第1351回・小樽沖特別合同葬
思いのほかスムーズだった砕骨
(武田功=故人の長男・兄)
小樽の海は時折薄日も差し穏やかだった。昨春、91年余の生涯を了えた母は、亡夫の眠る海(父はフィリピン近海で戦死)で菊や紫陽花、向日葵などと共に水面に漂っていた。やがて和紙包から放たれ真蒼な海中へ散っていった。きっと母達(赤子で没した妹と)は美しい魚たちに囲まれながら父と再会を果たしているであろう。
正座の苦痛、解らぬ読経など、強い疑問を感じてきましたが、3年程前、自然葬や散骨を考える集いに妻と参加し、資料を見たり話を聴いてこれだと直感したのでした。しかし、母に話せぬうちに死を迎えてしまいました。葬儀は自宅で母や家族の好きな音楽を流して行い、地球や自然の大切さを語り合いました。一部に異論もありましたが、妻や子供達は賛同してくれました
合同葬の手続きを終えても難題は、粉砕骨にする作業でした。「再生」で自分で行なった人の文章を読み我が家にあった碁盤大の厚板と庭の立木を加工して砕き棒をつくり、母が生前に小物入れに使っていた菓子缶でフルイを作り取りかかりました。白布に包み手で柔むと殆んどが砕け、『父と母の再会』を願いながら40分位で終える事ができました。
前日、妻と息子、娘と4人で札幌へ。末娘たちと小さな偲ぶ会を行い、最後の別れをしました。ほんとうに爽やかな葬送で、地元の釧路港でも実現できるよう願って居ります。
第1351回・小樽沖特別合同葬
両親をよろしくとかもめにも頼んだ
(松浦路子=故人の娘)
7月19日、小樽沖の特別合同葬に参加して両親の散骨を終えました。娘、孫、曾孫の手で海に降ろされ、波間に静かに消えていった遺骨を見て、安らかに眠ってほしいと祈りました。
5月の連休後、函館にあった両親のお墓を諸々の事情があり撤去し、市へ返還しました。遺骨をどうしようかと話し合い、自然葬で再度送ることになりました。戦後、満州から引き上げて来て、苦労の多い生活を終えたのですが、今頃は2人で懐かしい場所や、早く亡くなった子供たちのところに行こうかと語らっているかも知れません。港にもどる船を追ってにぎやかに飛んで来るかもめたちにも、両親をよろしくと頼んで参りました。
自分たちの行く末もこのようにと息子夫婦にしっかりと頼んでおこうと思っています。
第1351回・小樽沖特別合同葬
脳の霧が晴れている事に気づいた
(進藤文子=故人の妻)
7月19日、曇り。今日は主人の散骨の日です。準備した物と庭に微笑んでいるアジサイを摘んでいきました。かもめに送られて小樽の沖に出ると、晴れて嬉しくなりました。散骨が始まり、アジサイが波にゆられながら色鮮やかに輝いているのはなんと素晴らしい眺めかと見とれました。
初めての体験に緊張の連続でした。汽笛がなり帰途に着きました。胸いっぱいの幸福感と海の空気をいただいて、こんな素敵な自然葬を主人にしてあげられたことを感謝しました。未知の冒険家になってドキドキ胸がおどったり、脳の霧が晴れていたりすることに気づきました。これからは元気に頑張っていかれる希望と夢をいただきました。
散骨にかもめの見送る沖へいで海に浮かべりあじさいの紺色
送り酒に酔いているらむ散骨の夫の笑顔に赤味さす海
第1351回・小樽沖特別合同葬
散骨か樹木葬かで迷いましたが……
(宮崎勇雄=故人の夫)
自然葬に心をひかれるようになったのは、いつごろからだったろうか。老齢のせいもあり、記憶がさだかではありません。寺の墓地を購入して墓を整備、檀家になっていますが、今様仏教のあり方に疑問をもつようになったここ数年のことのように思います。
立花隆さんが「……個々の生は自然という大きな悠久の生命の流れの中から生まれて、またそこに戻っていくものだから、自然葬が一番ナチュラルで、お墓も必要ないと思っている」とおっしゃっておられるのを新聞で知り、自然葬に決めました。妻のがん発病、入院、容体悪化のなか、インターネットで調べた際、他にも自然葬の団体があるのを知りました。桜の樹木葬もロマンチックで、迷いましたが、墓地を購入して埋葬することにほかならず、最も自然葬にふさわしい、大自然の中に還っていく散骨を選びました。
