遺族の感想文

遺族の感想文 第1151回(2006.10)~


第1151回・自然葬

たくさんの楽しみありがとう
(奥村春代=故人の母)

 10月8日、阿蘇外輪山で最愛の息子の自然葬を行うことができました。快晴で、大観峰からの雄大な眺めは素晴らしく、狭い暗いお墓ではなく、大自然の中に還すことができて本当に良かったと思いました。草刈りに立ち合っていただいた方々には、感謝の気持ちでいっぱいです。別れのとき「母さんもあとから行くから。たくさんの楽しみをありがとう」と再会を祈りました。

 私と自然葬の出会いは書店で見つけた本でした。両親を葬式仏教で見送った経験から、いずれやってくる自分たちの葬式、お墓のことを夫と話し合い、シンプルで自然が一番と決めました。平成13年、夫は病でこの世を去りましたが、元気な時に決めておいたので迷いなく散灰できました。

 夫の出生地である熊本で、父の眠る同じ桜の木の回りに還してあげ、安らぎを覚えました。日々の生活の中で「裕ちゃんの分までもう少し楽しんでおみやげ話を持っていくからね」と、元気をもらっています。


第1152回・自然葬

紺青の海に吸い込まれた
(石川賢三=故人の夫・父)

 エンジンの軽い振動を伝えながら相模湾上空を南下するセスナ機の後部座席、その心地良いリズムに先刻から膝頭のあたりが暖かい。そこには和紙袋に包まれた純白な舎利(焼骨灰)が抱かれて居るのだ。

 スーパーの紙袋を手本に水溶性和紙で自作した二重構造の角底袋、完成に何日も要した。

 舎利の精成には更に神経を使った。焼骨の片を一つかみずつ壷から厚地のキャラコ袋(20×30センチ)に移し、丸い川原石を用いて石器時代さながらに「コツコツ」と、ゆっくり打ちつけて粉砕すると、やがてそれは米粒より小さい真白い舎利となる。

 我知らず、彼女に話しかけて居る自分に気づいて苦笑することもあった。何日でもかける当初の心積もりがその日の午後に終わってしまった。

 「どうぞ御散骨なさって下さい。」とのパイロット女史の声にハッとする。飛行機は相模灘黒潮分流の直上300メートルで翼を左に大きく傾けての旋回飛行に入った。今、不二山頂と箱根神山が首尾線上に直列した。開かれた窓から暖い舎利の袋と白菊の手製の花環をそっと押し出す。吸いこまれるようにそれは一瞬空中に舞い落下してゆく。

 「ありがとうございました」。相識って57年、不覚な私の人生をささえて下さった和子さん、そして梢君。白い物体は見る見る小さな白い塊となって眼下紺青の海面に着水した。それはナギの鏡面にしばしたゆたい、更に一旋回、今は青黒い黒潮の面にその最後のキラメキをのこし、そして溶け合った。


第1156回・自然葬

和歌山沖で鶴見和子さん自然葬
 望んでいた南方熊楠ゆかりの海

(関西支部代表世話人=柳 博雄)

 哲学者・鶴見俊輔氏が10月23日(月)、姉の社会学者・故鶴見和子さん(7月31日死去)の自然葬を和歌山湾でいとなんだ。鶴見氏とそのご家族4人、本会からは立会人として関西支部代表世話人・柳博雄と関西支部・鎌田栄吉が参加した。

 当日は、波が高く船は揺れた。自然葬の際、雨がほぼ止み、揺れも小さくなった。鶴見和子さんのお骨は、乗船者みなが見守るなかを尊厳にみちた光景の中で送られた。

アニミズムを選んだ姉にふさわしい心にしみた松島の自然葬
(鶴見俊輔=故人の弟)

 鶴見和子は、自分が死んだら海へ、と遺言した。姉の死後、京都ゆうゆうの里で葬式を終えてから、葬送の自由をすすめる会のお世話を受けて、10月23日、和歌山港に遺族5名が集まり、葬送の会からの2名とともに紀伊水道に向かった。

