第1002回・自然葬
素もぐり楽しんだ真鶴で
(麻生寿子=故人の妻)
6月1日、朝から晴れ上がった。家族と主人の同級生2名がご参加。男盛りの頃、夏の休日には毎週、真鶴岬に。素潜りを楽しんだところです。会の皆様のご配慮で網代から船を出して下さった。一路エンジンの音と共に白波立て沖へ向う。沖に近づくこと、走馬灯のように想い出が懐かしい。安堵に満ち足りました。
時おり、飛魚が光ってダイビング。不思議と哀しみは湧かない。各人が遺骨を静かに花とお酒で流しました。故人は長崎県出身、早く平戸迄行って下さい。透けて見える海の底へ沈む様子は、現役の頃、足袋を履き垂直に潜ってゆく姿とオーバーラップしました。同級生が高校校歌斉唱、思わず別離の実感と目頭が熱くなり、男の友情のすばらしさを知らされました。主人も満足でしょう。
第1004回・自然葬
イルカ達にも送られて
(永井裕子=故人の妻)
6月5日、怪しげな空模様が乗船の頃には夏の日差しとなりました。シーフレンド2号は静かな波の上を快適に進みます。正午前、目的の場所に到着。船のエンジンが静かになり自然葬が始まりました。小分けした遺骨を家族がそれぞれ波の上に放します。白い包みはゆっくりと波間に消えて行きます。「ああこれで永遠にお別れね」としみじみと実感が湧き、こみ上げてくるものを感じました。花びらが波間に道しるべのように漂います。ボーッと汽笛が尾を引くなかで黙とう。何というスマートで、胸に沁み入る別れでしょうか。
船長さんの「イルカがいますよ。こんな事は珍しいです」の声。皆で歓声を上げました。
沢村貞子さんの海葬にあこがれて選んだこの自然葬。「すすめる会」のお力添えによって、実践することができました。海のマップは墓標とします。
第1006回・自然葬
たとえようない清々しさ
(石川幸子=故人の妻)
6月18日、標高1300メートルの菅平再生の森は梅雨の晴れ間に恵まれました。輝く緑、澄み渡る空気、爽快でした。春蝉と小鳥の声は絶え間なく、菅平での自然葬を大歓迎してくれているようでした。森の緑の中、山ツツジのとき色がなんとも優しげでした
親族9名は思い思いに白樺、カラマツ、ツツジの根元により、ゆっくりと灰を撒きました。夫は望みどおりに今から樹木に生まれ変わり、この再生の森を深くはぐくんでいくのだなあと実感しました。清々しさはたとえようもありませんでした。
自然葬という選択肢があり、そして滞りなく遂行できるのは、関係者の方々の幾多のご苦労のお陰に他なりません。
第1009回・自然葬
今は平和な横須賀の海に
(石野和子=故人の妻)
6月19日はよいお天気でほっとしました。三笠公園で戦艦三笠を見学したり、東郷元帥の銅像を見たりして、1時にシーフレンドに30人が乗り込み、30分ほど沖に出て散骨しました。故人が手入れをした赤いバラや庭のいろいろな花をいっしょに海面にまきました。あっけないようにさっとすいこまれて見えなくなりました。故人は晩年、好きなことをやって楽しんでいたので、もう未練もないのかしらと何となくほっとしました。
元海軍軍人、海上自衛隊と海の好きな人で、自分でのぞんで海に散骨をと早くから決めていました。海軍時代、多くの戦友海に亡くし、今は平和な横須賀の海に散骨していただき、喜んでいることと思います。お友達が「ここはいつも船で通った路ですよ」とおっしゃっていました。私も同じ場所に散骨してほしいと娘にいっております。
第1012回・自然葬
沖縄の海よ穏やかに
(石原佳子=故人の母)
真夏の太陽の下、沖縄の泊港を出港した船は40分ほどで慶良間列島沖に到着しました。エンジンが止まり、辺りに静寂が漂いました。昨年9月、30歳という若さで亡くなった息子との最後の別れの瞬間(とき)がきました。
和紙に包まれた遺灰が父、姉、伯母、そして私の手から1つまた1つ碧い海に吸い込まれるように還っていきました。沖縄が大好きだった息子の「最高だあー、ありがとう」という声が聞こえたようでした。
生前、私自身の自然葬を託してした息子を、まさか私の手で散骨することになるとは……。生きているのが辛い日々が続きました。しかし、無事に終えることができたとき、不思議と気持ちが楽になりました。東京に戻ってからも気になるのは沖縄の天気ばかり。あの碧い海がいつまでも穏やかでありますように。
第1015回・特別合同葬
海に行くという贈り物
(福間恵=故人の母)
卵子と精子のことは習ったけれど、赤ちゃんが一体どこから来るのか、本当のところはいまだに分からない。死んでしまったあの子がどこへ行ったのか、人はいろいろ言うけれど、やっぱりよく分からないのだ。