小樽以外の選択はありませんでした。とてもいい自然葬で、お仲間の方々とそのときを共有できたことは、私のこれからの生きかた(死に方)に影響がありそうです。
第1353回・特別個人葬
9年前、娘の夫の散骨をした小笠原で
(井上和子=故人の妻)
小笠原の南島の海。9年前、娘の夫の散骨をした同じ大変美しい海で、何より夫本人がどんなにか満足しているかと思います。今回は6月に父島に浄土宗の新しい寺が建設されて、和尚様が乗船下さり、読教を頂きました。私も近い将来同じ所にと願っております。
第1354回・個人葬
イルカの群れに歓迎受けて……
(吉岡博子=故人の母)
7月20日、予定通り天草松島湾を出航、沖に向かいました。台風直撃の天気予報で2日前から随分心配しましたが杞憂でした。当日は嘘みたいに晴れ、海上も穏やかで、船酔いの薬など不用となりました。
まだ34歳になったばかりの1人息子は、私を置いて先に逝ってしまいました。実に親不孝者です。医師からあと数年の命と宣告を受け、私は毎日が恐怖の日々でした。恐れていた逆縁は突然やってきました。1人ぼっちになって7ヶ月、涙の出ない日はありません。
今回の散骨に際して身内の反対もなく、当日は息子の友人1人を加えた12名と、熊本支部長の田口宏昭さん、支部の和泉典子さんが立会って下さり、とても心強いものでした。
左右に分かれ思い思いに和紙に包んだお骨、バラの花、ビール、そして息子がいつも持ち歩いていた水などをそっと海にこぼしていきました。後方を見ると、花びらが2列の長い帯状になって美しく波間に漂っていて実に印象深く心に残っています。
その後はイルカウォッチングに連れて行って下さり、びっくりする程のイルカの群れにすばらしい歓迎を受けました。散骨という儀式を重たいものにしたくなかったので、皆の喜ぶ顔を見てこれでよかったと心底思ったものです。小学生2人も参加していたので、さぞかし強烈な夏休みの思い出となった事でしょう。
第1356回・個人葬
花びらの向うに母が見えた
(前田直子=故人の長女)
8月3日、伊東沖で亡母の散骨をしました。とても暑い日でしたが、海はとても静かできれいでした。私は10年ほど前に父の友人、そして8年前に父をシナーラ号で相模灘へ散骨し、今日は3度目になりました。亡母も私達家族も父と同じ海へと考えていましたが、残念な事にシナーラ号は使えなくなり、伊豆が大好きだった母は伊東沖の海に決めました。
母を海に還す時に時になると病院での辛い事や今までの楽しかった事などが思い出され涙が止まりませんでした。父の時のようにサーと海に溶け込んでいくと思っていましたが、花ビラをまき散骨をし、まわりをまわっていただいた時も、まだ母は海の中に漂っているのが見えました。船の通った後の波と一緒に花ビラがゆれていて、その向こうに白い母が見えました。それは「ありがとう。あなた達もこれから頑張って生きていきなさい」と見送っているようでした。私は見えなくなるまで手を振りました。
第1357回・個人葬
小樽の海、父の昔をしのびながら
(板谷 哲=故人の長男)
クリスチャンの母、実家は仏教ながら無神論者の父。昔、母が大病を患った時に「仏教のお墓には入らない。2人とも互いに散骨にしよう」と約束をしたようで、後日、家族で食事に出かけた時に私と妹を前に宣言しました。それから10数年、母は回復しましたが、父は脳梗塞、心筋梗塞、脳出血と血管系の病気を一通りし、現代医学のおかげで発病のたびに命拾いをするものの、どんどん衰弱し、昨秋帰らぬ人となりました。人づてにこの会を知り、無事葬儀を終えることができました。
