第902回・自然葬
子どもたちも感動
(宮原敬子=故人の妻)
8月17日午前10時45分、そよ風号で葉山沖にて家族4人で無事主人の散骨を行いました。ス―っと沈んでいく様子が神秘的で、主人が語りかけているようで涙があふれました。主人が隣にいて家族と風景を眺めながら、語り合っている錯覚にとらわれました。子どもたちも感動して「私たちも是非、この葉山沖に散骨してね」と申しますので、「それは先に行くママのせりふでしょう」と申しました。友人が私の自然葬の話を聞いて詳しく知りたいといっています。自然葬がどんどん広がっていくことと思います。
第903回・特別合同葬
いつか一緒に雲となり雨となろう
(高瀬正澄=故人の夫)
小樽に生まれ育ち、遊び、学び、働いていたひとりの北の女が、運命の神の悪戯かそれとも前世よりの定めか、戦後復員まもなく北海道に新天地を求め、リュックひとつで海峡を渡ったひとりの南の男と白髪の誓い以来60年近い歳月。そして、自然葬の海を一望できる現在の住所に居を定めて40年余。妻の最後の旅立ちに最も相応しい処だと思っている。
ここには、葬儀という式次第で順序よく進行する儀礼とは違う心うつ何かがあった。今はもう、小樽ッ子と自称して憚らない私は87歳。妻の旅立ちした海の見えるこの小樽で残り少ない人生の終末を迎えよう。
第903回・特別合同葬
神秘的だった帰路の虹
(菅原暁美=故人の妻)
船は揺れ、雷、雨と続くなか、娘、孫とともに念願かなって散骨を無事終えることができ、正直なところホッとしています。パパの好きだった「オールドパー」「越の寒梅」、沢山のユリの花に囲まれて海深く静かに沈んでいくとき、「ありがとう。さようなら」と、微笑んで言っているのが聞こえてきました。この日、この場面の思い出は、私の心に深く刻みこまれ、一生忘れることはない感動的なものでした。帰路、虹が2重にかかり、とても神秘的でした。
第903回・特別合同葬
つり好きの夫の声が聞こえた
(福富由美子=故人の妻)
夫はつりが好きでした。小樽沖にはカレイ、ソイといって、季節になると出かけていきました。今回の支部10周年記念に参加出来ましたことは、もう一度つりをやりたいと言っていた思いが通じたのでしょうか。当日の天候は不安定でしたが、良い具合に合間をみて流すことが出来ました。
「つり場はこれぐらいの波がないと釣れないよ」と、夫の声が聞こえてきたようです。
散骨を終えた今、落ち着いた気持ちでおります。
第903回・特別合同葬
リハーサルの機会与えてくれた姑
(矢満田静子=故人の息子の妻)
家族6人で埼玉県から参加した方など計5組。私も懸案の姑の遺灰を、夫、長男同伴で希望通りに北の海に還すことができました。
姑は夫を出産して2カ月後に未亡人となり、やがて再婚したため、5歳だった夫は母方の実家で育てられました。諸々の事情から、老後は北海道で……という強い思いを知り同居を目前にして脳溢血。65歳でした。少子化の時代となり、自然葬への要求は高まるものと思われますが、世間体という制約を脱することにもそれなりの時間が必要です。本州生まれの夫の同意を得るまでに9年かかりました。
いずれ旅立つ身です。リハーサルの機会を与えてくれた姑に感謝しております。
第903回・特別合同葬
夫が愛してやまなかった小樽
(鈴木とみ代=故人の妻)
台風の影響で立っているのがやっとの荒海でしたが、初孫の手から夫の遺骨を、彼が愛してやまなかった小樽の海に還せたこと、本当にうれしく思いました。混濁する意識の中で「小樽、小樽」といっていた夫を想い、この日のために準備下さった皆様方に感謝申し上げます。
いつか私も海へ帰ろうと思っています。
第913回・自然葬
さわやかでホッとした気持ちに
(星野禮子=故人の妻)
