗って墓に納める。火葬はケガレの期間を短縮する。生活の利便性からいってケガレが長期間続くのは差しさわりがある。火葬が有利になるので普及した。衛生上の観点から一定の区域に限って埋葬する近代的思想が重要な問題としてあった、と思う。自由化すると、遺体が発するイレギュラーな問題にどう対応するか、という新しい問題が出てくる。海にまく、山に散骨するといってもそれなりに限定はある。遺骨を部屋に安置し続ける人も多い。遺骨だからできる。

安田 骨の話が出たが、粉末化した骨は遺骨ではないという法律家もいる。神道は気持ち悪いものだと嫌悪感を持っているが、一方で遺骨収集に高いカネをかける。日本人の遺骨への思いがバラバラだ。骨の処理はしなくてはいけない。ペンダントに入れても家に飾ってもその人が生きている間はいいが、いずれだれかが始末しなくてはいけない。

 残されたものの気持が大事ということたが、阪神大震災で家族を亡くした人たちの中に会員の3家族もいて、合同葬を大阪湾沖でした。関西学院大学のフランス語の先生だった方は本立てに押しつぶされてなくなった。慶応大学に移る寸前だった。お母さんはどういったかというと、息子は大阪湾に眠っている、海を見るたびに思い出す、と。思い出すことでいいのではないか。そういう形で慰めている。

 81年も前、中国の作家、魯迅が北京女子師範大学の先生だったとき、教えていた学生が中国に対する日本の無法な要求に抗議する請願デモに参加し、段稘瑞政権の軍の発砲で死んだ。追悼の席で魯迅は、「亡くなったものは生者の心に埋まっているうちはまだ生きている。忘れられたときに死ぬ」といった。明確な物差しだと思う。自然に遺灰を還してしまって何を拝んだらいいのかと、淳和天皇の臣下のような思いをもっている人が多いと思う。淳和天皇からすれは、墓などたてるから鬼がとりつく。そういう考え方がある。価値観が多様化している中でいろいろの思いがあっていいと思う。私は会員に「墓は心の中に」といっている。

道浦 父が亡くなり、会のことを知らないまま普通の葬儀をし、火葬をした。会員の方は通常の通夜や葬儀をして火葬にしているのか、それをしないで火葬しているのか、それを聞きたいです。

中川 これまで心の問題を話し合ってきたが、いまの道浦さんの質問をきっかけに外形的なこと社会的なことに移して後半のセッションに入りたい。会員のことなので安田さんよろしく。

直葬、経済的理由からだけではない=安田

安田 会のメンバーとしては、半分ぐらいが葬儀、告別式をして自然葬をしているのではないかと思う。葬儀、告別式をきちんとやったうえで自然葬をする人、そうではなく密葬をして自然葬をする人、あるいは式をしないで直接火葬場に運んで荼毘に付す、という3つにわかれると思う。中には、会がかかわらないで、自由にまいている人もいる。

 最近、NHKの9時のニュースで直葬を取り上げた。記者が来てどう思うか聞かれました。東京では4割近くが直葬だと業者はいっている。直葬なら20万円ぐらいでできるが、必ずしも経済的な理由だけで選ぶのではない。中には金持ちもいる。

沢村貞子さん、木下順二さん、鶴見和子さん、みな自然葬を願われた。木下さんは自分の死を外に出したくない。養女の方、知りうる立場にいた私、医師が黙っていれば洩れない。1か月はもった。死を秘しておきたい人が多い。最近の新聞の死亡欄には1月前に亡くなったようなことが出ている。長谷川町子さんは半年ぐらい隠した。丸山真男さんも寅さんの渥美清さんも隠したかったようだ。沢村さん、木下さん、鶴見さんたちは、自由に生きたように死後も自由でありたいと考えている。そして、その共通点は商業主義につつまれたくないという思いが強い。直葬が4割を超えたといって、必ずしも経済的理由だけではなく、心の問題と結びついている。

