第954回・自然葬
大好きだった思い出の沢山ある海へ
(星川直子=故人の妻)
昨年末31日は関東は大雪に見舞われお正月も氷が張る寒さだったが、晴れ男で通っていた主人の再生の日1月9日は朝から快晴だった。横須賀から「しーふれんど2」に乗り込んだ。陸より船の方が暖かく潮風が心地良い。目の前には穏やかな海が広がり太陽の光が波に反射して眩しい。
主人は、海釣り、潮干狩り、夏は毎週海水浴に出掛けた。海への再生。迷いはなかった。再生の場所に着き船が停泊。青い海、背後には富士山、素晴らしい大自然。お別れの時、いつものように主人に語りかける「クロバイバイバイバイ…」。青い海に黄、オレンジ、ピンク、白の色とりどりの花が円を描く中、遺骨が海中へとゆっくりと沈んでいく。50代前にして大自然に還っていった。闘病生活は辛かっただろうけどいつも前向きによく頑張ったね。私達を海から見守って下さい。
第956回・自然葬
阿蘇の桜の下の父
(南部悠紀子=故人の妻)
3月6日、熊本は阿蘇外輪山にて、夫の自然葬を行いました。生前から夫婦で話し合い墓ではなく、自然の中に還りたいと考えておりました。夫の生まれた故郷である阿蘇に自然葬ができる場所があることを知り、そこに還すことにしました。
今年は3月に入ってもなお雪が降り、前日宿泊した宿の庭にも雪が積もり、実施できるかどうか心配しておりました。しかし、当日は雪もあがり、山の中に入ることができました。現場までの道も茅がかりとられ、足元に敷かれておりましたので、足の悪い私も無事現場にたどりつくことができました。
そして、桜の若木の根元に散灰してまいりました。今年の春はこの桜の花を観ながら、好きな酒を飲んでいることでしょう。
第958回・特別個人葬
故人が植えた庭木の周囲に
(林侑子=故人の長女、姉)
2月から3月にかけて、3人でしたので数回に分けて、自宅庭で散骨しました。最初だけ友人に来てもらいました。故人が植えた木の周囲に、故人が望んでいたように撒きました。粉状になっていますので、撒くと斑雪のようにも見え、私自身の気持ちが安らいでいくのが分かりました。終了した今、故人も安堵していると思います。
大地に還るというより、なぜか大空に昇っていくような感じが湧き、自然葬を選んで良かったと思っています。
第966回・自然葬
両親と息子を伊勢の美しい海へ
(今西敬子=故人の娘)
両親は都会育ちの小学生の私と妹弟の健康のため、夏休み中過ごせる場所を伊勢湾の海の御殿場に与えてくれました。遠浅の海の美しさは今では想像も出来ない別天地でした。その後2人の子供を持ち、想い出の海で同じ経験をと来た当地は昔の面影とは程遠い海ながらまだ貝や蟹が残っており、やさしい土地の人と何年か過ごしました。
第968回・自然葬
自然の息吹となった父
(罇涼子=故人の娘)
2005年4月16日午後12時30分、秩父再生の森にて自然葬に付したことを証明いたします。こう読みあげられた時、やっと父を土の還すことができたと、安堵の胸をなでおろした。父の死から待つこと6年。遺志の通り、母、妹、孫2人の手によって粉になり、父は、桜の木の根元に永眠することになった。
春夏秋冬、秩父の山や樹木、草花。風雪に包まれ、あらたな自然の息吹のひとつとなった父に、今どんな気分か聞いてみたい。お墓はなくとも、こうして父に問いかけ、頑固で短気だった父の面影が心に残っていれば私も幸福である。「子供は死がわからない」と、ぼそりとつぶやいた父だが、12歳と14歳に成長した姪と甥は、さらに大人になっていき、はたしてどのようにこの葬送を受けとめていくのだろう。
第974回・自然葬
約束の自然葬
(永久保輝雄=故人の夫)
4月30日、三浦半島の小さな入江、小網代湾のシーボニアマリーナに浮かぶ名艇「シナーラ号」に私を含め14名が乗り込むと、船は波静かな晴天の相模湾を滑るように進んで行きました。主役は妻、弘子です。彼女は約1年前、満開の桜に見送られながら食道がんの為に生涯を閉じました。生前より尊厳死と自然葬を望んでおりました。今日はその約束の日です。
船が江の島沖に達すると弔鐘を合図に船縁より白い包みにカトレアを添えて投じ入れました。キラキラと光る波間に揺れながらゆっくりと静かに沈んでゆきました。「サヨナラ、ヒロさん又、会おうね」と言ったものの何か空しい寂しい感じを禁じ得ませんでした。
第976回・自然葬
これからは好きなところへ
(中村美代子=故人の妻)
