ドミニカ共和国
一攫千金という生きかた生む貧困社会
疲れ切った死者の人生、地域あげ悼む
窪田暁(総合研究大学院大学=国立民族学博物館=院生)
教会に一歩足を踏みいれたときから、その違和感はつきまとっていた。正確には不満といったほうが正しいのかもしれない。2010年2月、ドミニカ共和国(以下、ドミニカ)での調査を終えて、アメリカ東部ペンシルバニア州にあるドミニカ移民が多く暮らす街、ヘーズルトンに立ち寄ったときの話である。
早めの夕食をすまして、滞在先のドミニカ人家族とともに向かった先は、古いカトリック教会だった。二日前からの大雪は午後になっても降りやまず、凍てついた路面に四駆のジープが足元をとられる。大通りを行きかう車は少なく、街全体がひっそりと静まりかえるなかで、教会周辺にだけ弔問の順番を待つドミニカ人のスペイン語が響きわたっていた。
棺にはあと3か月で20歳になるはずだったドミニカ人の若者が寝かされている。ドラッグをめぐる喧嘩に巻きこまれて射殺されたのだ。生前に交流のあった人びとは口々に早すぎる死を悼み、若者がいかに真面目で優しかったかについて語った。女性は涙を流しながら同伴者の肩に寄りかかり、子どもたちは入口で配られるキャンディを手に時間をもてあましている。カトリック教会ならごく自然な光景を眺めながら、もう一度頭のなかで問いかけてみた。ほんとうにこんな弔いかた大丈夫なのか、ドミニカ人の魂はこんな方法で鎮めることができるのだろうか、と
若者の顔を見届け、教会の外に出る。冷えこみは一段と厳しさを増し、雪はいっこうに降りやむ気配がなかった。ジープに乗りこみ、エンジンが温まるのを待ちながら、それぞれがいま仕入れてきたばかりの情報を交換する。若者は、1年前にオジを頼ってアメリカに渡ってきたばかりで、故郷の母親に月100ドルの送金をしていたようだ。不運にもイトコと間違えられて殺されたらしい。もうすぐ家に着くころになり、誰かが「遺体は明日にでも、飛行機で故郷の母親のもとに送られるのだ」と話すのが聞こえた。その言葉に先ほどからの違和感が解消されると同時に、ドミニカ本国で1か月前に参列したばかりの葬儀の様子が頭をよぎった。
■移民200万人、海外から送金3000億円
ドミニカはカリブ海に浮かぶ島嶼群のひとつ、大アンチル諸島に属するイスパニョーラ島にあり、隣国ハイチとその領土をわけあっている。面積は九州より少し大きく(約48,000平方キロ)、人口約900万人の国である。1492年にコロンブスが到着して以降、険しい道のりを歩んできた。先住民のタイノ族はスペイン人がもたらした疫病と強制労働が原因で、わずか80年間で絶滅にいたった。スペイン、ハイチ、アメリカとめまぐるしく替わる宗主国に翻弄されながら、独立をはたしたとはいえ現在もなおアメリカによる政治経済的支配下におかれている。
多くの発展途上国と同様、グローバル化の負の影響、つまり社会的不平等の拡大といった問題が特に貧困層の人びとに深刻な影響を及ぼしている。産業が、伝統的な農業から観光業中心のサービス業やフリーゾーンにおける製造業へと変化するなかで、地方から都市への移住が盛んにおこなわれた。しかしながら、外資獲得と雇用創出を目的に進められた観光開発やフリーゾーンの誘致は、その主体を旧宗主国であるスペインやアメリカの資本が独占するというポスト植民地的状況をより強化している。1960年代半ばからはじまった海外への移民が増加し、現在では200万人を超える。彼らからの送金は、日本円に換算しておよそ3,000億円(ドミニカ中央銀行、2008年)。数字だけを見ても、ドミニカがいかに海外からの送金に依存する社会であるかがわかる。
私がドミニカに通うようになったのは、なぜ多くのドミニカ人選手が大リーグで活躍しているのかという疑問をもったことによる。2009年のシーズン終了時点で、ドミニカ出身の大リーガーは128人に達し、選手全体の10パーセントを占める。外国出身選手のなかでは第1位である。私は、その実態を人類学的調査によって明らかにするためにバニ市・バランコネス地区に滞在し、とにかく、野球少年たちの練習に混じって汗を流すことにした。カイロには莫大な富が蓄積した。
彼らがどのような環境で育ち、なぜ野球をはじめたのか。答えは簡単なようで難しかった。私の前には、野球選手になることが貧困から抜け出す唯一の方法であるという答えがすでに用意されていた。しかし、それだけが理由なのだろうかという思いは消えなかった。人間はそんなに単純になにかを選ぶことができるのだろうかという思いである。
ところが、はじめて調査地に足を踏み入れたとき、私の青臭い仮説は貧困という現実を前に早くも崩れさった。深夜にしかやってこない電気、コメと豆を煮込んだスープだけの食事、平日の昼間に木陰にたむろする働き盛りの男たち。ゴミ山と化した空き地……。かつてオスカー・ルイスが「貧困の文化」と呼んだ光景が目の前にあった。