8月4日、父の故郷である小樽の沖にて、親族と父の友人計20名で散骨を実施しました。抜けるような青空の下、北海道支部役員の方から諸注意を聞いたあと乗船。船を追いかけるカモメがパンの耳をかざすと次から次へとついばみに来ました。10分程で散骨場所に到着。お祈り、賛美歌合唱の後、散骨と献花、父の好物だった甘いものなどを投じた後、船はその場所を3回周回し帰港しました。
途中、伯父や友人が港や海岸を指差しながら、子供の頃、泳いだり潜ったりしてウニや貝を採って遊んだことなど、故人の昔話してくれました。父はきっと子供に戻って小樽の海で楽しく遊んでいると思います。
第1359回・個人葬
辛いこと、みんな楽しい思い出に
(馬場 猛=故人の夫)
2008年6月16日朝の出勤のときのひと言が、妻と最後に交わした会話だった。「行ってきます」「行ってらっしゃい」
普段の、日常的な光景が明日も続くはずだった。そして倒れた日の2日後同時刻の朝に、意識が戻らず静かに息を引き取った。
5か月が過ぎ、年賀欠礼の案内を出す時節、その文面は、まだ傍らに居ると思っている自分に書いているようで、独りでに涙が出てきた。仏壇から「もう、いい加減死んだことを認めなさい」と話かけられダメを押されているようだ。それから迎えるクリスマスや年末年始……、ひとつ1つが、一緒に居ないということを更に感じて行くことになる、と思った。
葬送の儀を8月9日に、松島沖で行った。快晴にも恵まれて、故人にも、私たち見送る者にとっても、悲しい中ではあるが清々しく自然に還せた。
楽しい事、辛い事、色んな思い出が、大きな海の波間に白い粉末の遺骨と共にあっという間に消えた。自然葬後、ずっと辛く苦しかったことが、大きな大きな自然に還した事により、不思議なことにみんな楽しい思い出に変わっていた。
やっと、自然葬の報告を書くことが出来ました。お世話になりました。
第1360回・個人葬
自然に還った妻の永遠の命を祝福したい
(西崎友一郎=故人の夫)
妻、実枝子がことし1月10日、リンパ腫で亡くなりました。それまで何回かがんの手術を繰り返していました。本人の希望により会に入り、02年に自然葬の生前契約をしていました。私共の場合は、親は既に亡くなり、親戚の反対もなく、子供達は親の自由意志を完全に受け入れてくれていました。
葬儀社の方は、こちらの希望を記した「葬儀ノート」の記載通りに事を運んで下さいました。自然葬は国外に住む娘の帰国に合わせて、8月10日個人葬の形で仙台湾で行いました。親族、友人10人の参加でした。すべて思っていた以上に気持ちよく散骨まで至りました。遺骨を入れた白い袋と、赤、黄、白のバラの花びらが、波の上にただよう様子が目に焼きついています。大自然の中に還ってゆく妻の永遠の命を祝福したいと思います。
第1361回・個人葬
生き延びた日々、報告する日を心待ちに
(田中明朗=故人の夫)
亡き妻、綠の遺骨について2年強にわたり仏壇に安置しておりましたが、昨年8月10日、観音崎沖に散骨しました。暑さも少し弱く、風の少ない好天気に恵まれ船もあまり揺れず、子、孫の全員、親戚、甥、姪 友人の皆様のご参加を得ることができました。遺骨のすべてを海に帰しましたので、妻がこの世に生きた物的証はなくなりましたが、私、娘、孫はむろんのこと親族、友人その他いろいろな活動を一緒にしてきた方々が生きている限り妻は生き続けていると思います。それだけ生きれば十分であると考えるに至りました。
生命は海から生まれましたので海に帰るのが自然であり、海への散骨が妻に最もふさわしく、妻自身も強く望んでいるとの結論に達しました。私も同じ場所に散骨してもらいたいとの希望を述べ、娘たちも快く了解してくれました。
