会長室より   コラム

遺志通りにはいかなかった 兆民、漱石、荷風、信夫 


                            安田 睦彦
                                

 青山墓地の入り口近くに、明治のジャーナリストで自由民権論者の中江兆民(1847-1901)の墓(?)がある。墓(?)としたのには理由がある。青山霊園のガイドブックなどには、同霊園に眠る大久保利通や後藤新平などと一緒にリストに名前を連ねているが、「墓」という文字が使われていないからである。

 一族の墓の一角に母親の柳子さん、妻の彌子さんや息子の丑吉の墓と並んで「兆民中江先生(えい)骨之標(しるし)」と刻まれた石碑が立っている。(えい)というむずかしい漢字は広辞苑など一般の辞書には出ていない。亡くなった碩学白川静博士の「字通」によれば、うずめる、かくす、墓などの意味があるという。では、なぜ「兆民中江先生之墓」としなかったのかという疑問が残る。

 兆民は唯物論者として、いかに生き、いかに死ぬか、この世だけに関心があった。「霊魂なるものは火なり、肉体は薪(まき)なり、薪尽きて火滅す。かくの如きのみ」と論じた兆民は死後の墓のことなど全く念頭になかった。(加藤周一ほか「日本人の死生観」)

 兆民は「遺体を解剖に付し、墓をつくるな」と遺言した。それに従って、遺族は墓碑はたてず、落合火葬場で荼毘(だび)に付し、遺骨を母柳子の隣りに埋葬した。遺言を守ることと、焼骨の埋蔵は墓地以外は許されないとした墓埋法との苦しい妥協の結果とみることができる。1913年(大正3年)に世を去った兆民の妻彌子が兆民の隣りに葬られたのを機に翌年、友人や門下生らによって「兆民中江先生骨之標」が建てられたのである。

中江一族の墓     中江兆民の墓(標)
中江一族の墓 左から 長男、妻、兆民、母     中江兆民の墓(標)

 また、一切の宗教的儀式を嫌った兆民は、葬式を一切の宗教的儀式を排したお別れ会スタイルにしたいと考え、告別式の形をとるよう言い残した。

 現在の告別式の発案者は兆民といえるが、皮肉にも兆民の精神はわすれられ、告別式と葬式の二重構造として定着してしまった。

 作家の夏目漱石(1867-1916)はエッセー風小説「倫敦塔(ろんどんとう)」のなかで「余は死ぬ時に辞世も作るまい。死んだ後は墓碑も建ててもらうまい。体は焼くも、骨は粉にして西風の強く吹く日、大空に向って撒き散らしてもらおうなどといらざる取越し苦労をする」と書いたが、弟子によって盛大な葬儀が行われ、立派な墓も東京・雑司が谷墓地に建てられた。

 永井荷風(1879-1959)も、1936年(昭和11年)2月24日の「断腸亭日乗」(日記)に次のような遺言を書いている。57歳のときである。
 「余死する時、葬式無用なり、死体は普通の車にのせ、直ちに火葬場に送り、骨は拾うに及ばず。墓石建立また無用なり。新聞紙に死亡広告など出すこと元より無用」
 この遺言は遺族によって無視され、漱石と同じ雑司が谷霊園に眠って、墓比べをしているのはこっけいだ。

 本人が死んだあと、残された者たちが、本人の願い通り、葬ってくれるのか、兆民、漱石、荷風のケースをみても一時代昔のこととは言え、不安は残る。

 わが為は 墓もつくらじ
 然れども 亡き後なれば
 すべもなし ひとのまにまに

 民俗学者の折口信夫はこう歌った。折口も墓はいらないと考えていたが、死後は自分の意の及ばないことだからひとに任せるしかないとあきらめていた。その心配は的中した。関係者らの手でつくられた石川県羽咋市の墓に太平洋戦争でなくなった養嗣子の春洋とともに、眠ることになったのである。  歌はさらに続く。

 かそかに ただひそかにあれ

 生ける時 さびしかりければ
 若し 然あらば
 よき一族の 遠びとの葬(ほう)り處(ど)近く
 そのほどの暫しは
 村人も知りて 見過ごし
 やがて其も 風吹く日々に
 沙山の沙もてかくし
 あともなく なりなむさまに

 かくしこそ
 わが心 しずかにあらむ
 わが心 きずつけずあれ

まさに絶唱である。私はこの歌を口ずさむとき、敦煌でみた砂漠に消えかけている墓を思い出す。
                                       (以上)
2010.10.29

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