朝6時、バスに乗った時は小雨、夕方バスを降りた時も雨。それがうその様なさわやかな菅平の1日でした。
行くまで何か不安な気持ちもありましたが、案内の水野様のお人柄、そして白樺、霧。そんな気持ちはいっぺんにどこかに飛んでいってしまいました。とにかく山が大好きで、スキーは85歳で亡くなる2年程前までやっておりました。まだまだそのつもりだったと思います。菅平。子供も孫もこの場所を選んだ事をとても喜んでくれましたが、一番喜んでくれたのは主人と思います。
孫娘は、何時も身近におじいちゃんの気配がしていたのに全然感じなくなってしまった、と申します。きっとあのお山が気に入ってあそこにいるのよ。きっとそうだと思います。
もうすぐ主人の大好きな雪も降ります。悲しいとか淋しいとか云うより、さわやかな何かホッとした気持ちです。
第917回・自然葬
いかに美しく終えるかを考えた母
(花岡麻里子=故人の長女)
病床の母カが「いつか訪れる時」について真剣に考え出したのは2年と少し前でした。いかに美しく人生を終えるか、果敢に取り組んだ結果のひとつが自然葬という形の選択でした。常日頃から物事について広く考え、信念を持っていた人らしい選択でした。地球の環境に対してアンバランスなまでに増えすぎた人間が皆それぞれ墓をつくっていったとしたら、さらに地球に負担になる、できる限り美しい自然を残してゆきたい、というのが母が自然葬を選んだ理由でした。
望みを叶えるべくいくつかの団体をあたり、1番ピッタリきたのが「葬送の自由をすすめる会」でした。本人の意向を最優先に考え、相談に乗ってくださり、いま実を結びました。
第919回・自然葬
ママチャンまた皆で来るからね
(満田モユル=故人の娘)
10月7日、石垣島の海に母の散骨を無事済ますことが出来ました。
風が発生し波が出ていたため、本来の場所ではないそうですが、黒島の珊瑚礁の辺のとても美しいところを選んでいただきました。船も止めておくことが出来ず、ゆっくりと動く中の散骨となりました。海は太陽の光の下、エメラルドグリーン・トルコブルー・コバルトに輝き、波の下は様々な珊瑚の間を色とりどりの熱帯魚が群れ泳ぐとても豊かな海でした。「ママチャン。この海で寂しくはないよね。また皆で遊びに来るからね」
第920回・自然葬
何と自然で解放的だろう
(新居田郁夫=故人の夫)
10月13日、仙台・松島湾沖で花と一緒に散灰、かもめの群れる島にはお地蔵様が海の護衛官のように鎮座していて、四方に微笑みを湛えています。花は波間を舞ながら寄り添い、花筏となって大海原に旅立ちました。墓地という名の寂しい石の下に封じ込められるより何と自然で解放的であろう。翌14日、夜、NHKテレビで「お墓への狭き門」と題して墓に不安をもつ人たちの選択肢が放映されていた。自然破壊の進む現状も合わせて取材してほしいものだ。友人知人への報告書の末尾に「旅先で海を見たら思い出してください」と。
第921回・自然葬
きらきら輝きながら海へ
(内田孝子=故人の妻)
主人が肺がんの末期と告げられたのは昨年7月でした。家族と一緒に主治医からすべてを聞きました。そして、治療はしない、できるだけ家族と過ごす、最後は海へときめました。主人は若いときから「この狭い日本の土地にお墓ばかりつくってどうするんだ」といっておりましたので、新聞で会を知ったとき、すぐ入会しました。
東京で生まれた主人にはやはり東京湾口がいいのでは、と2人で話し合いました。平成16年10月16日、あいにくの曇りでしたが、波もそれほど荒くなく、水の中できらきら輝きながら主人は海に還りました。「いつの日にか、私も傍に行きます」と約束して最後のお別れをしました。
第922回・自然葬
海の極楽目にしたような感動
(植田美和=故人の妻)