 和子は、南方熊楠の研究をしており、熊楠ゆかりの神島の近くに散骨することを望んでいた。
 当日は雨。

 天候にさまたげられることは、数日前からあやぶまれていたが、予定の所についたころには、さまたげというほどのことはなかった。

 広い見晴らしがあり、遺灰とともに、さまざまの色あいの花びらを撒くことができた。

 あたりを一巡し、花びらにとりまかれた葬送の場所をたしかめた。

 私たち遺族5人にとって、はじめての経験であり、儀式であった。

 80年あまりを、ともに生きた私にとって、心に残る終わりであった。儀式を頷導された葬送の会の世話役の方がたに感謝します。

 人間の葬儀は、やがてこの方向に向かうものと信じます。

 鶴見和子個人にもどって考えると、和歌をつくる人として、『古今集』仮名序に紀貫之がのべたように、和歌を支えるものみなの生命に自分も流れ入る儀式であった。

アニミズムを自分の哲学として選んだ人にふさわしい。


第1158回・合同葬

水面にはっきりと父の笑顔
(枩山淳子=故人の長女)

 10月29日、朝まで降り続いていた雨が上がり、うそのような青空が広がりました。おだやかな秋の日ざしの中、母、夫、息子、夫の弟で、89歳で逝った父を観音崎の海に還しました。葬送の自由をすすめる会の記事や切り抜きを父の残したたくさんのメモの中から見つけ出し、これが父の遺志なのだと母と判断したのです。

 それなら、父が幼いことから慣れ親しんだ鎌倉に近い観音崎にと、まるで始めから決まっていたかのようにことがトントンと進みました。

 奇しくも、待ち合わせ場所の三笠公園に立つ東郷元帥は、亡父の父親が副官を務めていたという不思議なご縁……。デッキから遺灰を投げ入れた時、水面にただよう美しい花びらの向こうに父の笑顔がはっきり浮かんでまいりました。

 まさに自然の懐へと還っていく父の船出を安らかな想いで見送って、一同、家路に着きました。


第1159回・自然葬

いち早く、運動に「全面賛成」の手紙
 東北の女性歯科医の草分け、岡光さん

(東北支部長=阿部みちよ)

 10月29日、大森山は快晴、澄みきった空気の陽だまりに、冬眠前の小さな灰色の蛙がぴょんぴょんはねていました。9月に亡くなられた岡光さんの自然葬の日です。大袈裟にはしないで、と言っていらしたので、身内だけの密葬でお骨になりました。

 この日のために草刈りされた小さな広場のまん中に、夏椿がすっくと立っています。岡先生は、この木のところから自然に還りたいと言っていたそうです。

 岡先生は、東北での歯科の女医さんの草分け的な方でした。とても闊達で、尊敬の念をこめて女傑と呼びたい方でした。1990年、安田会長が朝日新聞の論壇欄に「遺灰を海や山に、は違法か」という文章を発表したとき、いち早く「全面的に賛成します」と手紙を書いたそうです。

 「私は里山を所有しています。私はそこに散骨するつもりです。山での散骨を希望して、この山がよいという方がいればお使い下さい」。そう言って下さって以来、この大森山からは30人の方が自然に還っていかれました。寄付もたくさんいただきました。

 身内の方など十数人が集まって、11時を少し過ぎた頃、自然葬が始まりました。安田会長が岡先生の思い出と感謝の気持ちを話しました。会長は、とても力を戴いた方なので是非お送りしたいと参加しました。甥ごさんは、自然葬にほんの少し戸惑いながらも、岡先生の意思をできるだけ大切にしたい、と話しました。

 そのあとみんなで夏椿のまわりに灰を撒きました。白いサラサラの粉骨は、なんだか今にも土に溶け込んでしまいそうな風情です。少し水をかけたあと、花を散らしました。本当は、その辺に咲いている野の花がいいのでしょうが、今はもうありませんから、岡先生のお好きだったリンドウの花一輪一輪、カスミソウの花のところなど、心ばかりのはなむけです。

 それから1分間の黙祷、静まり返る里山、何事かとよって来ていたカラス3羽もこのときはなぜかしんとしていました。会長から自然葬実施証明書が渡されて終わりました。

 みんな帰った里山はいっそうしんとしています。これから深い秋に彩られ、やがて眠りの冬を迎えます。


第1161回・自然葬

九州と朝鮮半島結ぶゆかりの海へ
(谷本雄子=故人の長女)

