ビートたけしさん”の自然葬礼賛
安田 睦彦
前回の文章で間伐材を使ってお棺づくりを!という提案をした。 1991年秋、本邦初の自然葬を相模灘で行い、国の公認をかちとった余勢をかって中国、上海市の市営海洋葬と親善交流したときの経験からだった。
そのとき参加された古い会員から、一枚の写真を送っていただいた。上海空港に私たちを出迎えてくれた、上海市関係者ら3、40人が赤地に黄色の字を染め抜いた「歓迎!中国自然葬考察団」という大きな横断幕をかかげていた。
なつかしい思い出にかられて色あせた「新潮+45」1991年12月号をひっぱり出した。私は上海市での自然葬交流を枕にして「自然葬宣言」という一文を書いていたからだ。
上海市の方から「自然葬」を簡単に説明せよ、といわれた。突差に手近の紙に四字熟語で「以海成墓、以山成墓」と書いたら、すぐその意味をわかってくれた。空から楊子江に遺灰をまいた周恩来元首相の考え方と同じだと口々にいう、さすが漢字のふるさとの国だと実感した―などといったことをそこに書きしるしていた。
たまたま同じ号のなかで、ビートたけしさんが「オイラの老後設計」という文章をのせていた。その末尾に「自然葬」のことにふれ、例のたけし節で「あれはいいね」と書いてくれていた。
そのまま原文をここに紹介しておこう。
死んだ後のことだから、本当はどうでもいいんだけど、オイラがわからないのは、墓をどこか指定されたところに作らなきゃいけないということだね。伝染病のことがあるからとかいろんなこと言っているけど、犬や猫が死んだら、庭に平気で埋めちゃっているじゃないか。犬猫と人間の死体はおなじだものね。下手すると、動物だから、もっといっぱい病気をもっていたりする。自分の家の庭に墓を建ててどうしていけないんだ。お寺をビルにしてもいいのに、庭に墓はいけないというのは変だね。
坊主を呼ぶのも嫌いだな。拝んでもらったってもうしょうがないもの。こっちは死んでいるんだから。葬式なんて、生き残った奴が何かやっているというだけだからね。別れを告げるって顔をみたり、変なことをしているよね。死んだ奴の顔見たってしょうがないと思うけどね。オイラは見られたくない。やだな、あんなの。
焼き場へ行けば、ビール飲んで、寿司が出ちゃったりして、焼いてる間待たなきゃならない。「焼き上がりました」なんて、割烹着みたいなの着たおばちゃんが呼びにきてさ。ピザのシェーキーズみたいじゃないか。ピザ頼んでいるんじゃないんだ。「五十三番のお客様、二十インチ焼き上がりました」なんて、そのうちアナウンスしかねないよ。
骨壺からあふれちゃっているのも嫌だね。壺の他に、受け皿があったりなんかして、わざとあふれさせたりして。日本酒飲んでるわけじゃないんだからね。
この前、自然葬が話題になったけど、あれはいいね。死んでも別に墓へ入れなくたっていいということがわかった。オイラもどこかへまいちゃいてもらいたいね。テレビ局の入口とかにまいたら、「やっぱり私は嫌われる」かな。
それからざっと20年たった。いまも、同じ考えだろうか。機会をみて聞いてみたい。
(2008.10)
