第1回・個人葬
波間に漂う"花の葬列"
記念すべき第1回の自然葬の記録
1991年10月5日
神奈川県相模灘の外洋にて
(酒井卯作=本会理事)
10月5日、午前7時30分、JR東京駅近くに集合。この朝、東京地方西部は小雨、天気がいくぶん危ぶまれたが「夜明けの雨に傘もつな」の諺どおり、集合時間の頃には雨は見られず、やや雲の多い、まずまずの天気になり、一同は安堵する。
土曜日のせいか、集合場所の近くにはあまり人影は見られず、なんとなく早朝という感じで、すがすがしい空気である。関係者全員は時間どおり指定場所に集合した。
今日の参加者は会長の安田さん、弁護士の薦田さんと酒井の3人の実行委員。それに今回、ヨットの手配その他の力添えをいただいた会員の真田さん、そして本日の主役である会員の斎藤さんの計5人である。日程が急であったので、参加するはずのほかの実行委員は、仕事上の都合で参加できなかった。
報道関係にはどこにも通知しなかった。ただ安田会長の発案で、自然葬を実施するにあたり、記念として、またその証拠を残すために民間業者に記録フィルムを撮ってもらうよう依頼していた。その撮影班3人も参加することになる。
全員が顔を揃えたところで会長が1人ずつ紹介する。全員は笑顔で挨拶を変わすが、さすが緊張の色は隠せないようである。撮影班の人たちは自分たちの用意してきた車で同行することになる。私たちは、今度散灰を行うはずのヨットの関係者塚田充さん(「シーペンチャー」社員)の用意した6人乗りのマイクロバスに乗りこむ。こうして2台の車で相模灘に面した三崎海岸に向う。出発は8時少し前であったと思う。
出発に先立って、会長を中心にして自然葬の式の進め方を協議。まず司会を酒井が担当。はじめに会長挨拶、斎藤さん、薦田さん、真田さんの順で挨拶を行うという順序を決める。そして黙祷を散灰の前にするか後にするかの点について話し合った結果、散灰の直後と決める。走行中も、この行事に用いるテーマ音楽について話し合った。ショパンの「別れの曲」、ベートーベンの「鎮魂歌」、モーツァルトの何か、など、いろいろの話が出たが、今回はいずれにせよ間に合わないので、将来の問題として残す。
遺灰とともに流す小さい花輪は用意してあったが、別にもう一つ花束がいるだろう、ということになった。まだ朝も早いので都心で店が開いているわけはない。そこで地理にくわしいヨットマンの塚田氏と相談をして、三崎に到着してから捜してみようということで話が落ち着く。
車は一路、三崎のヨット繋留場へ。海の彼方には房総の山々がかすんで見える。車の渋滞も少なく、快適といえないまでも、まず順調に走行、たしか9時すぎに三崎に到着した。港に行く前に、三崎の村で会長やヨットマン氏らは弁当、それに花束を捜しに出かけ、やっと花束を見つけて買ってくる。花束は田舎にしては高すぎるという。魚屋で売っていたそうである。ここで一息ついて、港へ下りる。
ヨットの繋留場は、小さいのは2人乗りぐらいの小型ヨットから、海の貴婦人と呼ばれる30人も乗れる豪華ヨットに至るまで、数十隻のヨットがひしめいている。なんとなく異国情緒の漂う港のような印象をうけたのは、私が田舎者のせいであろう。
港に着くと、私たちを待っていたのは、約40フィートの、貴婦人とまでいかないが、ヨットの大きさとしては中クラス、12人乗りの気の利いたきれいな船である。私たちは足元に用心しながら船に乗りこむ。女性の斎藤さんはうまく乗れるか心配であったが、笑顔で無事乗船、薦田さんが岸から全員の写真をとったが、彼の写真技術はあまり期待できない。先に待っておられた「シーベンチャー」取締役の菅井英夫さんらヨットマン2人、撮影班3人と実行委員らを合わせて、ちょうど10人。ほぼ定員いっぱいである。
10時頃出帆、帆で走るのではなく、エンジン走行である。この方が揺れが少ないそうだ。港内は波が静かで、沖の方には数隻のヨットが走りまわっている。若い女性の姿がやたらに目に入る。入江を出て、陸が次第に遠ざかり、やがてその陸も姿を消す頃、船は6ノットぐらいの早さで沖に向う。波もしだいに高くなり、揺れは少しずつひどくなる。全員、海を眺めながら船べりに腰を下ろして話をしている。私は船にはあまり自信がないから、そうそうに船内に降りてベッドで横になった。なるべく早く目的地に着いてくれることを祈りながら目を閉じていると、甲板から斎藤さんが顔をのぞかせて「船酔い予防のお薬をあげましょうか」という。ほんとうは欲しかったが一応遠慮する。