 母が身罷って半年。11月2日に自然葬をしていただきました。

 終日快晴に恵まれ、関門の海は穏やかで、故人を送るにはまことにふさわしい日和だったと思います。この海を選んだには、母の生地九州と幼い頃に過ごした思い出深い朝鮮半島を結ぶゆかりの海であったことによります。

 門司港を出港した「とびはた丸」は、30分で田ノ浦沖合いに停留、ささやかなバックミュージック、いっしょに捧げた黄色や白の花片が濃紺の海面にゆらめき、その波間に母の遺灰は還っていきました。

 初めて経験する海の自然葬はすっきりと簡素ですがすがしく、最後の儀式として心を洗われる思いでいっぱいになります。改めて、自然葬というものの意味について頭の中で反芻しながら帰途につきました。


第1162回・自然葬

孫も美しい眺めを覚えているでしょう
(宮田圭子=故人の妻)

 11月3日は、好天に恵まれ、波も穏やかで家族全員で気持ちよく、さわやかに、散骨させていただきありがとうございました。長年の夫の希望でした。大自然の中に返すことが出来て、私達も約束を果たせた思いで、海面の花びらの円のまわりを船で廻って下さるのを、感謝しながら帰路につかせていただきました。5歳の孫達もいつまでも、目にした美しい眺めを覚えていることと存じます。


第1166回・合同葬

一緒に夫の自然葬
(立美波美江、斉藤ケイ子=それぞれの故人の妻)

 私たちそれぞれの夫は子供の頃より海が大好きでした。私たちは友人の紹介で葬送の自由をすすめる会に入会し、一緒にそれぞれの夫の自然葬を相模湾で行いました。平塚のホテルに着き、立会の方にとても良く教えて頂いて不安が晴れました。空も青く良い天気にめぐまれ富士山が心強くそびえていました。

 バスの運転手さん、3名の乗組員さん、何かと気を使って頂きました。湾の中央あたりで船が止まり何のためらいもなく散骨が出来ました。海も青々ときれいで散骨のあと3度廻り1回ごとに鐘を鳴らし汽笛をならし、まいた花びらがきれいで、夫たちも大変喜んでいると感じました。私たちが死んだ時も、今日のようでありたいと願っております。


第1167回・個人葬

悲しさ超えた清々しさ
(大武昭弘=故人の兄)

 12月2日、網代で姉3人と私だけの散骨になりました。弟の希望でもあるので初めての散骨でしたが、無事に済ます事が出来ました。

 船は最初の予定よりかなり大きく、初島が近くに見ながらの送骨でした。島々も遠くまで見渡せ、悲しさを超えた清々しさを感じるものでした。

 散骨中、7回以上の虹を見ることも出来ました。船は散骨中に回遊して下さったりと心使いには深く感謝しています。

 浅草に墓地を持っていましたが、とくに問題はありませんでした。


第1169回・特別合同葬

参列の人たちに励まされました
(朝倉しのぶ=故人の姉)

 12月9日は生涯心に深く残る日になりました。雨の一日になりました。永久の別れに相応しく大自然の中に包まれて安らかな世界に旅立って行った妹のことを思い、会に参加させていただいたことを感謝しています。私も、残り少ない月日を大切に妹の心残りだったことを少しでも努力して実行して行こうと思います。

 9月頃になりますと、高齢者検診を区の開業医が順番で担当するようです。結果は異常なし、など信じるべきではありません。真剣に2人で生きてきて、1人になって谷底に突き落とされた心境です。余りにも急激な病気の進行に、身の回りの整理もできないままでした。法律の事など人事と思っていましたが、次々と処理しなければならない事が押し寄せ、経験した事のない忙しい毎日でした。

 9日はお集まりになられた方々も大変な悲しみを乗り越えていらっしゃった方々と思いますが、皆さまの少しの事に動じない様子に出会い、しっかりしなければと励まされました。

 心残りを沢山残してこの世を去った妹の事を考え、これから一生懸命に生きて行きたいと思っています。


第1169回・特別合同葬

心を和らげ、恢復の一歩くれた自然葬
(パトリック・ボウドリー=故人の夫)=原文は英文、柴田ひさ・訳

 ある時、産院での分娩の記事が目にとまりました。その記事を私は妻の陽子が妊娠を知るまで何年もとっておきました。息子の空海は産院で生まれました。私は妻の腕を抱え、分娩は畳の部屋の布団の上で2人の助産婦によって行われました。難産でしたが、それは私を妻と息子にぐっと近づけました。とても自然で、薬品やギラギラ光る金属がなく、天恵と感じました。