5月1日、とても良いお天気に恵まれ、主人の旅立ちには最高の日和でした。ゴールデンウイークの真最中、まわりはヨットと釣り船で賑わっていました。
家族だけではもったいないような大きなサザンクロスで出港、賑わいの中を通り抜けて現地に到着。係の方の合図で主人の白い包みを静かに波に沈めました。青くきれいな海の中をゆらゆらと沈んでいきました。さようなら……花びらをみんなで散らすと、主人を囲むように波と一緒に漂いました。そして船はそのまわりを三周して別れが終りました。
6年間の車椅子で自由に動くことのできなかった主人も、やっと大好きな海で魚たちとこれからは自由に好きなところへいかれることでしょう。おかげ様でこのような葬送ができたということを、今とてもよかったと心から思っております。一年たったら又あの場所へ行こうと息子たちと話しております。
第981回・自然葬
再生の森に感動と安堵
(麻生順子=故人の娘、姪)
5月13日、91歳と86歳で昨年相次いでなくなった母と叔父の遺灰を「西多摩再生の森」に撒きました。私が思い描いていた通りの再生の森に、感動と安堵の気持ちでいっぱいになりました。独身だった叔父の遺言がかなえられて本当に良かったと思います。私たち夫婦が自然葬を希望しているのを知っていた母は、あとのことは任せると言い残してなくなりましたので、叔父と同じ場所で土に還り満足しているのではないでしょうか。
母が17年前に九州から持ってきた真っ白な紫陽花は、主を失って今年も元気に咲き誇っています。
第983回・自然葬
どう? 眠れそう?
(中村暎枝=故人の妻)
うぐいすの声絶えまなきこの山にわが手より散る夫の遺骨よ
安く眠れこの森蔭の黒き土に汝が苦しみはすべて終れり
「どう?眠れそう?いまどんな気持?」
『あゝ、いい気持だ。いや、そんなものじゃない。いいとか悪いとかの価値基準を超越した、ずっとおだやかな気持だよ』
「この一年の病気はつらかったものね。ずっとよく眠れなかったし」
『眠りとか覚醒とかというものともまた別だけれど、安らかな気分だ。眠りといえば眠り、直接見たり聞いたりはしていないけれど、しかしわかるんだよ。この森のようすが』
「いつか、私もここに来るから待っていてね」
『あゝ、待っているよ。でもそのころおれの元素は何になっているかな。じゃ…』
老桜の根方に眠るわが兄の笑顔しのびてしばしたたずむ(陳野紀久枝=故人の妹)
第986回・自然葬
舞いながら落ちていく遺灰と花びら
(大谷孝子=故人の妻)
調布飛行場から3人乗りセスナ機で飛び立ち、皐月の空を亡き夫と共に遊泳する。眼下に広がる緑多き箱庭のような町並み、地平線上に浮かび上がる海原、そして江ノ島がポッカリと姿を現した瞬間、永遠の別れが待っているのにまるで遊覧飛行の気分。
住み慣れた鎌倉を左手に江ノ島を飛び越えて5分強、飛行機が大きく旋回し、パイロットが「どうぞ」と声をかけてくださる。20センチ四方の窓を自分で開け、遺灰の袋を窓に近づけた瞬間、風圧でアットいう間に奪い去られてびっくり。あわてて残り6つの袋を窓の外へ。舞いながら落下していく後を真紅のバラの花びらたちはひらひらと追う。
この間10数秒。手から離れる瞬間には一言「ありがとう」とか「安らかに」とか言葉を発するのではないかと思ってはいたが、あの風圧には言葉もなくただ「はぐれないで早く後を追って」と願うだけだった。
水面に吸い込まれていく7つの袋は1つの塊となってブルーに染まって沈んでいった。セスナ機から確認しながら骨は水に入ると青く発色するものなのかと不思議に思えた。航空会社に30数年在職、飛行機にこだわり、空からの自然葬は本人の希望。そして、生活圏だった江ノ島沖、子どもの頃、全国大会で模型飛行機を飛ばしたのが調布飛行場。強く縁というものを感じた。
遺言の中に次なる文が。
人生の海の嵐にもまれこしこの身今その海に還る
月と太陽と北極星を仰ぎ
波と戯れし先住達の僕となり永遠の住家とす
愛しき人の手の温もり熱き思いと共に今旅発つ
その恩愛に感謝をこめて ありがとう、さようなら
貴方、遺灰の中にパスポートを入れておきましたから。
第988回・自然葬
桜の木の下に野の草と
(千葉信子=故人の長女)
母は昨年の10月に93歳で自宅で永眠しました。生前から家族で自然葬と決めておりましたので、迷わず熊本の阿蘇外輪山と決定しました。日時は平成17年5月21日でした。熊本で亡くなったおじの散骨も行ないました。五月晴れで阿蘇の山々も美しく、山の下の方に母とおじが暮した町並みが見えます。登山者も多く、山とはいえ、さみしい所ではありませんでした。ウグイス、カッコウなど鳥が鳴いていました。