人生は深い縁の不思議な出会いであるといわれます。人生の1回性、出来事の非可逆性、個別的なものの掛け替えのなさに思いを致すとき、私たちの出会いは天の気まぐれとしか言いようのない、めぐりあいの不思議のように私には思われます。このような運命の2人の45年に及ぶ結婚生活では、わがままで強情で世事に疎い私を、いつもは姉さん女房として、ある時は友として、また母のごとく見守り支え助言してくれた最高の伴侶・人生の同行者でした。
料理の腕前は、素材を生かした味付けに優れ、見繕ってくれた晩酌の肴にも満ち足りていました。さらに3人の子供の母として、また3人の孫の祖母として見事にその役割を果たし、親戚との付き合いも持ち前の明るさと機転をもって取り仕切り、地域社会を始め各種団体のお付き合いいただいた多くの方々から愛され信頼されたことは限りない慰めであり、感謝の心でいっぱいです。しかし2度と妻に触れることも語ることもかなわないことは、お互いをいつくしみながら余生を過ごすことができると信じていた私にとって悲しみの極みであります。
伴侶のいなくなった淋しさ、悲しさ、虚しさのいずれにも耐えなければならず、また耐えることは生き延びている者の務めであると言い聞かせています。あの世で妻と再会し、なつかしい肴に酒を傾けながら妻が言い残したことなどに耳を傾け、1人で生き延びて来たもろもろの出来事を報告することを心待ちにしているこの頃です。
意識絶えて今はの言は聞かざりし また逢はむ日に懇ろに言え (白川 静)
第1364回・個人葬
妹とともに父母、祖父母を送る
(原田裕朗=故人の孫、息子)
8月21日、祖父母、父母4人の自然葬を青天下、涼風はありましたが穏やかな紺碧の洋上で營む事が出来ました。
母は生前、「人は死亡後は自然に還るものだ。自分には墓は必要ない」と口にしておりました。私自身、共に散骨いたしました実妹とともに母の言葉を胸深くいだいてまいりました。2人で話し合い、4人の自然葬を決定し、施行した次第です。
紙袋に遺灰をつつみ、それぞれが海に沈め、祖父、父の大好物であった日本酒、祖母、母が愛好した日本茶をふりかけ黙祷致しました。祖父、父が酒を、祖母、母が茶をゆっくりと味わっている様に静かに広がり、遺灰は豊穣な紺碧の海にゆっくり還っていきました。
祖父母、父母とも、時代の流れの中で不可能であった海外周遊を広い海につかり楽しんで居る事と勝手に想像しています。
第1367回・個人葬
お母さんありがとう
(安倍眞一=故人の夫)
亡くなって1月。妻の遺骨を望んでいた海へ早く返してやりたい。右も左もわからず会の静岡県支部の方々に助けられ、当日を迎えることができました。あいにくの雨。花、写真、前日に娘、孫、自分で心を込めて包んだ遺骨を点検し、いよいよ出航。船に弱い2人は残って一路散骨場所へ。自分から順次遺骨、花を暗い海へ返していく。
お母さんありがとう。これからは皆を見守って下さい。さようなら。
第1370回・観音崎特別合同葬
母に続いて妹も海へ還す
(伊藤ユキ=故人の姉)
私が死んだらお墓はいらない、水葬にしてほしいと母は折りあるごとに話していました。また、新聞紙上で知った当会のことを話していたことを思い出しました。母は病気になり、自分では入会手続きもできませんでしたので、私が2000年に入会しました。翌年母を希望通り自然葬(相模灘)で海に還すことができました。そして今年9月6日、妹を海に還すことができたのです。私は天涯孤独となりましたが、なるべく早く生前契約をして、海に還していただくことが希望です。
第1370回・観音崎特別合同葬
妻はいつかミンダナオ島へ
(大槻和也=故人の夫)
私達夫婦は、会の趣旨に賛同し、入会しました。そして10年後の9月6日、観音崎沖で、妻を大自然へ還しました。
花びらや緑茶と共に遺骨を海に投じた時は色々の思いで頭が走馬灯になりました。妻は父親の職業上フィリピンで生まれ育ち、終戦で日本へ来ました。すべての道はローマに通ずのたとえ、遺骨は波にのっていつの日か故郷の比国ミンダナオに流れて行くと思いますし、願っています。山ではなく海を選んで良かったと思っています。私も何年か後、横須賀の海から遥かなるダバオの海へあとを追って行くことにします。
