第1204回・個人葬
もっと気軽に」といっていた夫
(今泉澄子=故人の妻)
入梅直前の悪天候の中、主人の散骨を終えることができました。彼は解放されたように荒波の中へ泳ぎだしました。葬儀のプラン、葬儀後の一切のこと、そして散骨の場所とすべて自分の意志で決定していました。ただこんなに荒れた天気になるとは思いもよらなかったでしょう。
波しぶきに洗われる甲板を眺めながら、同行していただいた皆様の髪の荒れる様を眺めながら生前主人の言っていた言葉を思い出していました。「自然葬をもっと気軽にどこでも行えるようになるのはいつかなあー」。散骨をと考える私たちにとって誰でも思うことのひとつでしょう。この会の啓蒙がもっともっと広く行きわたっていくことを思わずにはいられません。
第1205回・個人葬
父の急逝で考えた会のこと
(山下靖子=故人の長女)
慌しさと悲しみだけの葬儀から2年4ヵ月、5月19日午前11時55分、父の生前の希望通り、母と私、親族、父の旧知の親友の方の手で父の遺灰は生命の源である大いなる自然、相模灘の沖に還って行きました。
お父さんありがとう。お父さんの思い通りさせてもらったよ」と、やはりその時は感慨無量の思いで一杯になりました。
亡き父は会の東海支部の会員として、支部長さんはじめ他の方々と会の運営のお手伝いをさせて頂いておりましたが、一昨年急逝致しました。生前から自然葬への意志をはっきりと表示しておりましが、私自身は特別深く考えもせず過ごしておりました。急逝して改めて、この会の趣旨を考える課題と時間を残してくれたこと、また皆様のお力添えで無事父を見送れましたことを感謝しております。
第1210回・個人葬
葬儀せず、参加者17人に
(山田真理子=故人の長女)
葬儀はするな、墓にも入らない、との遺志に従って5月26日に千葉上総亀山に散骨を致しました。前日までの予報とは異なる晴天で、紙コップに移した遺灰を撒きました。参加は17人。葬儀をしないのは気持ちの整理がつかないとの想いからか、多人数になりました。遺灰は緑の中に沈んでいきました。故人の好きだったお酒とビールとともに。
田舎暮しがしたいと神奈川より福島に移って8年目に迎えた死でしたが、やりたいことをやり、最後も信頼できる医師に出会えて幸せだったと思います。傍に居てやるとの本人の弁で私の手元に少しの遺灰を残してあります。かつての同僚たちが7月に偲ぶ会を計画しています。その時に一緒に上京します。それから先は‥‥私の最後のときに息子たちが一緒にしてくれることでしょう。
第1211回・個人葬
篠笛の「晩鐘」とともに
(喜多村蔦枝=故人の妻)
夫が亡くなって半年が過ぎた5月26日、葬送の自由をすすめる会および日本自然葬協会のお力添えにて、西多摩の再生の森に散骨しました。
前日の雨が上がり、曇りなき空の下に青葉の風が心地よく吹き渡っています。杉木立の山林は所々伐採され、日の光が足下を照らしています。遺灰となった夫を背負い、常磐木落ち葉を踏みながら山を登ります。
尾根から山の急斜面に向かって骨灰を握った手を広げました。ただ手を広げただけなのに、風に誘われて私の手を離れていきました。自らの意志があるかのように、さらりと飛んで行きました。少し離れたところでは長男と次男が空に手をかざして撒いています。娘は自分の手から離れ、風に舞う真っ白い灰の行方を見ながら、何回も言います。
「うわーきれい」
夫はいま宇宙の塵になりました。娘が鎮魂の篠笛を吹きました。『晩鐘』という曲でした。篠笛が響いている間中、胸がいっぱいになって私の涙は止まりませんでした。立ち会ってくださった方々に、図らずもこの地で篠笛を聞けた事も、とても良かったと言っていただきました。
第1216回・個人葬
「母と伯母の海」に
(満田モユル=故人の姪)
太陽の光の中でトルコブルーとエメラルドグリーンに輝く石垣の海に、伯母の散骨を行う事が出来ました。2年半前、母を見送った海です。その時、一緒に珊瑚礁の美しさに歓声をあげ、群れ泳ぐ熱帯魚に見とれ、白い砂浜で貝を拾いましたね。そして「自分もおなじところに……」と言いおいていたのです。
伯母の遺灰は、あっけない程の早さで色とりどりの花びらにかこまれてコバルトブルーの海にすい込まれていきました。
「母の海」が「母と伯母の海」になりました。いつまでも美しく豊かな海であって欲しいと思っています。
第1221回・個人葬
このような会があったとは……
