遺族の感想文

遺族の感想文 第1301回(2008.4)~


第1306回・個人葬

波音に心をあずけ伯母思う
(森田夏生=故人の姪)

 いつかこんな日が来る事はわかっていたはずなのに――。

 運命と片付けるにはあまりに突然の悲報に言葉が出ず、伯父の落胆さを慰めるすべもなく、ただ葬儀を滞りなく過ごす事に精一杯だった。葬儀が終わり、伯父から伯母の生前からの希望であった自然葬を行う事を告げられ、海が好きだった伯母の想いを尊重する伯父の気持ちに一同賛成した。

 4月の網代沖の美空は青く、どことなく寂しくも感じたが、私達一行は、元気だった頃の伯母との思い出を昨日の事のように話し散骨した。花を海面に浮かべた時、庭で咲いていた花を前日伯父がガクから離したと聞き、40数年共に過ごしてきた日々の思いを花びら1枚1枚に込めたのだろうと思ったら、胸にこみあげるものを感じた。花びらが果てない波に浮かんでいる姿は、今にも消えそうでもあり咲きそうでもあった。船から港へ戻る時、別れをおしんでいる私達の頭上をどこからともなく一羽のかもめが翔び、いつでも暖かく太陽のような優しさで見えなくなるまで手を振って見送ってくれた伯母のように港へと送ってくれた。波音に心をあずける度に、雄大な自然へと旅立った伯母が私達の胸の内を温めてくれるのだと、そしておおらかな海にいつでも見守られているのだと感じる事ができた。


第1309回・個人葬

思い出したコペンハーゲンの海
(松下 徹=故人の夫)

 亡き妻は、ヨーロッパ旅行が大好きで、2人で何度も行きました。ノルウェーやポーランド、チェコなどにも行くつもりでしたので、足腰を丈夫に保とうと、それまで同様2人で毎日5キロのウォーキングを続けていました。

 昨年3月末、妻は体調を崩し、入院すると腹膜がんが進行していて治療不可能といわれました。緩和ケア病棟に移され、その数日後の4月12日には息を引き取りました。

 妻も私も有明海沿岸で生まれ育ったので、懐かしい島原湾に散骨することに決めました。今年4月26日、天草市松島町の桟橋から船に乗りました。風と波が少し強く、曇天でした。船は風上に向かって進みましたので波しぶきが強くて船室に引き上げました。以前、コペンハーゲンの港から妻と2人で高速船に乗ってスウェーデンのマルメまで行ったときも波しぶきが強く、当時が懐かしく思い出されました。

 有明町から海に突き出た"高岩の鼻"の沖に浮かんだ無人島の黒島の近くで散骨のため停船すると、波しぶきは止まりました。室外に出ると、島原半島の懐かしい普賢岳はかすんで見えませんでした。船はかなり揺れていましたので、1分間の黙祷のときは足下がぐらついて、立っているのがやっとでした。花と一緒に遺灰を海に投げ入れると、遺灰は風に飛ばされて海の上に落ち、みるみるうちに海の底に消えてしまいました。

 これで妻も故郷の海で永い眠りに着けたと思います。


第1312回・個人葬

瞬間の別れにいろいろの言葉聞く
(山田早智子=故人の妻)

 初めての体験の自然葬は、お天気に恵まれ、得がたいものになりました。海の美しさ、刻々と変化する波の美しさ。祈りをささげ、海に流れた瞬間、つつみ紙が自然に開き、美しい姿を見せて海の中に還っていきました。その上を花びらが祝うがごとく……。

 感動しました。声なき声を聞いた思いです。中央に花びらはあつまり、いつまでもいつまでも心の触れ合いを感じました。突然の別れだっただけに、この瞬間の別れにはいろいろな言葉を聞くことのできた幸せを感じています。海の姿、波の変化。忘れることなく、私のこれからの人生に消えることのない幸せを感じています。


第1313回・個人葬

素晴らしかった神戸港の眺め
(平井能一=故人の息子)

 4月28日、大阪湾にて父の散骨の場を設けて頂きましてありがとうございます。当日は神戸港でブラジル移民百周年記念のイベントがあり、皇太子も来られていたという事で本来散骨は難しかったはずだと思いますが、会の皆様のおかげで無事散骨を済ませることが出来ました。

 感動しました。声なき声を聞いた思いです。中央に花びらはあつまり、いつまでもいつまでも心の触れ合いを感じました。突然の別れだっただけに、この瞬間の別れにはいろいろな言葉を聞くことのできた幸せを感じています。海の姿、波の変化。忘れることなく、私のこれからの人生に消えることのない幸せを感じています。