第1371回・個人葬
(湯野川俊彦=故人の息子)
昨年9月13日、岡山県の海にて、親族の皆様に参列していただき、亡き父母の遺言により散骨が行われました。生前に両親から「墓はつくらない」「海に散骨してほしい」といわれたときは正直とまどいもありました。しかし、今回、散骨という形で送ることができたことは大変印象に残り、あの父や母らしい考えだったとあらためて感じました。
当日は、まだ夏の名残が残ったような蒸し暑さもありましたが、波も穏やかでした。潮の香りは私や弟が高校卒業まで過ごした山口県宇部市の海に近かった家のことや、その当時の父や母との思い出を呼び戻してくれました。
父は広島で原爆に被爆しました。一緒にいた弟が亡くなるという経験を一生胸の中に抱いたまま医師となり、結核の治療や僻地医療に一生を捧げてきたように思います。母はそのような父を常に支えてきました。そして自分自身がガンを患いながらも、最後まで弟夫婦の力を借りながら父のことを心配し介護していました。
母は父存命の時はつらい抗ガン剤治療をがんばってきました。しかし、父が亡くなると「生きる張り」を失ったのか、つらい治療を受ける気力はなくなったようでした。在宅で看取られることを望み、在宅医療専門のお医者様やケアマネジャーさん、看護師さんに助けていただきながら、最後は私や弟夫婦に見守られながら息を引き取りました。
私は両親が住んでいた京都府から離れた神奈川県に住んでいたことで普段何もできませんでした。「最後だけでもできる限りのことができれば……」と思っていただけに、亡くなるまでの数日間弟夫婦と交代で介護ができ、最後の最後に親孝行ができたと思います。
最近「死」や「介護」をテーマにした曲が流行したり、ラジオ等で流れています。私たちにとって両親の死は悲しいものですが、父や母は「亡くなっても悲しまないで」「どこでもいいから海に行った時ちょっとだけ思い出して(海はどこまでもつながっているから)」といっていました。
両親は将来の環境を心配し、そのような団体にも寄付等していたようでした。私たちはその両親の遺志をついで子ども達に平和な世界を残していかねばと思います。
第1372回・個人葬
自然のものは自然に
(齋藤 勲=故人の夫)
おだやかになった海に散骨する事が出来ました。私達2人.にとっては思い出の強い所で念願を達成する事が出来ました。ご支援いただいた皆様に厚く御礼申し上げます。
妻をなくし1年半のときが流れました。散骨について極めて保守的な地域社会の対応や私自身の2度にわたる入院手術もあり、ときはいたずらに過ぎ去りました。幾度となく図書館にかよい、葬送に係わる図書を読みあさるうちやっと会にめぐり会えた次第です。
本年7月に入会、妻の遺言でもある「葬儀ノート」の指示通り全てとり行う事が出来ました。大任をはたし安堵の胸をなでおろしました。「自然のものは自然に」。人間も太陽系第三惑星という自然によって産みだされ、死を通し自然のふところにもどってゆくという考え方は至極当然の理であります。
第1375回・個人葬
明るく、清々しく、簡素で開放的な自然葬
(飯塚靖子=故人の妻)
おだやかになった海に散骨する事が出来ました。私達2人.にとっては思い出の強い所で念願を達成する事が出来ました。ご支援いただいた皆様に厚く御礼申し上げます。
妻をなくし1年半のときが流れました。散骨について極めて保守的な地域社会の対応や私自身の2度にわたる入院手術もあり、ときはいたずらに過ぎ去りました。幾度となく図書館にかよい、葬送に係わる図書を読みあさるうちやっと会にめぐり会えた次第です。