(山田耕太郎=故人の父)
平成19年2月11日に私たちの最愛なる息子を、飲酒運転で赤信号無視の無法者が運転するトラックに奪われました。18歳の短い人生でした。息子の心情を思うと家族は何をしてやればいいのか。いろいろ考え、息子が愛した海や山の自然の中に還してやるのがいちばんいいのではと思いました。はじめは個人で信州の山か太平洋に遺骨を撒こうかと考えましたが、パソコンなどで妻が調べて「葬送の自由をすすめる会」を知ったのです。 6月4日、私は散骨の旅に出た。気に病んでいた天候も晴れ上がって上々。船は30分ほど進行して港外へ。風もなく海面はおだやか。3つに分けたセツの遺骨と花びらの包み。「ばあちゃん、自然に帰ろうな」「富士があんなに大きく見えるよ」思いをこめて海へ。それはみるみる海底ふかく姿を消して行く。やがて三点鐘があって、しばし黙祷。
山は日程調整など難しかったので、海にしました。会の担当の方や船長と乗組員の方にも親切にしていただき、本当に良かったと思いました。このような会があったとは、まったく知りませんでした。
私が逝ったときはお願いすると思います。よろしくお願いいたします。
第1225回・特別合同葬
海軍兵学校の兄と面会した横須賀で
(田中邦子=故人の妹)
60数年前、横須賀海軍兵学校に志願した兄の面会に訪れた横須賀。それ以来の横須賀で、姉を大海の海に送り出すとは感無量で涙を抑えられませんでした。入会して17年。3年半の闘病生活で2月に命がつき7月7日、観音崎の沖へ姉の希望通り、甥2人と散骨に参加できました。無事に終わり有難く、お世話くださった会の方々にお礼申しあげます。
第1225回・特別合同葬
夫が私の内に帰った日
(原口君子=故人の妻)
朝から雲が重く、今にも雨が落ちて来そうな天候。夫の骨とおしゃべりしながら和紙につつみコヨリで結び、昨日から仏壇に供えていた。胸にだいて長男と一緒に港まで。何家族もといっしょだったので私も夫も楽しい一時でした。
ずっといっしょに今日まで、そばにいた夫が大好きだった海に帰って行った日、胸の中で「サヨナラ……」と。この時からますます夫が私の内に帰って来た日でした。 ありがとう。7月7日は私の特別な日となりました。
揺れる船の中で、遠くの山々を眺めては深呼吸ばかりしている自分がいる。私の中で何度も繰り返される言葉、「約束は果たしたからね!」今日のこの日まで様々な思いを秘めてきた事、何度も本当にこれで良いのか!、と自問自答しながら骨を粉にした事もすでに思い出。この小樽で全て終わったのだという思いと、私たちを縛り付けるものなど何もない事を。
人のあらゆる感情を海がその懐を広げ、飲み込んで行ってくれた。ありがとう、心から感謝。
第1225回・特別合同葬
納得できる形に安堵
(青木嘉明=故人の夫)
7月7日、待ちに待った日が遂にやってきた。百日忌に友人と2人、地震にあった能登の実家で粉骨式を行い、この日に備えてきた。
早朝、泊めて戴いた吹田の友人宅を2人で出発、新幹線を経て横須賀中央の待合場所に到着。既に妻の双子の姉は、東京から来て待っていた。前日買い求めた花は水に浸けておいた。この場で茎を切り離す作業を行う。妻が所持していた幼い頃から小中学校、看護学校時代の写真などを数冊のアルバムにまとめて持参した。前半世を共に過ごしてきた姉は、なつかしそうに熱心に見入っていた。
この日の観音崎の海はやや波が高く、船に弱い私は、いざ散骨という時1つ1つ心を込めて撒くことができなかった。ただ大声で妻の名を叫びながら夢中で撒いた。私ができなきなかった分、姉が念入りにやってくれた。友人が撮ってくれた写真を後でプリントしてみると、姉の前腕だけが写っているものがあり、散骨の瞬間が生々しく捉えられていた。海に差し出された一本の手から、惜別の悲しみ、喪失の無念さが痛切に伝わってくる。
第1225回・特別合同葬
九州の墓を整理して
(冨嶋唯昭=故人の長男)
私ども夫婦が特別合同葬に参加しましたのは、最近身内の誰かを亡くしたのではなく、今年、父の十三回忌に老齢、病気、遠くに住んでいる(埼玉県、お寺は九州の小倉)ため、集まることができなくなったからです。我々は老齢のため、この先、墓の掃除、墓参りも出来なくなり、どうしようかと心を痛めておりました。
貴会の存在を知り、この際思い切って墓を更地にしてお寺に返すことに決めました。父のお骨とお墓の中に少し残っていた先祖のお骨も、貴会にお願いして散骨していただくことにしました。