放りだすような直葬には問題がある=末木

末木 直葬を信念をもってなさる、周囲も認めるのはそれでいい。しかし、多くは高齢化して介護が大変だと老人を施設に姥捨てみたいに放りだし、亡くなっても簡単に済ます。そういうタイプがふえている。それには問題がある。葬儀の問題は死に行くものと残されたものの関係であり、自分がこうしたいということがあると同時に残されたものとの関係を考えたい。

 戦没者の慰霊のことに関心がある。広島の平和公園の慰霊碑がある。無宗教の形式で被爆死者の名簿だけが安置されている。その背後に供養塔がある。身元不明の原爆被爆死者の遺骨を埋めている。そこは宗教的な儀式ができる。見方によるが、私は慰霊碑は冷たい感じで、供養塔の方に親しみを持てる。墓形式がそれなりの意味をもっている。歴史にどう対処するかも考えないといけないのではないか。

葬儀社にとり込まれた父の葬儀=道浦

道浦 だれかが亡くなるということは急に来る、バタバタして、どこの葬儀社に頼むかとか、てきぱき時間を追ってしなくてはいけない。火葬場の時間の取り方などもあってエスカレーター式な経済志向にとり込まれた葬儀になってしまう。私が聞きたかったのはその点です。

 私もそれに乗って葬式をしてしまい、たくさんの費用がかかることが分かった。現代の多くの方々の現実ではないかと思う。父が亡くなったらこうしたいという思いがあったのですが、正月前なので、松の内が明けてから人に知らせようということにし、身内だけの葬儀をしました。父が亡くなったらこうしたいという思いがあった。セレモニー会館で、花だけでお経もいらない、自分たちだけで小さな部屋で見守るような葬式をしたいといっても、ふさわしい部屋がないという。結局、大きな部屋で私たち家族5、6人が花に囲まれた柩を見守り、お坊さんにも来ていただくことになった。もっと自分流を通すべきだったと思う。

 エンデイングノートというのが広まって、葬儀の仕方、遺体の処理の仕方、さまざまな希望が書けるノートができている。私は希望を書いておこうと思っている。父も母も身内だけで葬儀をした。母はお茶とお花を教えていました。2月に亡くなったのでサクラの季節にささやかな会をした。父も会をもっていたので仲間の方に声をかけ、4月に小さな会をしようと思う。そこだけ希望が通ったと思います。

 岡部伊都子さんは毎年正月、遺書を書き直していていらしたようです。残されたものが困るので式のやり方など書くということ、とても大事なことと思っています。

安田 自然葬に賛成で、ご両親をそういう形で葬られ、自分は自然葬でというのなら、ご両親の墓から骨を出していただき、粉末に砕いて山か海に還すことになる。自然葬を事前に申し込んでおく制度があるので、それを利用されたらいいのではないか。特別合同葬でなさるとすれば、費用も5、6万円で済みます。

中川 死を商業主義でつつまれたくない気持ちがあるということ、その中には既存の宗教界も入るのではないかと思う。宗教の果たす役割は。

時代の転換期に起きる大きな変化=山折

山折 戦後の日本社会が経験した人の死、葬儀のありかたに3段階があると思う。1つは、葬儀、葬送という考えがある。その基本は死者を送ること。どこに送るか。伝統的観念からすれば浄土であったり天国であったり。送る世界をある程度イメージして葬儀に参加した。ところがある時期から、葬儀の形をとりながら同時に告別式という言葉が使われるようになった。告別というのは別れること。死者を送ることから別れることに変化した。送るべき世界を多くの人が信じられなくなった。坊さんが浄土だと、キリスト者が天国だと確信をもっていえないような近代化が進行した。これが第2段階。

 告別式は地域や職場、親戚縁者のつながりの中で行われてきたが、核家族化がすすみ、家族が多様化するに従い第3段階へと変化した。家族葬、友人葬とか、ひそかな葬儀をするようになった。直葬になると限りなく葬儀でもない、告別式でもない。死体処理という方向にどんどん進んでいる。それだけ日本社会が世俗化、都市化してしまった。東京で4割というのはそれを示す。