本年7月に入会、妻の遺言でもある「葬儀ノート」の指示通り全てとり行う事が出来ました。大任をはたし安堵の胸をなでおろしました。「自然のものは自然に」。人間も太陽系第三惑星という自然によって産みだされ、死を通し自然のふところにもどってゆくという考え方は至極当然の理であります。
第1377回・相模灘特別合同葬
自由に生きた夫らしい最期
(廣川冨士子=故人の妻)
真鶴沖の相模灘に散骨と決まったとき、すぐに頭に浮かんだのは夫が大好きだった中川一政の美術館のことです。夫と一緒に行った日のことを思い出し、画集をさがしました。平成9年10月4日(土)から11月30日までとあり、この度と同時期で何か不思議な想いが致しました。時々はこの美術館に絵を観にくるのでは、と想像しています。
生涯心に深く残る日、10月4日は幸い好天に恵まれ快い秋の日差しが波に美しくゆらめいていました。娘と2人で船から散骨し、真紅の薔薇と黄色の百合の花を海に撒き、祈りを捧げました。夫はゆっくりと大自然の中に還ってゆきました。何よりも自由を愛し、自由な生き方を大切にしてきた、夫らしい最後だと思いました。
第1380回・個人葬
一生懸命生き自然に還れたのだ
(稲葉惠都子=故人の妻)
10月11日、私は翌日の散骨を控えて一足先に武蔵五日市駅におり立ち、秋川沿いの宿に一泊しました。川音が雨音とも聞こえて寝ました。明けて12日、よいお天気で山岳耐久レースの日と重なりハイキング、自転車での参加の人達が大勢駅周辺に居ました。親戚や子供たちも集合時刻(午後2時)前にはそろい、西多摩再生の森へと向かいました。40分程で現地に着きました。2人の義姉には登りがきつかったようで散骨場所までは行けませんでしたが、私と子供3人と甥で夫の遺骨をまき、ウィスキーをかけて黙とうし、自然葬実施証明書をうけとりました。
夫が自分の死後どうして欲しかったのかはわかりませんが、ハイキングが好きだったのでこれで良かったのだろうと思います。この世に生をうけ一生懸命生きて自然の懐に還れたのですから。
第1381回・個人葬
真鶴を墳墓の地に選んで……
(西川寅治=故人の夫)
敗戦の色が未だ濃い1956年に私達は結婚し、2人の女児を育てて世に送り出しました。生家から遠く離れた他県で世帯を持ったので、県内には親戚も無く、骨を埋める土地と決めても墓守もいないので、妻と私は早くから仏式葬儀は諦め海か山に骨を還す自然葬を志向し、妻も私も遺言に其の旨を書き残して参りました。
この6月に妻が死去したので、他県(東京・千葉)に嫁している2人の娘とその家族だけで富士山の見える娘達の嫁ぎ先に近い真鶴を墳墓の地に選びました。最初に予定した10月1日は、亡妻の百ケ日で、私の誕生日でもありましたが、台風15号の接近で、13日に延期しました。当日は空が高く、白い雲が浮び、晩秋の日が澄んだ美しい秋の山を背景に、よく凪いだ海へ遊覧船に親、子、孫あわせて8人が乗って沖へ漕ぎ出しました。故人の骨と花、酒、思い出の品の若干を海面に流し、般若心経を高らかに唱えながら故人と決別。船の跡を慕った数羽の鴎のうち2羽がいつまでも離れず「もうお別れだよ、さようなら。」と手を振ったら低く飛んで離れていったのが印象に残りました。
第1382回・駿河湾特別合同葬
白い羽の形のオーロラの母
(小室佳世=故人の長女))
いつも夜、瞳を閉じると、かならずスウェーデンでの最後の夜に見たオーロラが浮かんで着ました。昨夜は白い羽の形にのびて消えてゆきました。「よかったのだこれで」本当にそう感じました。もうこの世にあなたの形はありません。「それでいいのよ、物や形にとらわれない生き方を本当はしたかったの」。
生前のあなたの言葉が思い出されます。「海、いいわよ」。娘の私は「丘なんかいいんじゃない・海も山も見えるし」。たわいないやりとりを交わした頃を今朝は懐かしく思い出しています。「また、何処かで逢いましょうね」「あなたみたいな娘はもうたくさん」。あなたの明るい声が白い羽をのばしながらそう私に伝えていたのでしょうか。あなたの生き抜いた姿は私の心にずっといますから。ありがとう母さん。
