第1452回・個人葬
夫と誓い合った甲府再生の森
(高橋幸子=故人の妻)
3月に「再生」72号が届いたのは、主人が心臓手術のため入院中の時でした。いつも気にかけていた甲府再生の森で実施された方の感想文が載っており、2人で感慨深く読みました。お互いに残った者がこの森で自然葬を実施すると云う遺言を交わしていたからです。
主人はその数日後、手術の失敗でこの世を去ってしまいました。誓い合ったとはいえ散骨を行うまでの不安は大変なものとなり、妹や弟の支えと主人の弟、妹の協力によって四九日に当たる5月24日に散骨させていただく事ができました。
梅の古木や、多くの木々の育つ森を自然のままに守られておられる高橋様御提供の心地の良い所に散骨させていただき、奥様が摘んで下さった花を撒きました。高橋様の「千の風になって」の朗読が静かな森に響き感動でいっぱいになりました。いままで経験したどのセレモニーより素敵でした。地球を守る尊い会の運動が1日も早くこの世の常識になる事を願ってやみません。
第1453回・個人葬
穏やかな海で過ごした幸福な時間
(山田真理子=故人の長女)
会の皆様方のおかげにより無事、父の散骨を終えることができました。
道中はあいにくの雨でしたが、岡山県の玉野沖に着く頃には雨も上がり、船で沖に出る頃には青空も見え、陽までさし、誰からも愛された心優しい父が、自然からも大切にされたのだと皆で喜びました。穏やかな海で父との思い出にひたりながら、それは幸福な時間を過ごしました。父への感謝の思いで心がいっぱいになり涙がとまりませんでした。
第1456回・個人葬
心に母を感じるようになった
(大石高子=故人の長女)
お墓は暗い、狭い、じめじめしているというイメージでした。新聞で会を知り、死後は自然葬と決めました。その話をするうち、母も自然葬を希望するようになりました。
6月13日は晴れて、無事に母を自然に還すことができ、安堵しました。遺骨はうまく砕けるだろうか、水溶性紙に包めるだろうか、と心配しましたが、案ずるより、でした。もっと花をたくさん準備すればよかったとも思いましたが、みんなが心を込めて参加してくれたことだけで十分と思いました。
目に見える形としての母はなくなりましたが、不思議なことに常に心に母を感じるようになりました。私もいずれ、同じところから世界周遊の旅に出るつもりです。
第1458回・観音崎沖特別合同葬
8の字つくった色とりどりの花びら
(田口一江=故人の3女)
10年前、元気だった母が「私は散骨する事に決めたから、その時はお願いね」と書類を渡しました。3人の娘を育て、千葉県に住む長女の近くで生活をしていました。私は3女で、神奈川に住んでいて、体調をくずしてからは、母のもとへ通っていましたが、だんだん私を忘れてゆく母の姿に帰りの電車でも涙が止まりませんでした。
2月6日朝、夢を見ました。母と私が温泉に行く予定だったらしく、「私は先に行ってるからね」と母が言い、「仕事が終わったら後から行くね」と私が答えたところで目が覚めました。その日の午後、母は亡くなりました。砕骨は、姉と私と主人と子供の4人で行いました。握ったら崩れてしまいそうな、お骨でした。姉にも沢山の母への思いがあり、母のそばにいてくれたことを感謝しています。
散骨の前日は、まくら元にお骨を置いてそい寝をしました。観音崎沖の海に白い粉骨が雪のようにふわっと広がって、緑の菊、ピンクのバラ、キキョウ、テッセン、墨田の花火などの花びらが小さい輪、大きい輪となって8の字を作ったとき、母の望みが叶ったのだと感じました。
第1458回・観音崎沖特別合同葬
形はなくなるが心に残る父
(猪瀬祐美子=故人の長女))
まだ梅雨が明けない7月初め、観音崎沖に差し掛かると白く曇った空と海の色が1つになり、ここが今日のその場所だと父が示してくれたように思いました。
