第1104回・自然葬
ムクロジを愛していた夫
(斉藤朝子=故人の妻)
5月21日、千葉県上総亀山の鮮やかな新緑の中で静かに別れの時は流れた。
主人は喘息の持病こそあったが、趣味の俳句に精を出し気ままに暮らしていた。昨年10月、発作であっけなく亡くなった。形式にこだわらない自由人で自然葬に関心をもっていた。突然の死であったが、両親のふるさとの山への散骨に迷いはなかった。
わが家の庭にムクロジの大樹がある。実は羽根つきの羽根の黒い玉として使われ、四季を通して楽しませてくれる。この樹を愛していた主人は庭に散骨をともいい、家族をあわてさせることもあった。
50センチほどに伸びた実生を持っていき、崖際に植える場所を決めた。主人の親友が青竹を斜めに切ってくれたもので白い粉骨をすくい、みんなで根元に撒いた。
近くの森を歩けば桐の花が満開、池にはジュンサイが育ち、モリアオガエルのオタマジャクシも泳いでいる。セキレイの巣には雛の誕生を見ることも出来た。さわやかな風は心地よく、同行16人も自然の豊かさを喜んだ。
第1113回・自然葬
あとから行くからと語りかけ万感胸に
(匿名希望=故人の母)
6月4日、観音崎沖にて、息子の自然葬を行うことができました。
波は少々高かったものの、梅雨の季節としては天候にめぐまれ、それもよかったと思えた要因のひとつでしょう。わたしの心に強く懸っていたのでしょう。終わってしばらくの間、タガが外れたというか、安堵感というか、なにをする気にもなれずぼんやりと日々を過ごしてしまいました。
息子が亡くなった当時はまだ、葬送の自由ということも知らず、なんとなく土地の風習に習い、仏式による葬儀をしました。いずれはお墓を用意するつもりでおりましたが新聞で「葬送の自由をすすめる会」のことを知り、これだと思い入会しました。
以前より私自身お墓に入ることに抵抗を感じており、夫も同じような考えをもっていました。息子は海が好きでしたので海の散骨にしました。いざ実行となって、夫が体調を崩しましたが、入院にはならず、夫とわたし、長男、三男と家族全員で参加できたことは何よりだと思いました。
会の方々のお世話で息子は海に還れました。地球の懐にいだかれて世界中を回る旅に出発しました。あとから父も母も行くから、そしたら黒潮、親潮にのり旅行しようねと語りかけながら、万感胸に迫るものがありました。
第1115回・自然葬
海ならどこもつながっている
(小野和子=故人の妻)
このたび、松島の海で夫の母と夫の散骨をしました。母は20年前、夫は14年前に亡くなりました。事情があって、母のお骨を父のお墓に入れることが出来なかったので、この地にお墓をとり、納めました。ですから、このお墓は先祖伝来のものではなく、撤去するに当たっても息子と娘の同意があり、親戚などの同意が要らなかったので簡単でした。お寺も時宗で快くしてくださり、石屋さんも会の運動に理解がありました。
私は息子が沖縄に住んでいるので、そこに撒いてもらうことにしており、海ならどこもつながっているからいいなあ、と思いました。
第1117回・自然葬
浜松が面する海で母を
(藤原邦子=故人の次女)
6月18日、相模湾で母の自然葬をしました。母は今年3月、80歳で人生の幕を閉じました。生前ときおり、「死んだら墓には入りたくない。骨は撒いてくれ」と口にしていました。本人の希望をかなえる使命感でことを進めてきました。「葬送の自由をすすめる会」のご協力のおかげで、母が育った浜松が面している海で、遺灰とともにバラの花や大好きだったウイスキーをまき、ほっとしています。
驚いたのは集合場所です。結婚式場を中心とするようなホテルだったので違和感がありました。ですが、冠婚葬祭と考えればなるほどと思えるわけで、結婚式に集まる方々の明るい笑顔で湿っぽくならずにすみました。
残念だったのは天候が悪かったこと。低気圧の影響でうねりがあり、10人乗りの船は揺れに揺れて船酔いぎりぎりでした。片手で船につかまりながらの散骨で、厳かにというよりは多少こっけいな光景だったと思います。天気が悪いことも「自然」の成り行きとして受け入れざるを得ないと思いました。
私自身も墓は避けたいと思っています。
第1120回・自然葬
姉の思い切りのよさに感じ入る
(故人の妹=鈴木歌子)
「サンコツ? 何、それ」
