会長室より   コラム

「家族国家」観の源流をたずねて ―石田 雄さんの「明治政治思想史研究」―


                            安田 睦彦

  明治以降ふえた「家の墓」奨励の背景には、明治政府の「家族国家」観があった。――私が講演、著書でよく使ってきた言葉である。それについて「家族国家」観はいつごろ、どんな風にして出来上がったのか、という質問を受けた。

  勉強するいい機会だと、その源流をもとめて資料探しを始め、最近、石田 雄(いしだ・たけし)著「明治政治思想史研究」(未来社、1954年初版)という厚い本にぶつかった。

  著者の石田 雄さんは、1923年、青森生まれ。“学徒出陣”から復員後、1949年に東大法学部を出て同大社会科学研究所教授、英米独などの大学で客員教授をつとめた。「日本の社会科学」「平和の政治学」など著書は多数。

  「明治政治思想史研究」の前編「家族国家観の構造と機能」の内容をこの会長コラムの制限字数のなかで私なりに要約してみた。文責はもちろん私にある。興味をもたれた方は原本にあたってほしい。

  「家族国家」観が一つの観念として形づくられてくる萌芽は、1890年(明治25年)に出た教育勅語にある。国民の守るべき指針として生まれた教育勅語は、伊藤博文ら欧米留学派の「富国強兵」と元田永孚(もとだ・えいふ)ら漢学者、教育者の「儒教道徳」との妥協、折衷によって生まれた。

  「克く忠に、克く孝に」と教える教育勅語について当時の哲学者・井上哲次郎は「国君の臣民に於ける、なお父母の子孫に於けるが如し。即ち一国は一家を拡充せるものにして、君主が臣民を治めるのは父母が慈心をもって子孫に接するようなものだ」と説いた。

  しかし1904年(明治37年)、「勅語の趣旨に基き」(国定教科書編さん趣意書から)編集されたわが国初の国定修身書は、その後の「家族国家」観からみると、まだ不徹底であった。

  7年後の1911年(明治44年)に修正をした国定修身書ができた。それをみると、「家族国家」観が完全に国の中核観念としてあらわれてきている。同時に、この解説普及運動を契機に「国民道徳論」の名のもとに「家族国家」観が世の中に浸透するようになる。

 修正前後の国家修身書の比較から「家族国家」観成立のいきさつをみると――  旧修身書にあった「他人の自由」「社会の進歩」「競争」「信用」「金銭」などの課目は修正後に省かれた。修正修身書には新たに「皇太神宮」「建国」「国体の精華」「忠孝一致」「祖先崇拝」などの課目が加えられた。

 具体的に1例をあげてみよう。

 旧修身書では「忠君愛国」の課目に「…国難起らばわれら臣民は身を棄て、家を忘れて天皇陛下の大御心を安んじたてまつらざるべからず。平時にありてはよく身を修め、家をととのえ」て産業、学問技術にはげみ、国の文明を進めて、欧米諸国を追い越せと説く。

  これに対して、修正後の「忠孝」の課目では、「子の父母を敬愛するは人情の自然に出ずるものにして、忠孝の大義はこの至情より発するものなり…わが国は家族制度を基礎とし国をあげて一大家族を成すものにして、皇室はわれらの宗家なり。われら国民は子の父母に対する敬愛の情をもって万世一系の皇位を崇敬す。これをもって「忠孝」は一にして相わかれず。……」と述べる。

 旧修身書では、単に国力充実のための忠君愛国が説かれているのに反して、新修身書では、あきらかに「家族国家」観を下敷きにして父母を敬愛するという人間の自然的心情を以て忠君愛国を基礎づけ、忠孝一致の国体を礼賛している。

  その後、「家族国家」観はさらに、「個人の生存は一時のもので、国家は永遠に生存する。個人は国家の一部にすぎない」とする国家有機体論によって補強される。

  一方で人間の自然の情に基づく家族と皇室とのきずな、他方で国家永遠の目的に従うべき個人――「家族国家」観は矛盾する二つの契機を融合、癒着させることで成立する。

  家族に対する自然的心情を公的服従にまで引きいれ、しかもその対象を国民の「宗家」としての皇室に結びつけ、同時に国家有機体論によって「社会のため」という正統化を基礎づけたところに「家族国家」観が成立した。


(2009.8)

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