健康一筋に生きてきた夫は、まもなく迎えるはずの金婚式を待たずに通い慣れたスポーツジムで倒れ、医師たちの努力もむなしく一人黄泉の国へとたびだってしまいました。遺品の中に"いらないずくし"の遺言書を見つけ、どうしたらよいか途方に暮れました。と申しますのも唯一、夫の願いは「遺骨は暖かい南の海に撒いて欲しい」と記されておりましたから。
10月16日、沖縄・宜野湾沖は台風23号の影響で海風がすこし強く感じられましたが快晴でした。身内の家族11名、指定された宜野湾マリーナに集合、出船を待ちました。強風は収まらず、土壇場で予定変更の大変な困難に見舞われましたが、沖縄支部の坂野様、与那嶺様、船長の佐久本様のご助言とご配慮により、心にしみる海洋自然葬が出来ました。
宜野湾のトロピカルビーチの小さな入江の堤防はマリンブルーにきらめく海の中にあり岩場に砕ける波頭が白くはじける光景は絵葉書に出てくるような所です。坂野様の「これより故植田和秀様の自然葬を行います」のお言葉を合図に和紙に包まれた遺灰と黄色、紫色の菊の花びらは海風に吹かれコバルト色の空とマリンブルーの海に舞い上がり舞下り、波間に漂う無数の花びらに守られた遺灰は海の青さに溶け合い揺れながらゆっくり暖かい海に還っていきました。
帰路立ち寄ったホテルの最上階の大きな窓から見えた風景はたったいま自然葬をしてきたばかりの美しく小さな入江のながめでした。すべてよかったとの万感の思いで眺めながら、残された人生を精一杯生きようと自分自身に誓いました。
第924回・自然葬
自由な葬送ができたことに感謝
(斉藤由美子=故人の娘)
母は、亡くなる1年8カ月前には四肢麻痺・遷延性意識障害でいわゆる植物状態でした。散骨は車イスで半身不随でありながらも元気で居た頃の母の希望でした。最初の脳梗塞まだ64歳で、これから旅行などに出歩こうかという時でした。それから車イス。想うことは死や苦しみ、悲しみだけといっても過言ではありません。子供達に迷惑がかかる、申し訳ない、など折にふれてメモを書き綴っていました。3人の子供達はお墓にそうそう参ってはくれないだろう。朽ち果てる自分のお墓を想像して散骨を思いついたようです。孫たちにまで"散骨希望"を言っていました。
度々の入院の後、たまに目を開くだけの物言わず微動だにせぬ母を在宅看護としました。1年8ヶ月の在宅療養は短かすぎです。自室で出社する私を見送って母はひっそりと亡くなりました。私の子供たちと一緒に身体を拭き、最後は骨まで手でさわって海へ還しました。最後の最後まで、母に触れることの出来た私は幸せでした。
第929回・自然葬
夫と母に続いて来島海峡に
(中国支部長=山崎俊二)
10月28日の来島海峡の秋空は、天高く澄み、暖かく、波も静かでした。船は第3大橋の巨大な橋脚の近くの島影にエンジンを止めました。遺族は、故岡林照子様の実妹の池内宏江様とそのご主人そしてその娘さんの3人でした。いつもは、潮流に乗せられて遠くへ流されてしまう花びらが、丁度、潮の変る時間帯だった為か流されずに目の前の波間に長い間漂っていました。1999年9月19日、同じ海域で岡林様のご主人とその実母を自然葬に付していたことを知りました。ご主人は内村鑑三を心酔する無教会派クリスチャンで、早くから当会の主旨に共鳴して入会し、瀬戸内海での自然葬を希望していたのです。前回も今回も池内宏江様が実質的な自然葬実施者でした。
第935回・自然葬
妻と娘は昔話をしているだろう
(長谷川裕輔=故人の父)
私が死亡の時は母親長谷川きぬ子が1999年11月3日に自然葬をした所に散骨して下さい。そう遺言した昌代を2004年11月7日、同じ千葉県岩井海岸沖に自然葬にすることができた事を大変よろこんでいます。母親を自然葬した時に感想文を記載した通り、きぬ子、昌代の親子は昭和中頃より10数年間、毎年夏を房洲岩井海岸でたのしく過した思い出がありました。現在は親子で楽しく昔話をしていると思います。きぬ子、及び昌代の自然葬は晴天で房洲方面が良く見えまし