桜の木の下に、ボランティアの方々、新聞社の方々が手折って下さった野の花や母とおじがよく行った水前寺公園の水をかけ散骨しました。その日は阿蘇に泊り母の思い出話につきませんでした。私達も将来はこの地に眠りたいと思いました。
第992回・自然葬
兄さん、墓は私の心にあるから
(鎌田正善=故人の弟)
「自然葬を『すすめる会』5年、88人の遺灰 海や山に」(96年2月9日付朝日)という記事が私と会との最初の出逢いだった。当時、がんの開腹手術をしたばかりで将来に不安を感じていたが、まだ本気ではなかった。現実感を持ったのは01年。80歳で亡くなった兄の遺品整理中、赤鉛筆で囲んだ新聞記事を発見した。「東京都の水源林に市民グループ散骨」(94年5月31日付朝日)という記事で、私より2年早く兄は自然葬に注目していた。
人は自然に還るのが良い。その思いを共有していることを知ってすぐ入会した。兄は生涯独身で妻子はいない。身内は弟の私ひとり。それでも満4年、遺骨を手元に置いた。
5月25日、兄のイメージにあったであろう山=西多摩再生の森で散骨した。"梅雨前に"と考えたとおりの快晴。樹木の間を涼風が吹き抜け、遺灰はさわやかに散って逝った。兄さん、"墓"は私の心の中に在るからね。さようなら。
第995回・自然葬
漂う花びらの様子に感動
(田畑順子=故人の妻)
5月28日は、父の命日です。生前とても気の合う父と夫だったから「この日が最高」と思い散骨の日に選びました。日が近づいて来ると日一日、つらい気持ちが募り、夫の写真を見るたび涙が流れ止まりませんでした。天候がとても心配でしたが、当日は波も穏やかで、お骨を波の上にのせると静かに散りながら沈んでいきました。赤・白・黄色の花びらが悠々と漂う様子はとても感動的で、これで夫も自然に還れて安堵した事と思います。
家族にとって散骨の時の光景は、生涯忘れられないすばらしい思い出となりました。
第999回・自然葬
そのうち波打ち際に来るだろう
(椎山常司=故人の弟)
兄の希望していた遠州灘は過去に実績は無かったのですが、会の尽力で、希望通り行うことが出来ました。浜名湖周辺のマリーナをひとつひとつ当たっていただき、ようやく賛同を得られるところがみつかったとのこと。感謝に絶えません。
浜名湖の奥のそのマリーナから出航して湖を縦断すること30分、船長にも珍しいといわれた凪の太平洋に出て更に30分、浜松の砂丘沖にて自然葬を執り行いました。その砂丘の砂になりたいと思っていた兄を、思い出の花グロキシニアと鬼芥子と共に送りました。
陸に戻って2時間後、その砂丘に赴き海を眺めました。海亀が産卵する穏やかな海岸に兄もそのうち辿り着くことでしょう。海上に出て兄を思うことは、今後容易ではありませんが、波打ち際に来れば兄と心を通わせられる。そんな思いにさせられたのでした。
第1000回・自然葬
古い日記帖の中の遺言
(伊藤恵子=故人の妻)
夫の散骨の日はお天気がよく、小さな島が点在する松島湾を通り抜けた外海はおだやかで、大きなふところに包み込んでくれるようなやさしさで迎えてくれました。
がんを患い入退院の繰り返しの日々、残された命が日ごとに短くなり、医師の心の準備をとの言葉に夫の身の回りを整理したとき、古い日記帖を見つけました。自分の病のこと、回復不可能のときは延命処置は不要、苦しまないように自然に死なせてほしい、仏式の葬儀は理解できないことが多い、など遺言と思われる事柄を記して会の電話番号も書いてあったのです。
故人の望み通りに、との親戚の言葉はとてもうれしく、葬儀は神式でお骨は葬送の会を通じて海へと決まりましたのも、夫が希望をきちんと書き残してくれたからだと思っています。お骨を砕くのは深刻で精神的につらいのではと初めは緊張しました。私は夫と、娘は父親とおしゃべりしながら終わってしまいました。水にとける紙にお骨を包み、小さなおひねりを沢山つくりこよりで結んで準備を終わりました。夫の兄弟、その家族ら9人の手で波にただよう花びらに見送られ夫は海にかえっていきました。
助言をいただいた歯科の先生、東北支部の阿部みち子様、生まれて初めてのことばかりの毎日を乗り越えさせていただき本当にありがとうございました。
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