 12年が経ち、息子を生んだ女性は突然死んでしまいました。私は何の覚悟も出来ていませんでした。火葬後、数週間して、遺灰を家に置いておくのは落ち着かない気持ちになりました。精神的に我々3人は安堵出来ませんでした。

 遺灰を撒くことを推進するという記事をかつて読んだことを思い出しました。あれこれ調べてやっと、葬送の自由をすすめる会の柴田ひささんに連絡がとれました。これだと想っていたことに出会えたのです。

 幸運にも柴田さんには英語が通じ、私の苦しみを理解して貰えたのは救いでした。この団体は悲しむ遺族にとって大切なことを分かっていてくれます。私の希望をはっきり理解してくれて、自然葬実施の詳細は心を込めて、本格的な方法で実行されました。私の感謝の気持ちが永久に変わることはありません。

 妻は存命中に意思表示したことはありませんでしたが、彼女の成育歴を考え、息子に相談したところ、自然葬は最良の最も相応しい選択だと感じました。

 妻、陽子にとって海は心の拠りどころでした。日々の生活のストレスや緊張の中で、私達、家族にとっての一番楽しかった思い出は海でした。2006年の7月29日、湘南で波乗りをした時の陽子の子供の様な笑顔は一生忘れません。彼女の誇りであり、喜びの源である空海がボディーボードに興じるのを眺めるのは人生の至福の時だったでしょう。私にとっても同様でした。ですから、海に還ることこそ彼女には自然で当たり前のことでした。

 自然葬の全ては威厳を持って行われましたが、それは決して固苦しいものではなく、私にはより相応しく思われました。息子と私は夫々に陽子の遺灰を包んだ紙の端を持ってそっと海に滑り込ませました。

 それは、私を和らげてくれ、自分の中での恢復の次の一歩となりました。他の遺族と一緒だったのも大切なことでした。理不尽に聞こえるかも知れませんが、陽子が他の人達と漂って行くのは慰めだろうと信じています。

 42歳の妻を亡くしたのは我人生の一大事でした。まだまだ苦しいのですが、極めてゆっくりと心の平安を取り戻しつつあります。息子には勿論辛いことでしたが、母の好きだった海に還るのを見届けた、この過程が彼を啓発し、慰めると確信しています。

 ここまでの全行程は、大変苦しいものでしたが、自分をじっくり振り返る機会を与えられました。これまでは自分中心の人生でしたが、今、はっきり遺族の気持ちに寄り添えます。

 悲しい出来事がきっかけだったとはいえ、皆様には大変感謝しています。出来れば、自分が経験した様な立場にある人々の何らかの役に立てればと願っています。今、まだはっきりとは分からないながらも、何か活動を通じて他の方々の力となりたいです。

 この会の為に役立ちたいという感謝の念で一杯です。



第1169回・特別合同葬

春になったらまたこの船に乗って‥‥
(小関啓子=故人の妻)

孝夫さんへ
 祭壇を飾ったコスモスの季節が去って、花屋さんの店頭はポインセチヤとシクラメンになりました。花いっぱいの祭壇の前で身内と山仲間だけで心温まるお別れをしてから2ヶ月半が過ぎました。まだまだ実感はないのですが、今日ひとつの区切りの日を迎えました。

 年のあなたの誕生日に臙脂色のマフラーをあげました。「あったかくていいね」と、冬の散歩には愛用してくれました。そのマフラーを私が首に巻いて、71歳になるはずだった誕生日の今日、荒れた冬の海に船に乗ってあなたの骨を撒きに行くことになるとは、神を信じない私でも神様は意地悪だ、といいたくなります。

 やっと医者に行ったときにはすでにがんは進行していて、医者から余命1年の宣告を受けましたが、「古希になるまで生きたから、いつお迎えが来てもいい」と、いたって穏やかにその日を迎える生活でした。すでに5年前、心臓病を患って「死」を思ったときに自分の最後については自分で決めていました。葬送の自由をすすめる会への入会、葬儀なし、戒名なし、墓なしと、妻の私と息子宛の書付は、今回の入院で日付を改めてありましたが、5年前のものでした。