た。
第937回・自然葬
後を追うように飛んできたカモメ
(大川良子=故人の次女)
父・靖に続き、昨年の11月14日、母・和子の散骨を駿河湾で行いました。はじめ10月21日の予定でしたが台風で中止になり、今回も朝から曇りでしたが不思議と散骨の間だけは富士山も顔を出し快晴となりました。
花々が渦を巻き海面を漂っている様は父のときと同様に美しかった。散骨が済み戻る時、一羽のカモメが後を追うように何回も船に近づいてきました。まるで名残を惜しむがごとくで、皆同時にカモメを母と思ったそうです。私は目が合ったので思わずありがとうといいました。上空でもう一羽が見守っていましたので、父を思いました。
人間みな、最期は思いだけ残し元来たところに戻って行くのだとつくづく感じさせていただきました。
第938回・自然葬
「アア、よかった」
(中国支部長=山崎俊二)
昨年11月17日の玉野市宇野の海は小春日和であった。会員の持ち舟"瓢"号は四国高松の山々が見える小さな島影にエンジンを停めた。23年前に逝去した木村忠雄氏と13年前に逝去したマツエ氏夫婦の合同葬で高松市に住む次女の木村美智子さん1人が船に乗った。遺灰が撒かれ、弔笛が鳴り合掌し終わったとき、木村さんは「アア、良かった」と言われた。
両親の葬式は世間並みに済ませ、戒名も付け、遺骨は長年付き合いのある寺の墓に埋葬した。しかし、暗闇の墓の中に遺骨を閉じ込めておくことに違和感を持っていた。姉とも相談して自然葬に踏み切ったのだそうだ。寺との話し合いは円滑に運んだ。、百姓をしていた父親手づくりの「わらを打つ木槌」で遺骨を砕いた。心の動揺もなく楽に灰にすることが出来た。「アア、良かった。」と思わず口から出たのもこんな経緯があったからだろう。朝、夢の中で母が「起きなさい。遅れるわよ」と起こしてくれたという。
第939回・自然葬
祝福の赤い帆を張って
(西田真知子=故人の長女)
昨年より縁あって事務局のお手伝いをしております。この1年、自然葬の契約事務や立会いをさせていただくという貴重な経験をしていますが、故人の人生の最後にかかわらせていただくと、あたかも生前から知り合いだったような気がします。また、遺族とお話をするだけで、故人の生き様が伝わってきます。 た。
両親の生き様も実に沢山の事を教えてくれました。父は5年前、母は2年前に亡くなりました。相続の事務処理も終わり気持ちの整理もついたので、昨秋、両親の希望に添って相模灘で自然に還しました。ふたりの旅立ちを祝福するようにシナーラ号に赤い帆を張ってもらいました。晴れて波静かな海面に、バラと百合の花が別れを惜しむかのようにいつまでも漂っていました。10余人の私の友人たちにも一緒に見送ってもらいました。下船後の食事会での友人ひとりひとりのスピーチに、私は両親が亡くなってから初めて涙をこぼしました。
第941回・自然葬
一部始終は夢のよう
(内海東美子=故人の娘)
当日の日和の良かったこと、何もかもが美しく輝いて荘厳な大自然に抱かれた感激に至福のひとときを過す事が出来ました。母の希望が、こんなにも素晴らしい形で実現でき、すべての方々に感謝するばかりです。
真鶴沖での散骨が本当に出来るのか不安でした。何か侘しい場面しか想像できなかったので、実際の一部始終は夢のようでした。クルーザーのような真白い船、キラキラした波に漂う白や黄色の花々、透き通った海の中で静かに沈んで行く母の骨。これ以上望むべくもなく最高のセレモニーでした。身が震える程の感激に言葉が見つかりません。感想文をと云われたのですが、何度書いても感傷的になってしまい、歯が浮くような文になってしまいます。