海にでていく船の上は、皆がそれぞれ、亡き人のことを思い、静かな温かさに包まれていた。鉛色の海を覗き込むと、沈んでいく遺骨が透けて見え、そして消えた。だが、消えたのではなく「そこにある」と思うことは、私の大きな慰めになっている。
帰宅して、家に遺骨がないと寂し過ぎるというのは、まったく予想外だったが、日ごとに慣れてきた。海に行くことが私たち家族の楽しみになり、それは、あの子が私たちにたくさん手渡してくれた贈り物のひとつだと思う。
(矢部健三=故人の父)
高知のお墓は遠くていつでもお参りにいけるわけではないから、分骨して神奈川でも力(息子)のお参りのできる場所がほしい、との私たち夫婦の思いがこれでかないました。
第1017回・自然葬
自然の浄土へ還った夫
(野原久子=故人の妻)
7月10日、菅平再生の森で夫を送りました。夫は亡くなってから6年、仏事でいえば7回忌でしょうか。心配だった天候にも恵まれ、あふれる緑の薫りを感じ、川が流れているような風の音が吹きぬけて行く自然の浄土へ夫を帰すことができました。夫が思う場所ではないのですが、山を管理する水野俊哲さんの純粋な気持ちに助けられて、すがすがしい優しい時間を持ち、私自身ちょっと「神様」かななんて思ってしまうほどの時間と空間でした。
第1025回・自然葬
Good-Bye,Grand-pa!
(橋本裕美子=故人の長女)
この5月、父は自宅で旅立ちました。進行癌と診断されてから1年半が経っていました。
命の期限を切られてからも、母と海外旅行に出かけたりと父らしくマイペースに過ごしていました。その間、最後までできるだけ在宅ですごしたいこと、密葬・散骨を希望することなどを折に触れて話すようになり、几帳面に文書にも書き残していました。
百か日を迎えた8月、父の残したキャンピングカーに、母、兄、私、そしてその子どもたちの7人が乗り込み小樽へと向かいました。
実家で皆で汗だくになって砕いた遺灰は、さらさらとまるで雪のように父の愛した北海道の海に消えていきました。消え行く遺灰に向かって小学生の子どもたちが叫びました。「Good-bye,Grand-pa!」(私たち兄弟に続き、帰国子女となった孫たちとの英語での会話を父は大層楽しんでいました)
医師として、そして一人の娘として、得がたい経験をすることができました。
第1026回・自然葬
好きだった静岡の海に
(伊吹真一=故人の父)
小、中、高と学校時代のほとんどを静岡で過ごした息子は、海が好きで静岡が好きだった。水産大学を卒業した後、焼津や相良に住み、漁師になるのだと漁船を買い求めて活動しようとしていた矢先、急性心不全で突然死してしまった。
われわれ夫婦は会に入会していたので息子も静岡の海に、と思っていたところ、水産大の友人から手紙が来て是非静岡の海に撒いてほしいといってきて、偶然の一致に驚いた。
8月13日午前11時に清水港を出て、穏やかな海の中をすすんで現場につき、家族で散骨した。白い紙に包まれた遺灰が思いがけず早く海中に沈んでいくのを見た時は、何か大切なものを落としてしまった様な気がしたが、ひとり冷たい土の中に居るよりも、これが彼の本望だったに違いないと思えて気が楽になった。
第1030回・自然葬
夫との約束果たせて安堵
(梶浦純子=故人の妻)
会の趣旨に賛同して夫が入会し、その後、北海道支部主催の講演会やシンポジウムなどに参加してますますその意を強くし、家族葬で散骨することを2人で決めました。東京に住む娘夫婦にも本などを送り、私たちの希望を理解してもらっていました。
昨年9月、夫が心臓病でなくなり、8月20日に希望の小樽沖で、娘夫婦、孫二人、親族の15人で遺灰を還すことができました。
今は、寂しさの中にも夫との約束を果たせたことに安堵し、こころ穏やかに過ごす日々です。
第1031回・特別合同葬
納骨堂から海へ還った祖父母
(高橋真由美=故人の孫)
8月20日1時5分、暗くて狭い納骨堂から明るく大きな海へと祖父母は還って行きました。水溶性和紙に包まれた遺灰が私の手をはなれ、その上に娘が花びらをまく……その動作を5回繰り返しました。「やっと還れてよかったね。おじいちゃん、おばあちゃん」
その日の朝、父は自分の両親のお骨を、みずからの手でこまかくくだき、和紙に包み、花びらを用意しました。母は嫁として最後に、祖母が好きだったお赤飯を作りました。そして、孫とひ孫である私と娘が小樽へと向かいました。とても不安な気持ちで集会場所に着いたとき、スタッフのみな様がやさしく声をかけて下さり、ほっとしました。船上でのセレモニーは最高でした。
第1032回・合同葬
遺影は母の自画像
(中島徳弘=故人の長男)