当然、私ども夫婦も子どもに迷惑をかけないように、将来は散骨していただこうと考えています。
7月7日の観音崎沖の散骨には、粉骨したお骨を持って夫婦で参加しました。船内では、亡くなられた人のことを思われてか涙ぐんでいらっしゃる方もおいででした。私どもは、広々とした海に散骨して、「自然に帰してやれる」とひそかに喜びを感じておりました。
順番が来てお骨を海に投げるとき、思わず「ホッとした気持ち」になりました。ビールとジュースを撒きましたが、亡くなった父が「自然に帰してくれて有難う」と言っているように聞こえ、目頭が熱くなりました。
第1226回・小樽沖特別合同葬
山仲間と話し合っていた自然葬
(片平卓男=故人の夫)
妻は、3年前ガンのため、享年57歳で他界しました。
お骨は還暦を一緒に迎え、お墓については、長男・二男に跡を託すのも難しい状態なのでゆっくりと考えることにしました。私は山登りが好きで、家族で大雪山や東北の山へと足を運びました。長い間、山と触れ合っていますと、親しい仲間が山で亡くなり、好きだった山に散骨した話も聞き、自分もできればそうしたいと妻に話していました。
妻は小樽で生まれ育ったせいか、札幌に家を構えてからも、札幌に行くよりも慣れた小樽に終始家族で通っていました。また、子供が成長したら1年くらいクルーズで世界の海を周遊したいとよく冗談を言っていたので、「小樽沖の特別合同自然葬」は妻の考えに叶うのではないかと思い早速申し込みました。
7月14日の天気は良かったが、台風4号の影響で波が高く、小樽祝津間の定期航路は中止となっていました。船は予定より早く出港、小樽港を離れ祝津沖に出ました。かなり揺れ、ゆったりと散骨はできませんでしたが、私と長男・二男でお骨を海中に投じました。好きだったワインとお花を撒き、是非聴きに行きたいと言っていた イタリアの歌手「アンドレア・ボテェッリ」の「タイム・トウ・セイ・グッバイ(君と旅立とう)」の曲を流した。
「ひとりでいる時 地平線に思いを馳せる でも言葉は届かない 君と旅立とう。君と見たことも暮らしたこともない国々へ‥‥」
波がおだやかな日、小樽からオタモイ航路に乗り、ハイキングや海水浴をした赤岩、オタモイ海岸を眺めるのを楽しみにしています。
第1226回・小樽沖特別合同葬
車を止めて聞いた「千の風」
(小山清子=故人の妻)
今回、亡夫の意志を継いで入会できました事を嬉しく思います。
亡き夫は、自分の死をわかっていたかのように、葬儀は身近な兄弟姉妹で家でしてほしい、骨は自然に返してくれるように、と書き止めてありました。
定年後三年で人生の幕をおろしました。宗教の話しをよくしてくれ、海の上、空から見ているよと話していましたから、初めて「千の風になって」の歌を聞いた時、車の運転を止めて聞きました。亡夫の言っていた事と同じで驚きました。
7月14日晴天に恵まれ波は少し荒いようでしたが、散骨をし花が沢山波のうねりに乗って流れていき、責任をはたした安堵感と少し淋しさが入りまじりました。私も人生の幕がおりた時は小樽沖で散骨をしていただく事にします。
第1226回・小樽沖特別合同葬
「えんかま」にはまった姿想像
(安倍泰子=故人の妻)
台風接近を感じさせない、静かな海でした。小樽に生まれ、育ち、水産高校を卒業した故人の、「死んだら海に捨てて欲しい」と望んだままに、海に送ること出来たこと、良かったと思っています。
遺灰を海に還し、船がその周りを回り始め、波しぶきが降り、波の上の花の渦をみたとき、今、えんかま(海の底の渦巻いて吸いこんでいる所)にはまりながら、嬉んで泳いでいると想像していました。
骨は私ひとりで粉にしました。版画家の棟方志功が、奥様の亡くなられたとき、柩の蓋を石で打ちつけながら「なばへんかするの、これがさいごだ」と言ったと。私もと、でも言えませんでした。ごめん、ごめんなさい、としか。ホスピスに送らねばならなかったときのことなど。考えながら、2人きりの最後の時間、私の手で粉になってくれ、海に還せてあげられて、本当にありがとうございました。
第1226回・小樽沖特別合同葬
あらゆる感情を受け入れた海
(畠山優子=故人の長女)
あっという間に、あっけなく、白い包みは海の底へと深く沈んでいった。感動の言葉や気持ちもなく、ただ投げ込まれた包みを次から次へと見ていた。
そんなものなんだろうか?