第944回・自然葬
願っていたこの日
(白崎喜久子=故人の姉)
当日の日和の良かったこと、何もかもが美しく輝いて荘厳な大自然に抱かれた感激に至福のひとときを過す事が出来ました。母の希望が、こんなにも素晴らしい形で実現でき、すべての方々に感謝するばかりです。
第948回・特別合同葬
恩寵の年月憶い散骨す
(倉橋春江=故人の妻)
散骨は亡夫の願ひ 冬ざくら
朧月や 散骨の海 鈍色に
低気圧の通過で、シナーラ号の出航は見合せとなる。10名宛、小舟に分乗。波しぶきを浴びながら近場にて散骨。
亡夫の教え子で海の男を自負する若林さんが、足元のおぼつかない私の介助をして下さったお陰で無事、波頭を越えて流れていく花筏の上に遺骨を乗せることができた。清貧を貫き通し、釣好きだった亡夫には「海の貴婦人」よりも、誠にふさわしい葬送の儀となった。
恩寵の年月憶ひ 散骨す
第948回・特別合同葬
あふれる涙はうれしさの涙
(土屋良子=故人の娘)
波が高くなってきたので出航を30分繰り上げます。このようにいわれ、防水コートを支給頂いての出航となりました。軽快なエンジン音に合わせるように船体をバタバタと波が打ち寄せています。うねりも段々に大きくなり、15分くらい進んでエンジンが止まり急に波の音だけになり、汽笛を鳴らしますから散骨下さい、との事。ボーという汽笛。何とわびしげに響いた事でしょう。
用意した花びら、母の好きだったお酒を添え、めぐりめぐって何時の日か親子の絆が結ばれるなら、その時もっともっと幸せな人生にしましょうね、お墓に閉じ込めるより、大海原の元いつでも逢える、そんな想いを胸に見送りました。船は海面の大きな波に浮いている花びらの周囲をボーボーと汽笛とともに3回まわりました。何と胸に迫る音だったのでしょう。止めどなく溢れる涙は悲しさの涙ではなく嬉しさの涙でした。
第948回・特別合同葬
「会」の存在の大きさ
(林朝子=故人の妻)
平成16年12月4日土曜日、前日より台風なみの低気圧の発達で大荒れになると予報されていたのにもかかわらず、どうにかその日は船を出すことが出来てほんとうに好かったと感謝しております。かならずしも夫の望みではないかもしれませんが、生き残ったモン(者)勝ちで私の思うとおりにさせて貰いました。私の時も同じようにして欲しいと、近しい縁者には話してあります。
人も他の動物と同じ物体なのですから、自然に還えす方がほんとうだと思います。次から次にと産れてくる人の為に狭い土地を使用するのは限度があります。
「葬送の自由をすすめる会」がどんなにこの度の私にとって大きな存在だったか言葉に云いつくせません。
第949回・自然葬
遠くない時期に鹿島灘へたどり着くと…
(菅谷昌久=故人の弟)
当日の日和の良かったこと、何もかもが美しく輝いて荘厳な大自然に抱かれた感激に至福のひとときを過す事が出来ました。母の希望が、こんなにも素晴らしい形で実現でき、すべての方々に感謝するばかりです。
予定された12月5日は季節はずれの台風の影響で陸も海も日本中が大荒れの天気となり、中止となりました。仕切り直しをした12月10日も風雨強く波も高いとの予報で、皆をヤキモキさせましたが、当日は快晴微風の好天気に恵まれました。
素晴らしいヨット「シナーラ」号に乗った私達弟妹は青い海に消えてゆく兄の遺骨、波間に漂う花びら、その光景に涙があふれ合掌しました。房総沖を越え遺骨と兄の想いが故郷の鹿島の海に辿りつくことも、そう遠くないことと思います。本当に心に染みました。
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