第1317回・個人葬

「位牌戒名葬儀墳墓皆不要」と夫
(森妙子=故人の妻)

 亡夫は生前、自らお別れの挨拶状をしたため最後に「位牌戒名葬儀墳墓皆不要」と記していました。富士山をこよなく愛し、よく写真を撮りに通っていました。富士山の見える所での散骨を望んでいましたので駿河湾に決めました。

 5月11日は、若葉寒むの曇り空、台風2号の前ぶれか波も高く、富士の雄姿を眺めることはできませんでした。清水港を出港して30分、大揺れのデッキから鐘の音と供に白い紙に包まれた小袋の遺灰を海に沈め、庭に咲いていた色とりどりの花を散らし黙祷を捧げました。

 その場で3回旋回し、急ぎ港に帰って参りました。3人の娘の家族9人がそれぞれの思いを胸に何かを感じとってくれたことと思っています。長女が私の最後の時にはお父さんの遺灰と一緒に撒いてあげるから1つ残しておくようにと言いました。遺影、遺灰に明るく語りかけながらこれからの日々を前向きに過ごしていきます。何のためらいも不安もなくこの日を迎えることができましたことに心から感謝いたします。


第1319回・個人葬

大手毯の花とともに
(大熊正子=故人の妻)

 5月17日は、幸い天候に恵まれ、新緑の若草色鮮やかな甲府再生の森での自然葬を無事済ませる事が出来ました。

 私自身は、2006年7月に観音崎での自然葬で両親を送り、今回は主人を山で送りました。

 どちらも心おきなく送る事が出来ました。私自身、土に還りたいと思っていますので、その時はまた「甲府再生の森」へお願いしたいと思います。 

立会いの方々が大手鞠(オオデマリ)の白い花をたくさん摘んで下さり、一緒に散らせました。


第1320回・個人葬

風に吹かれ不思議な気持ちに
(東慶子=故人のいとこの子)

 積もった枯葉の間から白い小さな花をつけた薄緑の草があちこち首を伸ばしている。花を踏まないようにそっと歩く。枯枝が足の下でさくさく音をたてる。遺骨をつかみ膝をついて枯葉の上に撒く。真っ白な遺骨は指の間からさらさらとこぼれ落ちる。骨に酒を注ぐ。

 春には桜が満開になるこの場所で、親せきの男性は長い間の仮の住いから、自然に還っていきました。


第1321回・個人葬

小さな花つけた草生える枯葉の中に
(奥野正史=故人の次男)

 積もった枯葉の間から白い小さな花をつけた薄緑の草があちこち首を伸ばしている。花を踏まないようにそっと歩く。枯枝が足の下でさくさく音をたてる。遺骨をつかみ膝をついて枯葉の上に撒く。真っ白な遺骨は指の間からさらさらとこぼれ落ちる。骨に酒を注ぐ。

 このようにして父は自然に還っていきました。もしかするともっと大きなもののもとに……。今度ここを訪れるときは私も骨粉となっています。


第1323回・個人葬

紺碧の海にカクテルの赤、石楠花の白
(曽根晴美=故人の娘)

 5月17日夕方、真鶴にて母の海洋葬を行いました。参加者は、父と私、夫と娘2人の家族のみで、地元の遊覧船を貸しきっての葬儀でした。

当日、天候も良く波も穏やかで、恵まれた船出となりました。出航後まもなく、船は真鶴半島沖合いに停泊。そこで父と私で母の遺骨を海に入れ、他の家族とともに、生前母の好きだったカクテルと石楠花(シャクナゲ)の花を海に撒きました。紺碧の海にカクテルの赤と石楠花の白が散って揺れて、目にしみました。そこで1分間の黙祷をささげ、船は花のまわりを1周して帰港しました。  夕日に輝く美しい海で、家族皆で母を弔えたことにしみじみ感謝を覚えました。


第1325回・個人葬

母の後を追い父も同じ海へ
(新潟県支部=遠藤辰也・記)

 新潟市在住の故關賢次郎さん(08年1月24日死去=85歳)の散骨は、新緑の5月24日新潟沖の日本海で行われた。

 長女の丸山良子さんら遺族5人が参加。河口に近い信濃川岸壁から出船(新潟海難救助隊の救助船)した。当日は気温28度の夏日で、だしの風が強く波もやや高かったが、遺族の望みどおりの海域で散骨した。

 北緯38度、東経139度。ここは昨年4月23日、良子さんの母(07年2月27日死去)、つまり賢次郎さんのつれあいの散骨した同じ海上のポイント。「父も母もいま手を取り合っていることでしょう」と良子さんら遺族はうっすら涙をうかべた笑顔で語り合っていた。