第1383回・紀伊水道特別合同葬
自然体でできた最後の別れ
(杉山弘子=故人の妻)
一筆申し上げます。10月18日、紀伊水道で自然葬をとり行っていただいた杉山です。幸いの好天に恵まれ、波もおだやかで、お世話役の方、船長さんほかのお取り計らいのおかげで、しめやかな中にも自然な、全く自然体で最後のお別れができました。亡夫杉山善三は紀伊田辺出身で何よりも和歌山を愛し、海が大好きな人でした。希望していた天神崎(田辺市)ではありませんでしたが、北緯34度、東経135度の深海の奥ふかく沈んでいく遺骨、海面いっぱいにいつまでも浮かぶ散布した花、花。汽笛を鳴らしていただき、これもとても良かったです。
貴会との出合いは息子がひそかに父親の念願をかなうべく努力してきました。今回成就できたこと何より嬉しく皆々様に感謝します。
第1385回・個人葬
「骨の匂い」に満たされた思い
(市口清一=故人の夫)
昨年10月21日の島原湾は快晴で風も穏やかでした。妻は東京育ちですが、私の実家が熊本市内にあり母は82歳で健在です。ほとんど郷里に帰っていませんが、結婚したてのころ妻と天草や島原を観光したことがありました。点在する島々と風景の美しさ、それに隠れキリシタンの方の生きざまには、2人して胸が熱くなった記憶があります。
妻の死は急でしたが、日ごろ海への散骨を話していましたので迷わず島原湾に決めた次第です。出航は、母と従兄弟2人、立会いの方2人の6人でした。海の底深くへ雪のようにゆっくりと降りてゆく白い粉骨。潮に運ばれて漂う赤や紫の花びら。そして波の上にビールを流しました。沈んでゆく粉骨を見て私には安堵感がありました。
帰港のさい、今まで感じていなかったのが不自然なほどに突然、潮の匂いを感じました。豊穣にして懐かしい匂い。というか、一瞬の逡巡のあとの感覚は、「あっ骨の匂い」というのが素直な印象でした。不思議なことに満たされた感情がありました。
第1392回・個人葬
父の手を上げた後ろ姿が見えた
(山﨑 晴=故人の長女)
時が来ないと 自分の気持が解らないことがある。 咀嚼なのか発酵なのか自分の思いが固まるのに時間がいる。 父の散骨……。
父の遺書に「散骨希望」とあった。
墓は威圧感があって何となく好きになれない。父もそうだったかと思ったが、散骨に至る道すじが解らない。
S社の美術雑誌の編集長を40年勤め、白洲正子、岡本太郎など業界の名士と交流があり、人生を上澄みだけで生きてきた。下積みをやった事のない父は、観念的に、美学中心に生きて、現実の場、家庭はいわゆる「火宅」だった。女性問題。離婚。後妻。実子と後妻問題……と、家族の人生を振りまわしていた。
「至る所に青山アリ」と散骨を記す父は 相変わらず 散骨に至る道すじは示さなかった。
父らしい。
別世帯でもあり、父の後妻もいたこともあり、父は2年程、お骨のままでいた。
そんな2008年初夏、後妻である義母の認知症が発覚した。ホームに入居するため突然、父の散骨が現実問題となった。
人づてに「葬送の自由をすすめる会」を知り、手続きして、本を読み、入会して……と、にわかに生と死が私の中で近しくなった。
上澄み人生を観念的に生きた父を、下積み人生と現実を生きている子が送るのにふさわしい程、それはあっけなかった。
時化で日のべとなった仕切り直しのその日は、秋のはじまりで、凪。遠く東の水平線には 住んでいた湘南も望めるほど 晴れわたった。
外洋と内洋の境目あたりだろうか波が高くなった地点で 船は止まった。参加は私と小学3年生の娘の2人。会のボランティアの方。
ボッチャン。ボッチャン。意外に大きな水音。
花びらを風にまとわりつかせ 船は汽笛を鳴らして 海に円を描いた。