 すぐ上の兄が今年3月に亡くなった折も義姉にさかんに自然葬を勧め、観音崎に散骨をしましたが、まさかこんなに早く自分の番が来るとは予想外だったのではないでしょうか。

 今日は今年一番の寒さの日で、更にあいにくの雨でした。でも、あなたの誕生日であり、あなたが息子も連れて魚釣りによく行った八景島や観音崎です。どんなに寒くてもここには来なくてはと思っていました。これ以上揺られたら船酔いしてしまうと思った頃、まだ港を出ていないあたりでしたが、船長の判断もあったのでしょう、ここで散骨ということになりました。和紙に包んだ遺骨を海に投げ入れると、すっと沈んで溶けた紙から遺骨が波に飲まれていくのが分かります。ちょっと冷たいよね、「さようなら」。たくさんの花を撒きました。大好きだったコップ酒も。揺れるし、寒いし、冷たいし、感傷に浸る余裕もなく儀式のごとくに過ぎたのがちょっとの後悔です。春になったらお天気のよい日に、この船に乗ってここまで来ましょう。

 あなたが逝って1ヶ月後の10月末、山の仲間たちが若いときに毎年テントを張ったマチガ沢の谷川岳のよく見える場所に散骨しケルンを積んでくれました。後は、あなたが大好きだった三宅島で教え子たちが偲ぶ会をやって下さるそうですから、その時にあなたも泳いだ三宅の海に散骨します。2人でよく行った北アルプスにも、とも思いますが「やめとけ」といわれそうですから、どこか近くの山にしましょう。

 墓に閉じ込められるよりよほどいいですね。暑い日も寒い日もありますから、どうぞお気をつけて。


第1171回・自然葬

母が雪に覆われていった
(杉田房恵=故人の娘)

 自然葬にあたっては自分で母の遺骨を少しずつ色々な語りかけをしながら3日がかりで粉末化しました。

 当日はだんだん天候が悪くなってきて大観望に着いた時は雪がはげしく降ったりやんだりと、とても寒い日でした。山道を息子と、立会人の方々と歩いている時は緊張気味でしたが、その場所に着いて木の根元に散骨する時に又雪が降ってきて母が雪におおわれていっているようでした。散骨が終わって来た道を戻っていると太陽が出てきて、周囲の景色が見えた時、本当に大きな大きな大自然に抱かれてもらったような気持ちになり、心の中で「よかったね」と話しかけました。帰りには私も自然に笑顔になる事が出来、何かとても安心しました。


第1175回・個人葬

見事に生きた木村先生
(横関友子=故人の生徒)

 木村先生、私は何番目の教え子だったのですか。

「来年私は50歳になる。定時制高校に入りたい。数学を教えて欲しい」と電話した。どうせ集団就職するのだから勉強は必要ない。心底そう思いこんでいたまったく基礎のない私を、小腸が壊疽して点滴だけで生きている木村先生が塾に受け入れてくれた。小学5年生の子供達と一緒に勉強した。

 何と冷や汗の出ることか。大人のプライドと分からない事の現実。木村先生は私のつまずいている所まで遡って教えてくれた。分かった時のあの喜び。勉強って本当はたのしいものだったんだ。未知の事が分かるのは人間って喜びなんだ‥‥。

 事故に合い、5年かけて定時制高校を卒業した。15年経った今、私の恩返し。先生の足裏のつぼ刺激をしながら散骨の話がでた。先生はすでに葬送の自由の会に入っていた。波打ち際の荒々しさしか知らない九十九里沖の散骨を先生は希望していた。

 2007年2月4日ビックリするほどセスナは小さかった。パイロット、私、会から柴田さんが乗った。風が少気になる。東京湾は鈍色に光っていたが、着いた九十九里沖は驚きのエメラルドグリーンが広がっていた。セスナは左旋回。風圧の中、小窓を右にスライド。

 だから九十九里沖だったんだ。あんな美しい住まいの中へ先生は還って行った。故人の意志を可能にしたのはご遺族の同意と葬送の自由の会があったからこそ。木村先生につき添い、最後はお骨を砕いて下さった教師仲間の皆さん。慕い集まった沢山の人。木村先生は見事に生ききって望む所に還って行きました。74歳で。