船は揺れる。ローリング、ピッチングと、おかまいなく揺れる船の中で、ひたすら2時間が経つのを待つ。出港して2時間ぐらい走ったところが目的地と聞いていたからである。この2時間のいかに長く感じたことか。
やっとエンジンが止まって甲板の方がざわめいたような気がしたので、甲板をのぞいてみると、みんなの動きが急で、目的地に着いたということがその様子でわかった。急いで上衣をつけて甲板に出ると、舶先の向うは一望千里、波以外には何も見えない。「喪章をつけましたか」と会長がいう。服装は自由、とのおおよその申し合わせがあったが、喪章だけは用意するようになっていた。
いよいよ、この会の念願だった第1回の記念すべき自然葬という、いささか風変わりで、しかし劇的な行事がこれからはじまる。一同、黙々として服装を整える。船が揺れるので、つねに片手は何かにつかまっていなければならない。喪章を安全ピンでとめるのが、なかなかうまくいかない。
まず撮影班の注文で、どのような位置につくかを相談。撮影班も足元が不安定で、両手に余る大きなカメラを操作するのだから大変だ。大体の各自の位置を決める。
さきほどまで元気だった斎藤さんは、立つことができず、かなり苦しんでおられる様子。故人とは最後の別れのときである。かつて親しかった亡き人との別離の悲しみが、こみあげてきたのかもしれないと、私は勝手に想像した。
それぞれの位置が決まると、いよいよ本番である。壮大な紺碧の海の中に、まるで白鳥のように揺れている小さなヨットの中での葬礼である。司会が簡単な挨拶をしたのち、会長の挨拶。故人が海に眠るに至るまでのいきさつ、関係者の力添え、そして自然葬第一号の意義などについてふれたもので、最後は故人を送る言葉で結んだ。続いて故人関係者代表として斎藤さんは「あなたの仕事場や寮のまわりを飾っていた白菊やカーネーションの花とヒイラギの枝で花輪をつくってきました。長らくお守りしてきたあなたの遺灰を、この花輪につけてあなたが好きだった海に流します。大きな海に包まれて安らかにお眠りください」と、一言一言しぼり出すように、花輪を胸に抱いて語られた。
薦田さんは「自然の中に還っていかれるあなたが、また再生される日のあることを祈っています。永遠に循環を続ける悠久の命の中で、あなたも永遠に生き続けるのです。好きだった海に還ることのできるあなたは、本当に幸せな方です」と、祈るような口調であった。
真田さんは「会として初の意義ある自然葬に立ち会うことができてうれしい。おろかしい戦争でたくさんの友人がこの海に消えていった。その戦友たちの眠る太平洋に私もまた還してもらうことになるでしょう。待っていてください」と、海に向って絶叫するように話された。
それぞれに短いが、感動的な挨拶であった。挨拶が終ると、いよいよ散灰ということになる。はじめの予定は斎藤さんが、遺灰の袋を花輪に結わえつけて流す予定であったが、とても苦しそうなので、安田会長が手を貸して、花輪に紐を結びつけようとする。船が揺れるので、小さい紐がなかなかうまく結わえられない。何度か繰り返して、やっと完了。
ここで霧笛が鳴り渡り、斎藤さんは周囲の人の手に支えられながら、花輪とともに遺灰を海に投げ入れる。花輪が波に揺られながら静かに流れていく。続いて参加者たちは花東を分けて持ち、少しずつ海に投げ入れる。花が2、3本ずつ、一列になって流れていく。花輸を先頭に、花の葬列が波の上に続いた。
次いで酒とワインの小瓶の栓が抜かれて、海にそそがれる。ワインは薦田さんが「ヨットにはワインがよく似合う」ということで、特別に用意されたものである。花が姿を消し、ワイン・酒も泡になって海に溶けてしまった頃、全員が黙祷をする。鐘が鳴って司会の合図で黙祷を捧げる。司会が下手だったために、黙濤の時間が早く終りすぎた。もう一度やり直し。鐘が5回鳴ったら黙祷終了ということで、もう一度黙祷、鐘が潮風の向うまで響いて5回を教えた。これで一分間の黙祷を終えた。もう一度閉式を告げる霧笛が鳴った。
すべてを終えて、全員の顔には安塔の表情が見られた。会として念願であった自然葬を、納得できる形で為し遂げたという安堵感だと思う。