月1度は新宿二丁目で 足元がふらつくまで共にはしごをして酒を飲んだ。 「じゃあ」とばかり、片手をあげて振り向きもせず夜の街に消えていった父。 その手をあげた後ろ姿が 見えた。
父らしい別れだ。今になってしみじみ思う。イベントでない葬送でよかったと。
散骨後2か月。いまだその後ろ姿は消えない。
第1395回・個人葬
大好きだった瀬戸の海へ
(吉田 淳=故人の父)
娘は愛媛生まれ、愛媛育ちで美しい瀬戸内海が大好きでした。
亡くなって17年。いつの日か、瀬戸の海に還してあげたいと考えてきました。10月に行われた東海支部の交流会に妻と参加して決心しました。
私と妻、長男夫婦、次男が今治のホテルに前泊。久しぶりに家族全員が揃い、夜おそくまで思い出話をしました。
当日11月2日は穏やかな秋の日でした。瀬戸の島々、青い海、白い灯台、来島海峡大橋は船からみ見ても美しいものでした。涙と深い感動とともに天国での再会を約束、賛美歌をうたって散骨しました。
青い海に浮かぶ紅のバラの花びらと汽笛は私たち家族にとって忘れられない思い出となるでしょう。
第1396回・個人葬
広い世界への入口としての再生の森を実感
(佐々木敏行=故人の長男)
母といっしょに暮し始めたのは6年前の秋、母が最初の脳梗塞で倒れ仕事を失った時からでした。その母が昨年2度目の脳梗塞で急死し(享年83才)、生前の希望通り、山での自然葬を、甲府再生の森で実施させていただきました。
初めて訪れたその場所は、山の尾根近く、日当たりのよい斜面に開かれた、森というよりは雑木林か梅林、あるいはベンチも遊歩道もない自然緑地、とでもいった趣きのところでした。
立会い人の高橋さん御夫妻が、7年前に土地を提供されて実現した場所とのことで、すでに私を含め15家族の方々が自然葬をしている由、敷地には御夫妻が植えてこられた30種を越える樹木や草花が、枯れ木もそのままに残された中で程よく手入れされており、初夏の頃には、敷地内の榎(エノキ)から国蝶のオオムラサキが羽化し舞い飛ぶ姿も見られるそうです。そのようなお話をうかがいながらここを最期の別れの場所として選んだことに、深い安堵を覚えました。
生前花を見るのが好きだった母のために、枝垂桜や合歓木(ネムノキ)、紫式部などの根にそっともどしてやりました。これから同種の花を見かける度にこの日がなつかしく思い出されることでしょう。
「千の風になって」の歌詞にもあるように、生者が「ここ」という場所に未練を残さず、広い世界へと心を開いていく入口としての「再生の森」は、昨今話題となっている「樹木葬の森」とは、その自然観、死生観の上でも一線を画するものではないかと、初めて散骨を体験して、あらためて思ったことでした。
第1399回・個人葬
家族の思い出いっぱいの山梨の土に
(山本啓子=故人の妻)
夫の死から3年後、21歳の娘との粉骨作業は試行錯誤の6時間を越えました。最初の怖さは然る事、こんな清清しい達成感を覚えるなんて、思いもしませんでした。
物心ついた頃から、「読経と木魚」に馴染めない私でした。夫は亡くなる少し前から、親族に「散骨を望んでる」と、それとなく口外していて、今回実施できたのは、そのお陰だと思います。娘は夫の名前を、粉骨で幹の元に書き記し、最後の別れをしました。
娘の小さい時から週末は山梨の山荘へ通い、夫の仕事で疲れた身体はその「自然」の中で癒され、穏やかな顔を取り戻します。家族の思い出いっぱいの、この山梨の土になれた事は、大変喜ばしく思います。
一度は甲府の病院で一命を助けていただいた事もあり、私たち家族にはこの森は「甲府再再生の森」となりました。この「森」は、まるで、お庭の様な印象の所でした。「よかったね。ありがとう」って、いつもの笑顔が見える気がしました。
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