第1176回・自然葬

荒れた海に感じた父の存在
(小林隆一=故人の長男)

 2月7日、葉山鎧摺港から相模湾に出て、弟夫婦と共に昨年亡くなった父の自然葬を行った。相模湾は12年前、父が母を送った場所である。父が何故、先祖代々の墓でなく自然葬にしたのか、いくつか理由らしき事は言ってはいたが本当のところはよく知らない。何故相模湾なのかも知らない。

 船から見る逗子の海岸や鎌倉、江ノ島片瀬は子供の頃海水浴で来た所である。まだよく泳げなかった私達が砂浜で遊びに没頭していると父は一人沖で泳いでいることがあった。ここはそこから遙か沖であるが、その海である。天気がよければ三浦半島から丹沢、富士、伊豆の山々に囲まれ、特に冬は最高のロケーションのはずである。この日は予報がはずれ重い雲に北風も強く沖にでると船は大きく揺れた。荒れた海が最後まで存在感をみせる父らしく、別れを印象深いものとした。


第1178回・自然葬

記念の日には海をみながら語りたい
(山仲設子=故人の妻)

 2月25日、亡夫の59歳の誕生日に東京湾で散骨を執り行う事ができました。親族の誰にとっても初めての散骨。夫の意志に従うといっても予想もつかず不安でした。

 当日は少々波も高く風も強かったのですが、参列者1人1人が袋に入ったお骨を持ち、お別れの言葉を口々に発し、海に投じていきました。水溶性の紙で作った紙吹雪が白く風に舞い、色とりどりの花びらが海に浮かび、鐘を5回鳴らしていただき、全員で黙祷し、魂の遥かなる旅路を見送ることができました。

 亡夫が、いつも風となって見守っていてくれるような気がします。

 当日、会から来てくださった、松川さんや船の乗務員の方々のお世話により、安心して散骨できました。とても有難く、出席者にも納得・安心していただけました。記念の日には、この海を見ながら家族や兄姉と思い出話をしたいと考えております。


第1181回・特別合同葬

約束されていた思いのする海
(新山十重子=故人の妻)

 3月の特別合同葬に参加することに決まってから、緊張と不安で落ち着かない半年程を過ごし、いよいよ前日にお花の用意。当日は小雨の朝だったが、集合場所である三笠公園に着く頃には雨も止み風もなく船は穏やかな海をすべり出し、帰港の頃は陽の光がキラキラと水面を照らす好天気になりました。案じていた船酔いもなくホットしました。

 生前から遺骨は海へと話していたので、主人の思いが叶えられるようにとあちこち尋ねる中、「葬送の自由をすすめる会」に巡り合うことが出来ました。特別合同葬が行われる場所は奇しくも主人が何度か来ている思い出多い港であると知り、ずっと以前からすでに約束されていた場所の様な気がしました。望み通り果てしなく続く広大な海へ還ることが出来たこときっと喜んでいることでしょう。

 亡くなって約2年 私も肩の荷が軽くなった様で寂しいながらもホッといたしました。


第1181回・特別合同葬

生前の父を思い目頭熱く
(長谷川貢一=故人の長男)

 3月17日、父長谷川裕輔の遺骨を叔母と2人で散骨しました。昨年これといった病気もない父が突然なくなりました。

 死亡原因も断定できず、亡くなった当日夕方父は笑いながら手を振り、私はまた明日と云って病院を出ました。夜遅く死亡の電話を受け複雑な思いで亡骸と対面し、命のはかなさを強く感じました。

 自然葬当日、みぞれまじりの真冬の様な寒さの中を船は出港しました。エンジンの響きの中、灰色の空を見上げ海面を見つめたりしているうち、あっという間に目的地に着いてしまいました。いよいよだなと思うと父の亡くなった時の気持ちが思い出され目頭が熱くなりました。そして、沈みゆく父の遺骨に手を合わせ最後の別れをしました。


第1181回・特別合同葬

初めてで最後の女房孝行だった
(飯野正=故人の夫)

 妻  美雪へ
貴女の献身的につくしてくれた愛にわたしは甘えてばかりで、なにも夫らしい事をせず、亡くなった今になってああしてやればよかった、こうしてやればよかったと思うと今更ながら悔やまれて仕方ありません。