海に散骨するということは、「ここ」というお墓のような1点の場所で父には会えなくなる訳です。父が亡くなって10年以上も経っているのに、前夜には心の中をまた巡っていました。けれども生前の父の生き方、考え方を思い、「戒名もいらずお墓も必要ではない。すべては無であるのだから」という言葉からも、形はすべて無くなるけれど家族の心の中には深く刻み込まれ残るように思いました。
母が亡くなった時に一緒に散骨するひと握りの父を残し、船上から最後にもう1度父の遺灰を抱きしめ、「これからも私達にしてくれたこと、お父さんの意志を考え感じ生活して行きます」と伝えました。どこまでも父らしい散骨をとの思いから、美しい花ではなく、父が愛し育てたモロヘイヤの葉と晩酌で飲んでいた焼酎を一緒に流しました。
散骨という方法を知り選択できたのは、会の熱心な活動があったからだと思います。
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お寺の墓を引き上げ自然葬
川島さんのお手伝いをして
木霊と凪 吉澤武虎
東京都江戸川区の会員、川島道子さんから中野区にあるお寺の2基のお墓から代々のお骨を引き上げ自然葬にしたいという相談を受けました。お墓の直接の祭祀継承者がいなくなったため、縁あるものとしてお墓の管理をしてきたが、この際全部引き上げ自然葬にする決心をしたということです。
自治体の経営する霊園ならばいくつかの書類を整え、こちらで業者を手配し更地にして私がお骨を引き上げることができますが、お寺のお墓だと少しややこしくなります。
川島さんからの申し出に対して、お寺から金額を示してお布施の請求があり、石材業者の見積もりはやはり高額でした。住職に面会を求めました。ホールも備えた葬祭場と見紛う寺で、出迎えた住職と息子の副住職は剃髪しておらず、言葉も宗教者とは思えませんでした。石材業者も同席の交渉となりました。
お布施は檀家の気持ちをお金にするものと述べて話し合い、石材業者に対しても工事本体はやってもらうにしても、その後の廃棄物の撤去、引き上げは当方で行うと申し出て、いずれも同意をとりつけました。川島さんも粛々と大人の対応をされ、金額も当初の額より抑えることができました。
カロートを開けてみると中の骨壷は水を大量に含みびしょびしょでした。観音崎沖特別合同葬の7月4日、乾燥させ粉末化した10人のお骨を抱え、川島さんとともに自然葬を終えることが出来ました。
第1461回・個人葬
父が探し続けた「安堵」を理解
(高橋洋子=故人の娘)
父は自然葬を進める活動をしていながら、自分がどうして欲しいのかについては何も言わずに亡くなりました。ただ、海に関する研究をしていた事や、学生時代からヨットをやっていた事から、海上で自然葬という暗黙の了解だけがありました。「でも、どこで」と考えながら遺品を整理しているうち目にとまったのは、父の「関西の特別合同葬は紀伊水道を南下して、黒潮に隣接する海域で」という提案でした。「黒潮に吸い込まれ、黒潮の流れに乗って太平洋の広い海を遥々流れて行く」とあったのです。これが父の遺志にかなうことだと思いました。
紀伊水道に決めてから時々インターネットで海流をチェックしたり、天候を気遣ったりするのは、父と一緒に船出を計画しているような胸躍る時間でもありました。楽天的で、いつも前向きだった父にふさわしい、自由で明るい送り方をしたいと思いました。そして、「遺体はすべて『自然』に帰るべきものである」というのを読んで、遺灰がそのまま分解し少しでも早く自然に帰れるようにとの思いをこめて、丁寧に粉骨しました。
昨年7月16日の当日は梅雨の合間の天候に恵まれた日でした。海について父と関係のあった方々が遠方から17人お集まりになり、一人一人遺灰を海に返し、花びらを撒いては父の好きだったお酒を流して送って下さいました。「海を見るといつも先生の事を思い出すんですよ」「黒潮の観測で和歌山港から一緒に船に乗った事があります。思い出の場所です」等々聞いて、このような形で自然葬できたことを嬉しく思いました。