第1330回・合同葬

父の"再生"への旅立ち
(武田和朗=故人の長男)

 父が亡くなったのは昨年の6月1日。生前、合同葬を希望していました。会に自然葬のお願いをし、偶然にも命日に当たる一回忌の6月1日に仙台湾で行うことができました。

 前日までは台風の影響で長雨が続き、当日の雨も覚悟はしていました。快晴でしたが、さすがに外洋に出ると波は高く、何かにつかまっていないと立っていられないほどでした。父も永年、会の交流会などに参加させていただき、種々の知識を得ての旅立ちです。散骨の場所が近くになるにつれ複雑な気持ちになりましたが、父は念願かなってさぞ喜んでいることでしょう。

 遺灰はスーツと海へと溶け込み、生命の源である豊饒なる紺碧の海に父は還って行きました。父の"再生"へのスタートです。捧げたたくさんの白バラや白のカーネション、菊の花びらは海面に漂い別れを惜しむかのよういつまでも波間に浮かんでいるのが印象的でした。


第1339回・個人葬

母にふさわしい外国につながる海
(大沢敬子=故人の長女)

 6月17日、梅雨の最中の晴れ、波も穏やかで無事に相模灘で母の散骨が出来ました。

 立会いの方の指示で遺灰を海に入れると、きれいに包まれていた和紙がゆっくり広がって、やがて波間にみえなくなり、共に撒いた花びらが浮かんでは消えていきました。人は死んだら自然に還るのだから、お墓は必要ないといっていた母。おしゃべりが好きで自由に生きました。外国が大好きで横浜や長谷の大仏で外国の方とのふれあいを楽しんでおりました。外国につながる広い海は自由が好きだった母にとってふさわしいなと思いました。


第1345回・観音崎特別合同葬

緊張のあとさわやかな気持ちに
(小田幸枝=故人の妻)

 7月5日は、観音崎沖での夫の散灰の日となりました。梅雨のため雨や曇りの日が続いていましたが、幸い晴天。前日、持って行く遺灰やお酒、お花などをカバンに入れるとかなり重いです。しかし、私が果たさなければならない役目を無事に出来ますよう、祈るばかりでした。

 決められた現地集合の時間がありますから、緊張の連続です。立会いの人にお会い出来たことで、張り詰めていた気持ちは、やっと和らぎました。乗船がはじまりました。揺れる船に乗り移ると間もなく出航です。船から見える景色は素晴らしく視界も良く、波の音も聞こえてきました。濃い藍色のきれいな海です。やがて灯台が見えてきました。再び緊張してしまいます。最後のさようならです。海の色、神々しく清々しく感じます。

 この地球の海へ夫の遺灰は還ることになります。私の手から離れてピンク色の花、白い花、波にゆれて美しく思いました。さわやかな気持ちでした。心からありがとうを申し上げます。


第1345回・観音崎特別合同葬

今までたくさんありがとう
(江戸奈津子=故人の妻)

 6年前に父の遺灰を山に散灰致しました。生前より「墓はいらない、山に帰して欲しい」と話しておりました。そして私達夫婦も「父と同じようにしよう」と話し合っていました。その主人が今年3月に亡くなり、私の気持ちがまだ落ちつかないまま、7月5日の特別合同葬を迎えました。抱きしめていた主人の遺灰はあっという間に海に沈んでいきました。とうとう、大好きな海へと旅立ちました。

 気候も丁度良く、波も穏やかで、海の冷たさもきっと主人はさわやかに感じた事でしょう。私も久し振りに潮風と太陽をいっぱいあびて「海に来て良かった。本当に良かった」と心から思いました。たくさんの花びらが波間にただよい、「さようなら今までたくさんありがとう」と主人に別れを告げました。


第1345回・観音崎特別合同葬

海に出て夫の願いをいまさらに理解
(川島道子=故人の妻)

 広々とした海原、透き通った海水、白い飛まつを船べりに飛ばしながらゆったり進む。潮風がさわやかに頬を打ち、ああ、やはり海でよかった。夫が「海。海」と願っていた気持ちがいまさらながら理解できて、涙が滲んでまいりました。胸打たれたのは、遺灰を海中に入れた瞬間でした。今まで抑えに抑えてきた涙がこみ上げてきました。自然に還ることができて、本当によかったです。


第1345回・観音崎特別合同葬

娘の判断、母はどう思っただろう
(道慶早苗=故人の娘)