 歴史をみると時代の転換期に大きな変化がおこる。中世の地獄絵図をみると、あらゆる葬送段階が描かれている。庶民がやっているのはほとんど死体処理。そこまで来ている気がする。宗教者にも問題があるあるかもしれないが、われわれの側にも問題がある。時代の危機と思う。

 痛感するのが、偲ぶ会の光景だ。会場には必ず大きな写真が掲げられ、笑顔を浮かべている。遺体、遺骨はその下の花で埋められている。位牌は単なる説明板になっている。私は写真葬といっている。亡くなっているのに、いつまでもわれわれの側にいてほしいという生き残った者の欲望、願望がウズをまいている。死者を送っていない、お別れをしていない。そういう変化があって個人葬から直葬、死体処理の段階がある。ひとくくりにしていいと思う。

 そういう中で、私は一握り散骨ということをいい続けている。妻と息子1人がいる。どちらが先になっても火葬場から焼きあがった遺骨を砕いて、だれにも知られず迷惑をかけずに、かつて旅をしたところに一握りずつまく。最期の一握りは残して家の仏壇に飾ってもよし、枕元においてもよし。生き残った者が一晩ゆっくり、金づちで遺骨を粉にする。その時の濃密な別れの内容は何だろうと想像している。

 なぜそんなに遺骨にこだわるのかといわれるかも知れない。もう2、30年前になるが、夫を自動車事故で亡くした婦人について日米の比較研究というのがあった。なかなか回復しないのがアメリカの婦人。日本では急激な死から立ち直ることができた。自分の部屋に遺骨を安置し、位牌を置いて対話を繰り返す。それが悲しみから回復する重要な役割を果たしているという結論でした。

 日本人の遺骨に対する独特な感覚は希薄になってはいるがまだ残っている。先祖崇拝、墓崇拝、骨崇拝はまだまだある。そういう問題を抱え込みながら葬送の自由をすすめる運動を幅広くやっていく必要があるのではないかと考えています。

中川 今の議論を受ける形で、葬送基本法を提起している安田さん。

安田 いま、日本では2つの葬送が行われている。1つは墓地葬、1つは自然葬。現在、墓地葬のための法律、墓地埋葬等に関する法律、略して墓埋法があります。ところがわれわれが1991年秋に第1回の自然葬をし、国もそれに問題はないことを追認した。業者や宗教法人、民間団体もやるようになった。自然葬を認めながら法律として明文化されていない。業者が行きすぎたことをやり、地方自治体が条例で禁止するなど混乱している。

 山を持っている人が自分の山で自然葬をしようとしても、条例でいかんといわれたら葬送の自由は侵される。こういう条例は違憲の疑いが濃厚という憲法学者もいる。明治政府の遺物、墓埋法は時代の変化に取り残されている。墓に入るも自然に還るも自由に公正に保障する葬送基本法をつくったらどうかと訴えて運動している。

中川 実り多い話し合いだった。まとめる形で山折さんよろしく。

山折 いや、まとめることできません。(笑い)1つだけいうと、地球環境の問題が大きい。われわれのほとんどは火葬にしている。日本の死者は1年で115万人だそうだ。115万人の火葬による温室効果ガスの排出量は、ある換算だと20万トンになるそうだ。森林吸収効果ではかると東京23区の2倍の広さの森林が必要という。墓埋法に規定された方向で火葬を続けているが、化石燃料をやめることを真剣に考えなければいけない。そのためには伝統的な土葬、伝統的な火葬も考えなくてはいけない。幸か不幸か日本には間伐材があり余っている。それを利用してお棺をつくる、焚き木にする。半世紀たてば化石燃料で人を焼くのは困難になる。そういうことを見すえた葬送を考える必要があるかも知れない。



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