こんなものなんだろうか?
揺れる船の中で、遠くの山々を眺めては深呼吸ばかりしている自分がいる。私の中で何度も繰り返される言葉、「約束は果たしたからね!」今日のこの日まで様々な思いを秘めてきた事、何度も本当にこれで良いのか!、と自問自答しながら骨を粉にした事もすでに思い出。この小樽で全て終わったのだという思いと、私たちを縛り付けるものなど何もない事を。
第1228回・個人葬
花びらが忘れられない
(岩橋照子=故人の妻・母)
7月19日、房総半島、野島崎へ船で夫と長女の遺灰といっしょに行きました。乗り物酔いしやすい私は船べりにつかまり、船のつくる大きな波と海原を見ていると、遠い昔、若かった夫と娘達とで函館の大森浜で泳いだ時を思い出しました。このような波で喚声をあげながら皆で波乗りをしたことを。
我にかえると、散骨した時にいっしょに撒いた花びらが、ほおずきの橙色の実が、波に寄せられて私の目の前にきました。それはとても美しく一生忘れられないこととなりました。
海には鳥や魚やクジラがいる
(坂東英利子=故人の次女、妹)
この度は3年前に病死しました姉と共に、去る5月30日に87歳で亡くなった父を海に還しました。
散骨は生前姉が家族との食卓の席で言っていました。父は姉といっしょにと言っていましたが、子としては父が亡くなるまで棚上げしていました。いざ実行しなければならなくなった時、インターネットで、キーワードに「散骨」「海」等入力して捜しました。たくさん出てくる商業ベースのところは気が進みません。ところが非営利で散骨を行っている団体が見つかりました。父の亡くなった3日後には直接東京の事務所へお伺いしました。散骨に抵抗感のある人の心情を思いやって活動されていること、目立つようなハデな葬送を しない点に納得し、会員になりました。早く散骨があたりまえのこととして受け入れられる日がくることを願います。
私はバードウォッチャーなので気がつきましたが、この日はオオミズナギドリと言う海鳥が数百羽飛んでいました。海には四季を通じ、夏鳥・冬鳥、春と秋の渡り鳥と飛びかいます。さらに海の中では魚やイルカ、クジラがいて、少しもさみしくありません。行なって良かったです。
第1230回・個人葬
「悲愴」を聞きながら熱いもの
(伊藤キワ=故人の妻)
五年前に亡くなって、海への散骨を望んで果たせなかった主人の葬送の自由をすすめる会の申込用紙(1997年)をみて、息子と計り継承する者のいない成田の墓地をとじて主人の母と共に散骨をすることにいたしました。
船は野島崎をあとに沖へ沖へと進みます。小さく見えた灯台も視野に入らなくなったころ、立ち会って下さった会の立会いの人の祖慶雅子さんにうながされ散骨いたしました。 主人には好きだったチャイコフスキーの「悲愴」をながし、祖母には白い菊の花を波に浮かべて見送りました。
悲愴の曲に耳をかたむけながら「これでよかったのかしら」なぜか熱いものが込みあげました。思い返し生きているものはすべて海から生まれてきたときいております。主人も暗いお墓の下の仮の住処を出て自然の広い海に還りたかったのだと思います。因みに主人の墓の墓碑銘は「還」の一文字でした。
碧き海 永久の住処と ねむれかし 合掌
第1231回・個人葬
今こそあなたは自由な存在に
(原輝=故人の夫)
亡妻留女子は2年前の乳がんが肝臓に転移し、平成19年5月31日未明3時に旅立ちました。享年56歳でした。遺言により7月22日、西多摩再生の森で散骨式を行いました。
脱皮した蝶のように
今こそあなたは自由な存在となったのだ
風に乗って せせらぎに乗って
朝の光となって両神山の頂上から
大海原を渡りあなたは飛んでいく
ミレーの種撒く人のようにボクたちは撒く
大地に撒かれた あなたから
草が生え、樹が育ち、小鳥が生まれる
梢を揺らすざわめき
小鳥の囀りとなったあなたは
ボクたちに新しい命を吹き込んでくれる
