会長室より   コラム

人類は地獄をみるかもしれない ― 作家・野間宏さん

          

                         安田 睦彦

 私は夢のなかで叱られていた。大きな目をむいている相手は、作家で親鸞研究者の高史明さんである。「葬送の自由をすすめる会」の運動をスタートさせてまもなく開いたシンポジウムでの高さんの言葉が、ときどき夢の中に出てくるのだ。

 高さんはこういった。

――葬儀をするのは人間だけ。人間であるということは自然に背を向けた存在だ。親鸞聖人の最晩年の言葉に「自然法爾(じねんほうに)」がある。聖人は「自然はおのずからで、行者のはからいにあらず。しからしむということばなり」と読みかえている。自然にあるものでなく何ものかにしからしめられているという実感を伴っている。現代人にとっての自然はいわば征服の対象だ。現代人が自然法爾のような自然対人間の関係に転換し得るのか。そこまで考えての自然葬なのか。生きているときはいのちを私物化する。死んでなお骨を私物化する。人間は助からん――

 まったくその通りである。私は車ももたない。ゴルフもしない。携帯電話ももたない。年賀状も出さない。――といっても、ささやかな“抵抗”にすぎない。私の暮らしは、反自然的文明のなかにどっぷりつかっている。

 自然を忘れ、自然をないがしろにして生きてきた者が、自然葬などといえる義理か。死後は自然に還りたいなどと願うのは、虫がよすぎる。それで自然への贖罪(しょくざい)ができるわけもないだろう。自然はそんな甘っちょろいものではない。

 夢のなかで、私は汗をかいている。どう生きていったらよいのか。

 夢のなかで汗をかいている私を、慰めてくれるのが会員の声である。会誌「再生」などに寄せられたものばかりだ。

 「あの暗い墓のなかに押し込められなくてもよいと思うだけで、人生が明るくなった。自然の大きな輪廻(りんね)のなかに還れるという解放感がいい」

 「古い葬送習俗や世間のしがらみからの解放にも通じるものだ」

 「緑の山を無残に破壊してつくった墓地に眠るのは、いやだと思っていたのでうれしい」

 「遺骨は墓のなかにおさめないと違法という国の強制を破って、道を拓いてくれてありがとう」

 「自分の死後のありようは、自分の意志できめるという自己決定―葬送の自由を憲法上の基本的権利として確立した」

 だが、正直いって人類が“反自然”の文明から抜け出すことは、もはや不可能に近い。

 20年前、会のスタートをみずに亡くなった作家の野間宏さん(1915-1991)と、核危機もふくめて地球の環境破壊について話し合ったことがある。

 野間さんは、戦後、軍隊組織の非人間性をリアルに描いた小説「真空地帯」で有名である。

 野間さんは、こういった。

 「人類は一度は地獄をみることになるかもしれない。それを乗り越えて生き残れるかどうかが、人類のわかれ道だ」
(2008.12)

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