葬儀が終わって親戚が田舎に帰る前、「遺骨は散骨します」といったときのみんなの反応はこのようであった。姉の遺言状を示し、「葬送の自由をすすめる会」の説明をし、姉のたっての願いなので認めてほしいと頭を下げた。座はしんとなった。
通夜の席にも、告別式の席にもあった。姉は無宗教葬で、と遺言していたので私はそのとおりにした。仏壇、線香、戒名、お坊さんなし。生花だけで遺影を囲む生花祭壇にしたのだが、東北から来た親戚の目には戸惑いの色があった。そして今度は「散骨」の話。「タマ子を海に捨てるのか」の言葉を残して帰っていった。
私は迷った末に、3分の2は散骨、3分の1は実家の墓に、の妥協案を出し、実家の兄嫁を介して田舎の寺に頼んだが、住職の許可がえられなかったと連絡があった。一応の手を尽くした結果がこうだったので、ここで私の迷いは吹っ切れ、姉の意志どおりにすると決心した。
沖縄の宮古島の海は住んだ瑠璃色で、こんな美しい海で眠れてよかったねと声をかけながら、遺灰が入った紙袋がゆらゆらと沈んでいくのを万感の思いで見送った。微塵も未練を残さず、大自然に溶け込んでいったことに姉の思い切りのよさ、いさぎよさを感じている。
第1122回・特別合同葬
カリフォルニアにつながる海に
(ジンベルグ・岡林=故人の叔母)
2005年7月22日、アメリカに住む姉の一人息子、私にとってもたったひとりの甥が35歳で、突然に亡くなりました。ちょうど日本に滞在中だった姉が受けた衝撃と悲しみの大きさは想像しがたいものでした。アメリカでの告別式のあとも息子の遺灰となかなか別れることができないでいた姉に、私は自然葬を提案しました。
散骨場所が、甥がたくさんの友人に囲まれて働き、生涯を過ごしたカリフォルニアの岸につながる太平洋の東の端、横須賀の観音崎であると知ったとき、姉はこれまでの悲しみが薄らいで、穏やかな気持ちになることができたようでした。2006年7月8日。散骨の前の晩には、遺灰を抱いて泣いた姉でしたが、梅雨の合間、つかのまの日差しを受けてきらきら輝く水面に明るい彩りの花が投げられ、遺灰が葬られたとき、姉は、「自然に帰っていったんだね」とつぶやきました。
それこそは、私が亡き甥に心から望み、また会員としての私自身にも望むことでもあったので、「本当によかった」と、深い喜びの気持ちが胸に押し寄せるのを感じました。散骨の日は偶然にも、姉の誕生日でもあったのでした。
第1122回・特別合同葬
死後は地球の自然に還る以外ない
(甲藤潔=故人・父母の3男)
7月8日8時10分、高知空港発、9時25分羽田空港着。横須賀中央駅まで京浜急行で約60分、集合先の三笠公園を目指す。付近散策後、集合場所に着いたのは定刻の12時30分の15分前、順番「5」の札を受け取る。13時、船会社「トライアングル」の双胴船「シーフレンド」(19トン)に乗船、白波をけって一路目的の観音崎沖へ。13時23分、到着。丁重に順次散骨、祈りを捧げる。
私は長女と2人で参加した。散骨したのは父、母、姉及び兄の4遺骨、父・明治14年生まれを筆頭に、みんな明治生まれの旧世代である。
私が運転する自家用車で、自宅から高知空港まで、自宅から高知空港まで、高知空港から日本航空のエアバス(290人乗り)機、羽田空港から横須賀までの京浜急行電車、さらに双胴船など、生まれて初めて経験する故人と共に一家一族そろっての、一期一会の1日であった。
私の伴侶も本年4月3日、帰らぬ人となった。通常49日の法要が終わると納骨するが、妻の場合は納骨しない。仏壇に安置して毎日線香をあげて、専ら冥福を祈っている。
現在、私は85歳。いずれ寿命が尽きたら、なき妻と共に、今回行った観音崎沖での自然葬を念頭にしている。死後の理想は地球の自然に還る以外ない。
第1122回・特別合同葬
別れと思えぬ安らぎ覚ゆ
(露崎寿美子=故人の妻)
何事もはやばやとことを済ませる夫。私の外出中に、何の言葉もなく、突然置いてきぼりになりました。あれから5ヶ月余、いままでの思いは綴れません。生前に言っておりました散骨の言葉を、幸いにも生まれ育った横須賀の海で実現することが出来ました。葬送の自由を教えていただき、再生を読ませていただき、子どもの助言とあわせて立派な法要ができ、ホッとしています。