ここで、予定としては会長から、故人の関係者を代表する斎藤さんに、自然葬実施証明書が手渡されるはずだったが、これは三崎港に帰ってから、ということになり、船は一路、港に向けて走りつづける。
帰りは約3時間ほどかかるので、私はまた船内に降りてペッドに横になる。斎藤さんもやがて降りてきて、横のベッドで休まれたようだ。
横になっていろいろのことを考えているうち、船の揺れが小さくなって、湾内に入ったことが感じられたので、甲板に出て見ると山々が遠くに横たわっている。問もなく港に入る。後で聞いたところによると、終始元気そうであった安田会長と薦田さんも、散灰を行う頃は、 じつはかなり具合が悪かったそうである。そうだとすると、ただひとり、海の男だった真田氏だけが最後まで泰然としておられたわけである。
船が繋留場に着き、落ち着いたところで、全員が集まって、安田会長から斎藤さんに証明書が手渡された。証明書の内容は上記のとおりである。時間は午後4時頃だったと思う。
証明書の手渡し式が終ると、全員が下船する。やっと全員に笑顔が戻ってきたようだ。撮影班の人たちも一緒に、繋留場にある喫茶店の2階に集まり、航跡をふり返りながら、冷たい飲物でのどをうるおした。
きっと、後になって反省してみれば、いろいろと問題点があったかもしれないが、この状況での、今日の行事は申し分のないものであったと思う。
こうして、私たちの記念すべき第1回の自然葬は無事に終わった。最後にきて、肝心のヨットの名前を紹介するのを忘れていたのに気がついた。「波夢波夢号」という。今日の自然葬にもっとも似合う名前ではないか。いろいろな方たちのご協力が波の夢を結ばせた。きっと××子さんの霊も、今ごろは波を枕に夢路をたどっていることであろう。
自然葬第1号の故人は
プライパシーを守るため公表できませんが、病院に勤めていた看護婦さんで、30年近く前に失恋のため若い生命を自ら絶たれました。28歳でした。火葬に付され、遣骨の大半は家族の手で家の基に納められましたが、一部は親友の1人があずかり、身近において厚く霊を慰めてきました。 しかし、その親友が結婚するに当たり、故人をよく知り、故人も尊敬していた教師にその遺骨をあずけて慰霊を頼みました。それから20数年、その教師によって遺骨は守られてきましたが、たまたま教師の友人であり、故人とも親しかった斎藤七子さんが本会に入られたのを機に、教師の方は斎藤さんと相談の上、海をこよなく愛していた故人の気持を生かすべく、海に遺灰を還してやりたいと木会に依頼されたものです。
協力者
本会会員の真田良さん(元外国航路船長)が、旧制東京高等商船学校(現東京商船大)の先輩である日本パイロット協会副会長の橋本正久さん(元海上自衛隊海将)に、かねてから自然葬実施のためにヨットを貸してくれる方はいないだろうか、と相談していた。自然葬に共鳴された橋本さんから各方面に声をかけていただいた結果、「自然葬の主旨に賛成だから協力しましょう」と、海王コーポレーション社長の大儀見薫さんが手を上げてくださった。大儀見さんは、来年がコロンブスの新大陸発見500年に当たることから、帆船でその航跡をたどろうと「地球再発見の旅」を計画、すでに乗組員を募って訓練をはじめており、主催者の日本セイルトレーニング協会の設立準備委員長でもある。大儀見さんは本人も世界的ヨットマンで、西武百貨店、西友の重役だったころの1987年(昭和62)4月、メルボルンー大阪国際ヨットレースに参加し、優勝しています。
自然葬式次第
・フォッグフォーンを吹く
・司会(酒井)の開会宣言
・安田会長の挨拶
・斎藤(故人の関係者代表)真田、薦田の挨拶
・花輪に故人の遺灰袋を結ぶ
・斎藤さんが海に花輪を流す、各人も花束を海に
・清酒とワインを海にそそぐ
テレビによる会の紹介
10月15日 NHK・ミッドナイトジャーナル、TBS・筑紫哲也ニュース23
20日 TBS・サンデーモーニング
26日 日本テレビ・ウェークアップ
29日 テレビ朝日・ニュースプロフィル
11月 4日 テレビ東京・特集番組
19日 テレビ朝日・ニュースステーション
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