「思い出すだけでいいんですよ、そこに何も(お墓が)なくても」と父が学生さんのインタビューに答えた事は、遺品にあった修士論文から知りました。この日のために「千の風になって」などを入れてパソコンで編集したCDは、残念ながら船上ではうまく聴けず、「思い出すだけでいい」というタイトルをつけて後で皆さんにお配りすることになりました。
何もかもが自然で心が通う感じでした。実際に自然葬をして初めて父が考えていた事がわかったような気がします。自然から生まれた生命がなくなったあとは自然に戻れるようにしてあげる、それが後に残された人の気持ちも爽やかにするのではないか。青年時代、戦争で毎日身近に生命がなくなっていくのを経験した父が、生命の尊さを訴えながら同時に探し続けたのはこの安堵ではないか、と。
第1463回・小樽沖特別合同葬
会報で祖先の自然葬を知り光明に
(黒田良治=故人たちの孫、息子、兄)
昨年7月18日。朝、塩崎北海道支部長から宿泊先のホテルに突然の電話を頂きました。波が1.5メートルあり、延期になるかも知れないと言うことでした。早めに港へ行きました。塩崎さんに初めてのご挨拶をしました。波は荒いが実施と決まってほっとしました。5家族が11時45分に出航し、1家族が波が荒いと言うことで港に残りました。
乗船した80人乗りの小型観光船は、港を出ると大揺れに揺れました。30分程走ってからセレモニーがあり、散骨と献花を行いました。「千の風になって」の音楽も流れ、厳粛な中にも笑顔がこぼれる優しい雰囲気がありました。その後、支部長さんから立派な自然葬証明書を頂き、祖父母・父母・弟の散骨が実感として胸を一杯にしました。墓はなくなったけれど、散骨を実施したこの7月18日が、祖父母・父母・弟の5人の新しい記念日になったのです。
私共夫婦は会に入会させて頂いた時から、2人とも散骨と決めておりました。しかし気がかりなことがありました。それは慶応生まれの祖父母や早世した父母などの眠る墓をどうするかと言うことです。私共が死んだ後は、墓守をする者がいない状態でした。そのうち、会報でご先祖様を先に散骨されたという感想文を読みました。これを読んで私共は光明を見いだしました。
弟や妹達は、墓を解体し散骨すると言うことを、なかなか理解してくれませんでした。しかし、一緒に温泉に泊まってじっくり話し合い、漸く了解を得ることが出来ました。そして、6月の末に江別の墓の魂抜きを地元の坊さんにお願しました。小樽の海は、小学生の頃海洋少年団の訓練で訪れたので思い出があり、それ故に懐かしい海でもありました。
散骨を終えた今、念願の自然葬ができ、感謝の念で一杯です。
第1476回・個人葬
雷雨、大地震のあとの自然葬
(鈴木研児=故人の長男)
昨年の盛夏8月11日に、中伊豆再生の森で一昨年と昨年に他界した両親の自然葬を行わせていただきました。
私たち兄弟の2家族は、前日から伊豆に宿泊していましたが、夜半から台風による激しい雷雨に見舞われ、天候を案じながら寝ていたところ明け方5時過ぎに、今度は震度6弱の大地震に襲われ、飛び起きました。
当日は朝から、静岡県下の被災状況のニュース一色。散骨は中止するしかないかなと思っていたのですが、立会人の方が、ダイヤの乱れた新幹線に乗って東京から来てくださいました。
昼からは薄日も差し、静かな林の中で父と母の遺骨を自然に還し、花と写真を飾って黙祷を捧げることができました。
「両親との別れに、天も大地も泣いていたのか」などと冗談を言いましたが、本当に忘れられない1日になりました。
第1485回・個人葬
海底へ向う遺灰を見てジーンとした
(山本明生=故人の長男)