船首に立ち、潮風に吹かれあざやかな花びらを目に、私の心は夏晴れ。夫との別れとは思えぬ安らぎを覚えました。弔笛の音色輝く波間に流れていったお骨の包みの重さ。いつまでも私の胸の奥深く焼きついていることと思います。
夫は初めての海外。ゆうゆうと各港で好物の飲み物を楽しみながら、得意のしゃれでお仲間を笑わせながら、昇天してくれることを祈りつつ下船しました。後日に来たくなる海と思います。今度は孫たちと来ます。
吾が耳に/ヒビク弔笛/やすらかなれと/息子と祈る
第1124回・自然葬
散骨の夕、ホテルの窓からみた小樽
(土田一見=故人の夫)
7月16日、朝からやや曇りで不安がありましたが、夕方まで待ち、暑くもなく雨も降らない穏やかな気候の中、私を含めて親族18人で小樽沖に向かいました。妻は昨年9月、末期の肺がんと宣言されてから2年6ヶ月の闘病に終止符を打ち57歳でこの世を去りました。
妻は若いときから海が大好きでした。旅行といえば海が私たちの定番でした。北海道の海岸線、離島尾はもとより、遠く南の石垣島、宮古島、屋久島や海外にも足を伸ばしました。
磯釣りが共通の趣味で、妻は「死んだら骨は海に還して」と、よく言っていました。その思いが真剣なものと気づいてから、調べるようになり、葬送の自由をすすめる会の講演などを聞きました。末期がんと知ったときは、ためらいもなく家族3人(長女がいます)で散骨が決まりました。
小樽は、妻が「冬の小樽の海」が好きだといっていたのでためらいなくきめました。散骨のあと、みなでホテルに泊まり妻との別れを惜しむべく窓から夜の小樽を見つめていました。
妻の遺言により遺骨の一部で顔写真入プレートをつくりました。娘には遺骨の一部から加工したダイヤモンドをつくりました。今年1月には、東京の葬送の自由をすすめる会の事務所を訪れ、自然葬の決断は確固たるものになりました。私もいずれは妻の待つ小樽に散骨されます。
第1132回・自然葬
人間も自然の生態系の一員と実感
(五十嵐由里子=故人の長女)
8月11日、聖山高原にて母の自然葬を行いました。
木々の葉が落ちると近くの山々が見渡せるというクヌギの木の根元に、白い粉となった母の骨をまきました。
昨年の11月に母が呼吸不全で心肺停止になった時に、亡くなったことを受け入れたつもりでしたが、遺骨を粉にする段になって「形ある骨はまだその人なのだ」と実感しました。粉にした母はずいぶんとコンパクトになってしまいました。
私が今までに衝撃を受けた出来事のひとつは、「人間も他の動物も無機物もみんな繋がっている」という生態系の考え方に出会ったことでした。骨灰を土に溶け込ませる自然葬を実際に行って、母が生態系の一員としての人間となることを望んだのだと気づき、感動しました。
個人としての母は、私を生んでくれた人、育ててくれた人、として家族の記憶の中に生きているから、これでよいのだと思います。
第1135回・特別合同葬
お母さん、よかったね
(嘉藤喜美子=故人の3女)
夏の盛りの小樽で母の自然葬の日を迎えました。
お母さん、よかったね。9年前に亡くなった母の願いをようやく叶えることができ、私達姉妹はほっと安堵感に浸りました。母は生前からお骨はお墓に入れないで海か山に散骨して欲しい、と言っていました。暑がりの母を、小樽の涼しい海に、好きだった小さいランの花びらとともに投げ入れることができた時、肩の荷を降ろした気持ちになりました。深いブルーの海の中で母も喜んでくれていると思います。
船中でボランティアの方から証明書をいただき、最後の親孝行ができたと実感しました。私も母にならい、広い海の中で眠りたいと思っています。
第1135回・特別合同葬
ちょっと浮いてからすーと海に還った父
(安田万里子=故人の長女)
父の骨を海に還すにあたっては、いくつものハードルがありました。
「散骨する」と言ってしまったばかりに、市営墓地からすぐ出してもらえませんでした。予想外でしたが、早目に取り組んだので、間に合うことができました。
私の心の問題もありました。散骨が最良とわかっていても、骨をみたり、さわったり、更にこまかくくだく作業は、「これでいいんだね、」と父に話しながらでした。
父の骨はわたしの衣類といっしょに、小さなボストンバッグに納まって飛行機に乗りました。小樽のホテルでの最後の夜は、わたしのベッドの枕元に置きました。