 一昨年の春と秋に観音崎に行ってコンビニで買ったおにぎり頬張りながら、「素晴らしい眺めのところね」と嬉しそうに云った貴女の横顔が今でも忘れられません。そして今、偶然にも観音崎の海へ貴女の望んでいた散骨が出来るなんてきっと貴女も喜んでいると思います。

 船に揺られながら寒がりな貴女に冷たい海はつらかろうと思い懐に抱いて暖めていました。沖に船が止まり、そして貴女の大好きだった白いバラの花びらと一緒に海へ‥‥泪‥‥‥涙‥‥

   美雪 これが貴女に対しては初めてで最後のたったひとつの女房孝行でしたね。やすらかに‥‥。
  惜別   春浅き観音崎の海深く     静かに眠れ いとしわが妻


第1181回・特別合同葬

夫との生活、走馬灯のように浮かぶ
(平井和子=故人の妻)

 立派な自然の葬送の儀式、物静かな厳かな、上品でかつ高尚な、自然の葬送に、ただただ荘厳と申しましょうか、感無量で涙を禁じ得ませんでした。

 船の中で共に過ごした生活が一瞬走馬灯のように頭に心によぎりました。常に新しい教育に燃えた夫でした。家庭もまじめにやさしく守って下さった夫が最後に選んだ道、大自然の大宇宙の母なる海に守られて静かに静かにいきました。2人でよく歌った童謡唱歌「海は広いな大きな」「松原とおくきゆるところ白帆のかげはうかぶ」と2つの歌を心の中で歌いながら最愛の夫と波の谷間のお花畠のように並んで流れる美しい花に千切れんばかりに手を振って別れをしました。感謝で満足感のすばらしい余韻が残っております。これからはいろいろと生活環境も変わり、淋しさも加わりすべて戸惑う事ばかりでしょうが、皆様の温かいお心を支えとして明るく力強く生きて参ります。


第1181回・特別合同葬

再び家族になれた
(山本まさ子=故人の元妻)

 入会して10数年。私も70歳に手が届く歳になった。そろそろ散骨がどのように行われるのか見ておきたいと思っていた矢先、離婚後10年になる元の夫が急死した。会には一緒に入会したが離婚後、彼は会費を納めず退会となっていた。今回は、遺族として船に乗せていただいた。

 粉にしても骨はずしりと重い。この重みを心に受けて、私、長女、次女と3つに分け、好きだった胡蝶蘭をつけた。一時期はバラバラになった4人が彼の魂に導かれて再び家族となり、竜宮城があるならばそこまでたどり着けるようにと願いをこめて散骨、自然に還って行きました。空を見上げると大きな雲がふわふわ。その上で彼の魂が笑っていた。

 一生忘れない思い出作りでした。

 2007年3月17日午前11時35分。観音崎にて……。


第1185回・個人葬

お墓無用と考えた末会を知る
(碓氷敏博=故人の長男)

 私は平成2年に母を埋葬したお墓を所有しておりました。私達には娘が1人しか居りません。老夫婦が何時の日かその墓に入った時、果たしてお盆やお彼岸に遠くから毎回墓参りに来ることが出来るのだろうか、傍らのお墓の様に線香や花を供えられなければ例え墓の中とは言え寂しい思いをすることになるだろうなと思いました。

 また、将来無縁墓地になるかもしれない、公園墓地ではそれも許されません。ならばお墓は無いほうが良いと考えた末に会の存在を知り、自然葬についての関心を深めて娘と相談の上お墓の撤去にふみ切りました。

 解体時に母の採骨をしながら、こんなに小さくて御影石に囲まれた冷たく狭い所に17年も入れておいたのか、自分達もやがてこんな姿になるのかと思うと大いに考えさせられました。それまでは将来の家族状況を考えての自然葬でしたが、以後は全く変わりました。

 人間を始め生物は古来微生物が海より陸に上がり進化を重ねてこれまでに発展進歩を遂げて来たものである。ならば、命尽きたときはこの大いなる地球に帰るべきであると思うようになりました。あのような狭くるしいお墓の中で眠るより、悠々たる大地や海で手足を伸ばして自然を満喫したほうがどれほどいいか分かりません、それが本来の姿ではないでしょうか。