父は無宗教で葬送については、葬儀は家族だけでお墓はいらない、海へ散骨してほしいと話していました。私は全部を散骨しようと思っていましたが、偲ぶシンボルがなくなるのは空しい、葬送は遺族のためのものでもあるという意見ももっともで、結局一部散骨ということになりました。
そうはいっても海への散骨が今回の葬送の一番のメインです。父の死の直前と直後の早朝、父が夢枕に現れ「苦しそうに見えるけど決してそんなことはない、心はしあわせでいっぱいだよ」等のメッセージを送ってきたり、自分の意志(意識)でないのに、だれか(=父)に動かされ行動をするようなことが続き、すっかり霊魂の存在を信じていた私は、父の希望の散骨の日が近づくにつれ非常にナーバスになりました。吐きながら散骨している夢を何度も見てなさけなくなりました。しかし、立会いの方のアドバイスで全ては杞憂に終わりました。
出航して、なぜ父が海への散骨を希望していたのかが分かりました。空気や潮風・カモメ等が奇妙なまでの爽快感と開放感をもたらしてくれ、「いいなー」という感情が自然に湧き上がりました。散骨地点に到着しいよいよ開始です。まっ白な細かな粒子が柱状に海底へ落ちて行き、そしてそれを中心に色とりどりの花が円形に囲み、見えなくなるまで続きました。神秘的な情景に感動していると横で妻が泣いています。ジーンときました。何故か宇宙の誕生が頭に浮かびました。
第1491回・個人葬
心にしみた松島の自然葬
(鈴木英子=故人の娘)
私は何年も前より、この様な葬儀のあり方を希望しており、友人に話しをしたところ、新聞にのっていた写真付の切抜きをコピーして持って来てくれました。これは良いとホッとした思いになりました。
母の骨をいとおしくくだき、夫と孫とではじめての薬包みをし、紙が足りなくなくなると云っては開いて足したり、少なすぎると云っては又包み直したりしました。その日は午後から降りはじめたのですが、散骨する時になったら止み、一包みずつ心を込めて花びらと共に流しました。
石巻生まれの母でしたので、松島からと云うのはひとしおしみるものがありました。帰り桟橋から沖へ向かって手を振り、心からしみじみ良い別れが出来、良かったと話し合いました。私達夫婦もぜひこの様にと子供につたえてあります。
第1493回・相模灘特別合同葬
すべてを包んでくれた海
(三浦富美=故人の娘)
待ちに待ったその日がやって来ました。思えば今日までは自問自答のくり返しでした。母が亡くなったのが2年前、事情が有り納骨出来ず、何よりもあの世で娘が心身共に悩み疲れ果てた姿を見て悲しむ母を思うと、「もう良いよ、好きにして」と言っているのではないかと感じ、散骨を思い立ちました。
当日は雨も止み、多少風はあるものの、港を乱舞する鴎達があたたかく迎えてくれている様でした。前日にお骨を粉々にくだきながら走馬灯の様に小さい頃の母の匂い、ぬくもりなんかが思い出され、「ごめん、やっと楽になれるよ」と言いました。出航して、ずい分と沖に出て、段々と激しく揺れ、酔ってしまいました。自分の順番になるとさすがに気が引きしまり、甲板に立ちました。骨ってこんなに重かったんだ。野良仕事で太かったんだ。さっと海に放すと、紙といっしょに骨が溶ける様に、海に沈んで行きました。
海は全てを包んでくれました。そう、この海から風が起こり、雲が出来て、空を見ればいつでも母に会えると思うと、達成感で胸が一杯になり、何とも言えぬ気分になりました。あえて言うなら本来照れ屋なものですから、もう少しじっくりと時間かけたかったんですが、人前ではついそそくさと事を済ませてしまい、それが心残りです。
これからは、空を見ても、風をほほに感じても、雨の一粒だって母と思い生きていきます。
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