 2008年7月5日の天気予報は曇りのち雨でしたが、幸なことに雨の降ることはなく、自然葬の行われた観音崎沖は濃霧に包まれてはいたものの、船の揺れることもない穏やかな海でした。

 前回(2007年12月1日)、出港時間に間に合わなかった失敗を繰り返す事もなく、無事に散骨を終えることが出来、感謝の気持ちでいっぱいです。2年前の3月26日に母は亡くなり、札幌の大学病院へ献体しました。大学病院で火葬と病院葬を行っていただきました。

 母は生前、死後のことは私に任せると言っておりましたが娘の判断をどう思ったのかは永遠に分かりません。


第1345回・観音崎特別合同葬

大海原を前に不安消える
(鈴木貞子=故人の妻)

 若い時より夫は散骨を希望しておりました。けれど、私どもは実際に直面して大変悩みました。

 一時は市の墓地に申込みましたが抽選にもれ、また、墓をつくっても孫がなく墓守が途絶える事など考え、会のお世話になる事を決断しました。前日よりの風も穏やかになり、広い大海原を目前にした時は不安もなく、三笠保存会会員の主人が度々訪れていたこの横須賀より乗船でき、私どもも安堵致しました。

 花びらの流れとともに沈んで行くお骨に最後の別れは感銘をうけました。私も同じ場所にと思っております。

霧笛の中で別れの手を振った
(鈴木和子=故人の長女)

 墓はいらないという生前からの父の願い。そして父の残したメモ書きと、知人からの情報で「葬送の自由をすすめる会」にたどり着くことができました。

 特別合同葬は、父がよく通った横須賀の港からの出航ということで、まさに父が計画したかのような永久の旅の見送りでした。父のワイシャツで作った袋で骨を砕き、和紙に包み、父のハンカチで作った袋に好きだったゆりの花と供に納めるまで、ただ黙々と。

 船のエンジンが止まりました。会の立会人の方々と波に浮かんだ一羽のかもめに見守られる中、和紙に包まれた父の骨をひと包みずつ花びらと共に海に放つと、たちまちのうちに海にとけ、しばらく浮かんでから消えていきました。まるで私達に振り返って手をふるようでした。

 皆さんの散骨が終わると、あたりは瞬く間に霧につつまれて、波の上の花びらはまるで葬列の道標のように見え、静かな悲しみを込めた霧笛の中、私はやっと父にさようならと手を振ることができました。こんな素敵なお別れの場を用意してくれた会に心より感謝します。


海風受け父への思いめぐらす
(鈴木直子=故人の次女)

 祖父が海に関係のある職業だったせいか、父は海や船が好きで、今回の出航地である横須賀に私も度々来ておりました。

 当日はうす曇りで蒸し暑い日でしたが、船首に立って風を受けていると大変気持がよく、父もこの様に感じたことがあるのだろうか、そして今と同じ風景を見ていたのだろうか、などと思いを巡らせておりました。

 観音崎の少し沖で全ての御家族の散骨が終わり帰港するかと思いきや、散骨した場所を船が3周回ってくださるとのこと。丁度その時、霧が濃くなり、最後のお別れをすることができました。


第1350回・個人葬

大自然に託し、心が軽くなった
(森井潤=故人の夫)

 小樽の海は時折薄日も差し穏やかだった。昨春、91年余の生涯を了えた母は、亡夫の眠る海(父はフィリピン近海で戦死)で菊や紫陽花、向日葵などと共に水面に漂っていた。やがて和紙包から放たれ真蒼な海中へ散っていった。きっと母達(赤子で没した妹と)は美しい魚たちに囲まれながら父と再会を果たしているであろう。

 正座の苦痛、解らぬ読経など、強い疑問を感じてきましたが、3年程前、自然葬や散骨を考える集いに妻と参加し、資料を見たり話を聴いてこれだと直感したのでした。しかし、母に話せぬうちに死を迎えてしまいました。葬儀は自宅で母や家族の好きな音楽を流して行い、地球や自然の大切さを語り合いました。一部に異論もありましたが、妻や子供達は賛同してくれました。

 合同葬の手続きを終えても難題は、粉砕骨にする作業でした。「再生」で自分で行なった人の文章を読み我が家にあった碁盤大の厚板と庭の立木を加工して砕き棒をつくり、母が生前に小物入れに使っていた菓子缶でフルイを作り取りかかりました。白布に包み手で柔むと殆んどが砕け、『父と母の再会』を願いながら40分位で終える事ができました。

 前日、妻と息子、娘と4人で札幌へ。末娘たちと小さな偲ぶ会を行い、最後の別れをしました。ほんとうに爽やかな葬送で、地元の釧路港でも実現できるよう願って居ります。


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