そう ボクたちはいつでも一緒なんだ
あなたは立派にやり通しましたよね
縁をいただいた周囲の方々にお別れの手紙を書き、それぞれの人にできるかぎりの心遣いを果たし、1日が1週間のように感じると語っていたあなた ありがとう。
もう1度――ありがとう。
つつがなく自然葬を実現してくれた葬送の自由をすすめる会に心から感謝します。
第1232回・個人葬
前から決まっていた祖父の海
(別府美奈子=故人の孫)
私の祖父は2年前の、6月7日に日付が変わった頃に亡くなった。その日の夕方、見舞いに行ったときに「小遣いだ」と言って渡されたお金がそのまま形見になった。父方の祖父は私が生まれる前に亡くなっており、私にとっての「おじいちゃん」は母方の祖父だけだった。
祖父が体調を崩した頃、もし死んだらどうするのかという話を聞いた。祖父が墓に入ることを望まない、と知ったのはその時だ。祖父は言っていた。海に骨をまいてくれ、と。
祖父は海のある場所で生まれ育った。その海に骨をまこう、というのは、祖父が亡くなる前から決まっていたような気がする。祖父の話を聞いていた祖母が、自然葬送に関する様々な資料を集めていたのだ。
献体に出されて戻ってくるのに1年と半分。叔父一家と私たちが集まったのは7月の終わり。日差しの強い暑い日だった。
海は静かだった。波は高くなく、穏やか。私たちは海に出る前に写真を撮った。祖父と一緒に。海を背中に。
祖父の砕かれた骨が、粉状になって紙に包まれていた。私たちはそれを一つずつ手に取り、海へ投げた。花をたむけ、酒を撒いた。
第1234回・個人葬
波間から「じゃあね」と笑顔の母
(高野淳子=故人の次女)
天候に恵まれ、その日家族に囲まれた母は観音崎沖の海に還りました。散骨をしてほしいという母の思い通り、その思いを叶えることができてよかった、という気持ちでいっぱいです。
病気に立ち向かい、前向きに生きた母。残された私たちに、どのように人生の幕を引くか鮮やかに示して、さっそうと旅立っていきました。美しい花びらが漂う波間に、「じゃあね」と母が笑顔で手を振ったような気がして、じっと波を見つめていました。
梅雨の晴れ間、風を切って帰る船上にさわやかな風が流れ、心も穏やかに「母さんよかったね」と語りかけました。去年3月、母の弟である叔父もこの観音崎沖に散骨いたしまた。いまごろ、仲良く旅をしていることでしょう。
第1235回・個人葬
自然葬の前、お骨と2度の旅
(江口三枝=故人の妻)
自然葬に注目していた私は、息子が県外で生活しており会うのもままならず、いつ話をきり出そうか思案にくれておりました。息子が帰郷した折、勇気を出してきり出してみました。息子たちは散骨のことを知っていて迷わず合意できて、平成15年1月10日入会の手続きをしてくれました。
私達は広島での自然葬を語る会には2回参加させて頂きました。3回目(平成17年4月17日)出席するため、列車の切符を用意しましたが、主人の身体の不調で残念ながら取りやめました。中国支部の山崎俊二さんにお会いしお話を聞くことを楽しみに、その日を待っていましたのに。その後快方に向かい、今までのように海外旅行は出来なかったのですが、小旅行は実現できました。みんな安心し、大変喜んでいました。が昨年12月、急に入院し2日目に永遠の眠りにつきました。
広島の会は心残りだったと思います。自然葬の前に2回お骨を持って旅にでました。今までホテルでは、一杯を美味しく、寛いでいる主人の姿がありました。この度も、お骨の前でお膳を用意し、お酌をし、色々思い出し、かえって辛くなりました。子供や孫が、散骨を玉野市の沖に選んだことをとても喜んでおります。一番喜んでいるのは、亡くなった主人と思います。
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・この感想文は、7月29日、岡山県玉野市の宇野港沖で行われた江口弘二氏の自然葬の際、妻の三枝さんが事前に書いて立会いの山崎俊二・中国支部長に託したものです。