もうすっかりお別れという気持ちと、あの墓石の小部屋より海の方がずっといいという気持ちが交互にゆれていました。でも、他のご家族の方々や、北海道支部の皆さまにお会いしたら、楽になりました。
水溶性の和紙の小袋に入った父の骨は、次々にお別れを惜しむようにちょっと浮いてからすうっと、青春時代を過ごした大好きな北海道の海に還っていきました。
第1138回・特別合同葬
弟を送り、会の重要性を再認
(高橋 行=故人の兄)
趣味を海に遊んだ弟は、わずかな年月で結婚生活を解消し、子も無く独身を通した。彼は9人兄弟姉妹の8番目に生まれて69年11ヶ月でがんの病魔にたおれた。海に自然葬(散骨)にしたいとの意思表示は友人にも漏らしていた。
独身の気楽さなのか、家族を持たない豪気からか「俺の死は兄弟姉妹の生まれ順番だから」と豪語し、海に散骨するから心配不要の言動は伝わっていました。
最後まで強気の彼は瞬く間に逝って仕舞い、相続は兄弟が担い本人の意思尊重を柱に存命中の言動を遺言と認めました。
秋の特別合同自然葬によって賑やか好きの彼は皆さんに従い海原に解放され大自然に包まれて、永遠に歓喜していくだろうと思っています。
独身を通した身内逝去の体験から、葬送の自由をすすめる大切さや本会の重要性を改めて感じました。ありがとうございました。
第1138回・特別合同葬
ワインとともに送る
(藤田紀子=故人の長女)
9月2日、父の遺言に従い自然葬を行う事ができ、安堵しております。
父は生前、葬送の自由をすすめる会と契約書を交わし、場所の指定(太平洋上)、諸費用の払い込みなど全て自分自身で決め、対処しておりました。一人娘である私が嫁いでいる事、お墓を建てる事によって生じる後継者問題を考えての結論だったのではないかと思います。何よりも体の大きかった父は狭いお墓より、広大な海を望んだのかもしれません。供物、花など一切無用とまで言っておりましたが、この日ばかりは私の独断でお骨と共に船上で開けたワインをそそぎました。病気をして以来お酒は禁じられていたので、少しは喜んでもらえたのではないかと勝手に思っています。
第1144回・合同葬
夢多き住かでやすらかに
(春田禮子=故人の妹)
観音崎で昨年9月30日、自然葬。
当日は穏やかな海、静かに私の手から姉のお骨がはなれ、海に沈む瞬間胸にこみあげました数多くのよき思い出、沢山残して下さいました。紫、白、赤のお花、ゆっくりと浮きしずみをくり返しお別れを惜しむようでした。
姉はおっとりとした性格で周りの人に温かみを沢山下さいました。いつも笑顔で皆さんと接しておりました。
穏やかな海、きびしい海、限りなき想像もつかない夢多き住か、やすらかにお過ごし下さい。
第1150回・自然葬
夫は母の待つふるさとの海へ
(戸田宏子=故人の妻)
10月8日14時、夫、博之は最愛の家族全員に見送られて、大好きなふるさと土佐の海に還っていきました。「遅くなってしまってごめんなさい、お母さん待っていてくれましたか、これからは、貴男らしく世界中の海を自由に伸び伸びと行き来して下さいね」。青い大海原に吸い込まれていく夫の白い遺灰に向かって心の中で語りかけました。
平成12年18日に55才で急死した夫の遺骨を土佐湾に散灰することは、亡くなる前から決まっていた事でした。しかし、遺骨を手元から手離す事は寂しいし、夫も寂しいのではと思えて、今年7回忌を終え、やっと決心をするまで随分と月日が経ってしまいました。夫の父は昭和20年にフィリピンのルソン島で長男である夫の顔を見ることなく戦死、遺骨はひとかけらも戻ってきませんでした。それゆえ母は「お墓の事は息子にまかせる」との思いで、自身では用意することなく平成9年5月14日に亡くなり、その頃、夫と私は「葬送の自由をすすめる会」の事を知り、会の主旨に賛同してさっそく入会しました。平成10年5月5日に母の遺骨を、そして今回夫の遺骨を同じ土佐湾に散灰したのでした。南国の明るい陽光に照らされてキラキラと輝く美しいふるさとの海は、夫を優しく温かく迎え入れてくれたように思え、「死んだら土佐の海へ」という夫との約束も果たすことができ、今は寂しいながらも心安らぐ思いがしております。
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