 3月28日東北支部のお世話になり仙台湾にて菊の花と共に散骨を済ませました。母は自然葬について何も知らずに逝きましたが、今はのんびりしているのではないでしょうか。今後はそんなに遠くはない自分達の始末をスムースに出来るよう生前契約でもして自然葬を理解している娘に託そうと思っております。


第1190回・個人葬

お骨の包みに書いたメッセージ
(矢嶌孝子=故人の妻)

 前日まで雲行きを心配しておりましたが、当時刻はすっきりと晴れ無事に散骨することが出来ました。海上の散骨ポイントからは、次々離発着する飛行機を間近に、また頭上に見ることができ私たち家族は大感激でした。飛行機の整備に人生をかけた夫もどんなにか喜んだことでしょう。最高の場所を選んでくださった船長さん、スタッフの方々に感謝でいっぱいです。

 3日かけて買い集めた花を家族全員で大きなザルに3つ作りました。また、お骨の包みは20個以上の数になってしまい、単純に白い紙の固まりばかりでは寂しいので、私は夫への気持ち、子供達は父親への気持ちを包みの上にボールペンで書きました。「ただ、ただあなたの幸せを願っています」「ありがとう」「ようやくここまで来ました」。各自好きなように書き、まるで七夕の短冊に書く祈りのようになっていました。

 お骨を撒き、多くの花を散らし、鐘が鳴り、黙祷をしました。夫が死亡して3年9ヶ月の間抱いてきたお骨は私の髪の毛と一緒に海に沈んでいきました。

 私のお骨も同じ場所に散骨することになっています。


第1192回・個人葬

生地の逗子の海に還った母
(柏木由紀=故人の長男の妻)

 4月15日、穏やかな日和の中、子、孫、ひ孫の総勢17名、葉山マリーナよりリベイクルーズ号に乗り、心地よい風に吹かれて逗子沖へと進み、89歳で他界した母はたくさんの花びらとともに大海へと旅立ちました。

 母は生地である逗子の海に還してほしいとの遺言でしたので、いまその願いを叶えることができましたことに安堵しております。そしてゆくゆく私も逝った後、こうして葬送されることを思いますと、すがすがしさを覚えます。この粛々とした中にも開放された安らぎこそ自然な葬送だと今回の体験で強く思いました。


第1195回・個人葬

思いもよらないさわやかさ
(岩田俊子=故人の娘)

 4月16日午前11時、浦賀沖で母の散骨をしました。船で海に出ると母が好きだった野比の海岸や観音崎、剣崎が一望できる場所でした。浦賀を選んで良かったと心から思いました。荒れた波間にカモメも飛んでいて、海も空も陸も一体化したボウとしたなかで、母の骨は波の中にチャポンと沈みまさした。その瞬間母が嬉しがってしゅわしゅわしているようでした。私も母との約束を果たせて、これもまた嬉しくて幸福な思いにとらわれました。自然の中にこんなにのびのび戻ってゆけるなんて、思いもよらない爽やかな気持ちが溢れました。

  母はこれからも私の中に生き続けると思います。そして散骨の情景は母の生きた日々の締めくくりとしてよき思い出となって私の心にきざまれる事となりました。


第1198回・個人葬

父、奥多摩の大地に還る
(森田ゆり=故人の次女)

 父森田宗一が生涯を通して愛し、懐かしんでやまなかったふるさと奥多摩近くの西多摩日野原村の林の中に、遺灰の一部を散骨しました。それはかつて葬送の自由について熱っぽく語った父の遺言でした。

   はや夏に 入りたる多摩の 瀬音かな  (宗人)

 父森田宗一は家庭裁判所の判事として、非行少年によりそうことにその一生を捧げた人として知られていましたが、同時に俳人としても一瞬をとらえた美やユーモアのある作品をたくさん残しました。生まれ故郷のふるさと奥多摩の自然の中で作った俳句も多く残しました。

 林の中に散骨しながら、「こんな遠く離れた山の中で正一さんは寂しくないのかな」と誰かが言いました。「そんなことないよ。土にまじって、虫や草や種のいのちにかこまれているから」と答えました。父のたましいはふるさとの大地にかえって、大地のいのちの活力あるざわめきの中でやすらかに眠っていることでしょう。

 河鹿聴く われふるさとの 子に還る  (宗人) 


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