母は生前、「お墓などいらないよ!」「海か山に散骨して自然に帰しておくれ!」といっておりました。当時は抵抗があり、あまり真剣に受け止められませんでした。母の介護をするようになり、愛しく感じられていつまでも生き延びてほしいと思うあまり、死のことなど口にする気にはなれずどこで散骨したいのか聞きとる機会を逸しました。
しかし、母の死がとうとう訪れ、わが身にも訪れる問題でもあり墓について考えてみると、営利主義の霊園業者に奉公することもないかと考えが至りました。場所を占有することもなく、自然に帰る自然葬がこれからの時代に相応しい葬送のあり方ではないだろうかと思うようになりました。故人を偲ぶものは墓でなくともこころに残るもので充分と思うものです。母はお絵かきをしていたので自画像が見つかり、それを遺影として祀っています。遺影をみると母の息遣いや温もりが伝わってきて写真にはない味わいがあります。
このような訳で自然葬に踏み切りました。散骨の場所としては、生命の源である海がいいかと思い、生まれ育ったのが東京下町だったことから東京湾で行うことにし、弟と2人で参加しました。
台風の後で浦安沖の海は澄んでいませんでしたが、遺灰が沈んでいく様子は暫しの間見届けることができました。末期が近づいてきたとき、「不治の病だから、そろそろお別れだね」とつぶやいた一言が思い出され、沈みながら「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ……」と繰り返しいっているように思えました。息を引き取ったときの喪失感とは別の深い感慨がこみ上げてきた瞬間でした。
自分も母の眠る東京湾で自然に帰ろうとの思いを抱きながら帰路につきました。
第1036回・自然葬
花咲爺の灰の一握りになれたら
(藤田栄子=故人の妻)
浅間峰や三峰山ハイキングで共に何度か訪れたことがあるほか、桧原村を夫の散骨の場所に決めたのは私の一存です。1年前、チェコ旅行から帰国して3日目の朝、目覚めずに他界してしまった夫でしたから、埋葬についてどのような希望があったのか確かめようもなかったからです。
私は夫に「私が死んだら自然葬にしてほしい。山の灰になり、自然を育む肥やしとなりたい」と自分の希望を何度か話したことがありました。夫は話を聞くだけで、否定も肯定もせず、自分がどう葬られたいか語ることもありませんでした。心臓が悪かった夫にとって生きることの中にこそ希望があり、死という言葉は希望につながらなかったからです。
9月18日、散骨のために訪れた西多摩再生の森は、木々の間から漏れる光の中でヤマジノホトトギスが清楚な花を咲かせ、桧の実があちらこちらにこぼれ、都会の蒸し暑さを忘れさせてくれる場所でした。子どもたちと私はそこに遺灰をまきました。どんなに自分が大変であったときも、小さなもの、弱いものに対する心遣いを忘れなかった夫を思って、大きな木の根元だけでなく小さな草や潅木の根元にもまきました。
枯れ木に花を咲かせる花咲爺の灰の一握りになれたら、きっと夫は喜ぶでしょう。
第1041回・自然葬
ひとつひとつの悲しみ
(綱川英治=故人の二男)
浅間峰や三峰山ハイキングで共に何度か訪れたことがあるほか、桧原村を夫の散骨の場所に決めたのは私の一存です。1年前、チェコ旅行から帰国して3日目の朝、目覚めずに他界してしまった夫でしたから、埋葬についてどのような希望があったのか確かめようもなかったからです。
母が末期癌で手のほどこしようがないと宣言されてから、家族全員で協力して在宅ホスピスに専念、それからわずか3週後の死去でした。息子としてろくなことをしてこなかった私ですが、最後の最後に親孝行のまねごとをさせていただきました。そして故人の希望どおり、三宅島生まれの母を父と一緒に海に返すことができました。
こうしてひとつひとつ悲しみを受け容れていくのかも知れませんね。
第1043回・自然葬
母への手紙
(村杉佳子=故人の3女)
お母さん、その後いかがお暮らしでしょうか。あの日は、すぐにも2番目の娘晶子に逢えたのではないかと想像しています。10年前相模灘に入っていった晶子の灰の一部も一緒に海に入ったのですから。
お母さん、貴女は今までずっと生活を共にしていた私と、晶子の娘の絵里と、大好きな踊りの師匠とに見送られて本当に幸せに旅発つことができましたね。そして今は娘といっしょなのですから、何も心配はいりませんね。何時の日かまた逢えるときがやって来るのでしょうね。
101歳まで長生きをして、明治、大正、昭和、平成を生き、いろいろな経験を重ねて静かに迎えた死は自然なものでした。どうか、あの世でも幸せに自由に暮らせるようお祈りしています
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