第1237回・個人葬
「千の風」に背中をおされて……
(川村理佳=故人の長女)
8月5日に、松島湾沖にて母の散骨をさせて頂きました。一周忌を前にして、母の意志を叶え、散骨し、自然に還っていく道筋をつけてあげられたことにホッとした気持ちでいます。
母は、自分自身では、親や先祖をまつるために、墓を作り、守ることに非常に尽力しておりました。精神的にも、労力や金銭的な面でも莫大な負担だったと思います。そのためか、母は「自分のためだけには墓はいらないから散骨してほしい」と申しておりました。そう言われた時はまだまだ先のこととして受けとめられずにおりました。しかし、昨年突然母に逝かれ、考えざるを得ない状況になりました。途方にくれる状況のなかこの会の存在を知りました。散骨は、お墓があるのが当然という現在の状況では、なかなか理解されにくいと思います。周囲は反対しないまでも、理解しにくいなあ、とうけとめるのが大勢でした。「本人の遺志」だからというのと、「千の風になって」の歌のブームが、背中をおしてくれました。愛する親や家族を失った悲しみは立派な墓をたてたからといって癒されるものではないでしょう。それよりも、大きな海原を眺め、母の深い愛に涙し、残された家族と故人を語ることの方がよほど「悼む」という行為に相応しいものがあるように思えます。
第1245回・個人葬
「千の風」を歌いながら
(川口幸子=故人の姪)
この度は、会の皆様にお世話になり、無事に伯母と伯父の散骨を済ませる事が出来ました。大変感謝致しております。
生前、甥である主人を信頼して、遺言書を作成するに当たり、子供がいなかった伯母が一番に望んだのは、「自分の遺骨は、亡き夫の遺骨と共に小田原沖へ散骨して欲しい」という事でした。
3月29日、満開の桜に見送られるように亡くなってから、私達は「散骨」という未知の課題に取組む事になりました。既に埋葬されている伯父の遺骨を霊園から戻す際に、改葬担当の方から「散骨は違法です!」と言われたときには「そんなはずは無い?」と疑問だらけでした。とても強く威圧され、「それではせめて分骨で」と引き下がったのですが、不思議な経緯で全部の遺骨を戻してもらう事になりました。
そして、「自然葬」というキーワードから、この会に辿り着きました。
「真夏の小田原の海へ、夫婦で仲良く還っていった伯父さんと伯母さん、これで良かったのでしょうか?至らなくてごめんなさい。ありがとうございました。」そして、「自然葬」というキーワードから、この会に辿り着きました。
散骨の後、青空を見上げながら「千の風になって」を繰り返し歌いました。
第1246回・個人葬
木下さんの記事で会を知った
(和仁てる子=故人の妻)
猛暑の続く8月21日、横浜の海に夫の散骨をしました。出港後約40分の所で、親族9名と友人3名が祈りと共に遺灰を投げ入れ、色とりどりの花を撒きました。晩年に好んでいたワインも注ぎました。花の周りを船が旋回し、汽笛が鳴りました。かもめが一羽いつまでも花の上を飛んでいるのが見えました。船の揺れがひどくそれ以上進めなかったようです。ともかくも自然の大きな営みの中へ夫を還してほっと安堵しました。
自在に生きて、こよなく仕事を愛し、酒と旅を大いに楽しんだ夫でした。自然葬はふさわしいものだったと思います。沢村貞子さんの海への散骨のニュースに、2人で共感したことも思い出します。また夫の死後数ヶ月経った昨秋、木下順二さんへの惜別の新聞記事で「葬送の自由をすすめる会」の存在を知ることになりました。「夕鶴」や「子午線の祀り」
など木下作品、舞台を長年2人で見てきました。「自由に生きてきた…から、死後も自由でありたい」という考えは、ほんとうに木下順二さんらしいものでした。
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