~ 国立墓苑構想も視野に~
本会主催のシンポジウム「日本人と遺骨」 ( 2002年5月18日)の開催予告として、再生第44号(2002.3)に掲載されたものです。
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「葬送の自由をすすめる会」の出発点には、もともと遺骨の処理についての疑問があった。焼いた遺骨をなぜ墓に入れなければならないのか。墓に入れないで自然に還す葬法がなぜ違法なのか。万葉の昔からあった散骨(自然葬)の伝統がなぜ消えたのか。それらの「なぜ」と向き合うことから, 11年前、この市民運動は始まったのである。
日本人には独特の“遺骨信仰”がある、といわれる。ツボに死者の骨灰をうやうやしく保存する日本人の風習は、世界の奇習の一つという外国人学者(イギリスの歴史家ジョン・マクマナーズの「死と啓蒙」)すらいる。
たしかに日本では戦後久しくなっても、遠くシベリアの地や南方の島々にまで戦死者の遺骨収集に出かけた。遺骨を持ち帰った遺族は「これで死者の霊も浮かばれる」ときまって言った。南の海には、幾十万の戦死者がまだ眠ったままでいるのに・・。
最近でもアメリカの原潜に衝突されて沈んだ宇和島水産高校の練習船「えひめ丸」の遺族は、海底から船を引き揚げて遺体を回収することを強く希望した。国民もそれを当然のことと受けとめ、政府も強くアメリカに要請して実現させた。その沈没現場に近いハワイの真珠湾には、日本軍の奇襲攻撃で沈んだ戦艦「アリゾナ」が1000人を超える遺骸を抱いたまま記念館として保存されている。この二つの例は、両国民の持つ遺体、遺骨観念の違いを如実に示している。
日本人が遺骨に強いこだわりを持つのは事実だが、それには矛盾した側面があるのも否定できない。
お葬式が済んで納骨も終われば、遺骨のことなどほとんど忘れてしまう。朝晩、仏壇の位牌に手を合わせ、お盆やお彼岸には墓参りを欠かさない人でも、お墓参りのときに骨ツボをあけて泥にまみれたご先祖さまをきれいに洗う人はまずいない。日本人が拝んでいるのは遺骨ではなく、死者の霊の依代(よりしろ)である位牌や墓ではないのか。遺骨にさわるのも気味悪いという人もいれば、死者を愛するあまりたべてしまった人もいる。
日本人の火葬率はいま99パーセントだが、「日本に火葬などはない。遺体を焼却するものの、その遺骨を墓に納骨している。すなわち遺骨の土葬をしているのであって火葬ではない」と言い切る儒教学者もいる。
また民俗学者の柳田国男は戦前すでに「いまのまま墓を造り続けていたら日本中が墓だらけになってしまう」と為政者に警告している。
いずれにしても、暗いお墓のなかに遺骨をしまい込んでおくことが、果たして死者を大切にすることになるのだろうか。死者を大切にする方法はほかにもたくさんあるはずである。日本人が長い間に養ってきた宗教心、亡き人をいとおしみ、先祖を敬う気持ちを素直に表現するためにも、遺骨をどう扱うかは改めて見直してみる必要がある。
昨年、小泉首相の靖国神社公式参拝に韓中両国が反発したことから、戦没者追悼の国立墓苑構想が浮上した。これも“遺骨”にかかわってくる問題だ。政府の「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」も発足した。どんな議論がかわされるのか注目されるが、肝心なのは死者を「墓」に祀ることではなく、死者の声をきくことである。「墓」は生者の心の中に建てるべきものではないだろうか。
本会はこれまで、葬送の自由という基本的権利の啓蒙と、自然葬の普及という実践活動を積み重ねてきた。会員も10000人を超え、海に山に自然葬の実施もこの春で650回, 1200人に迫っている。本会の運動が全国的に広がる一方、自然葬の形だけをまねた業者や一部宗教関係者らの自然葬・散骨ビジネスが各地で目立つようになった。
こうしたなかで今回のシンポジウムが、21世紀における「日本人と遺骨」のさまざまなかかわり方をさぐる機会になれば幸いである。