■ラム酒飲み、ドミノに興ずる葬儀の夜
カクーと出会ったのは、そんな暗中模索の日々を過ごしていた頃である。ひとりの野球少年に話を聞くために立ち寄った家に彼はいた。野球少年の兄だった。質問にうまく答えられない弟にかわって明瞭に家族構成や日常生活について話してくれた。カクーの話はおもしろかった。気がつけば野球少年への質問はそっちのけで、バリオ(町、村)の社会関係、近所のゴシップ、子ども時代の思い出話に夢中になっていた。あくる日からカクーは私を見かけると、今日はどこでお祭りがあるとか、アメリカから誰それが一時帰国をしているなどの情報を教えてくれるようになった。
葬儀にもカクーに連れられ初めて参列した。
亡くなったのは70歳代の男性で、30年前にこのバリオができたときに移り住み、農業だけで生活ができた最後の世代にあたる。
私たちが到着する頃には、すでに家の前にはテントが張られ、大勢の人たちで道路は占領されていた。家に入ってすぐのところが居間となっており、柩が置かれている。
柩のほかは急造の祭壇となったテーブルがあるきりである。祭壇には、キリストや守護聖人の肖像画と遺影、それに十字架が立てかけてあり、花やラム酒が供えられていた。すでにブルーハ(敬虔なカットリック教徒の老婆)が到着して祈りを捧げていた。
そのまわりを、白いシャツに身を包んだ家族や親類が取り囲んでいる。
祈りが終わると、参列者が順番に家に入り、死者の顔をのぞき、家族に簡単な悔やみを述べていく。用事のあるもの以外はその場所に留まり、徹夜で死者の魂を見送る。
ラム酒をまわし飲みしたりドミノをしたりしながら、にぎやかに夜を明かすのだ。
死者の親族は、彼らへのお礼にコーヒーやサンドイッチ、それにハッカ味のキャンディを配る。
あくる日は近くの共同墓地に土葬をするのだが、近所の暇をもてあましている男たちがスーパーカブを暴走族のように連ね、そのエンジン音をあたかも葬送行進曲のようにして死者に寄り添うのである。
9日目の昼、再び親族と近所の人びとが集まり、ブルーハが祈りを捧げ、最後に食事がふるまわれてお開きになった。
一連の流れのなかで新鮮に映ったのは、死んだ当日に近所の人びとが夜を徹して死者に寄り添う光景である。
私にはそれが、バリオ全体でひとりの死者を弔っているようにみえたからだ。
事実婚による拡大家族のセーフティネット
ドミニカの親族構造は複雑である。正式な婚姻関係を結ぶ夫婦は稀で、ほとんどの場合が事実婚である。何度も事実婚を繰り返すケースが多く、兄弟間で親が異なることは珍しくない。最近では、親がアメリカに渡ったためにオバの家に預けられる子どもが増えており、家族の境界がますます曖昧になりつつある。同じバリオ内に兄弟やイトコが住んでいて、毎日のように互いを訪問しあう。社会保障制度が整備されていないドミニカではこうした拡大家族がセーフティネットの役割をはたしているのである。
葬儀の場で徹夜しながら、カクーは自分の人生について話してくれた。典型的なドミニカの拡大家族の6男として生をうけた。父親は地元の町と首都サント・ドミンゴを結ぶバスの運転手で、これまで3度結婚し8人の子どもをもうけた。日雇いの建設現場で働く男たちが多いこのバリオにあって、安定した収入があるとはいえ、それは8人の子どもを養えることと同義ではない。成人した子どもは地を這ってでも生きていかねばならないのだ。まともな職業に就くこともなく、フリトゥーラ(屋台)の後片づけを手伝うかわりにその日の食べ物にありついたり、鶏を絞めて市場に売りにいく幼なじみのトラックの助手席に座っていたりと、物乞いのような生きかたをしてきたようだ。いわれてみれば、プラタノ(食用バナナ)を積んだトラックの荷台に腰かける姿や、知り合いとカネの貸し借りを巡って口論しているのを見かけたことがある。話がひと段落したときに「毎日が闘いだよ」と漏らしたのが印象的だった。
カクーになぜバリオじゅうの人が集まって、徹夜で死者を見送るのか尋ねると「みんな他人ごとじゃないからさ」と答えた。
思いつく限りのツテを頼り、なんとかひと儲けをしてやろう。せめてその日の食いぶちだけでも確保しようともがく姿は、多かれ少なかれバリオの人びとに共通する生きかたである。
なかにはアメリカへ移民として渡ることができたものもいれば、野球選手になって成功したものもいる。
一攫千金の夢に賭けるのだ。それができるのは、拡大家族というセーフティネットの存在があるからであろう。
カクーの話を聞いていると、ここに集まっている人びとが、「お前はよく頑張った。もうじゅうぶんだよ」というねぎらいの言葉をかけているようにも思えてくるのだった。
一攫千金の生きかたを貫き、疲れ切った死者。明日は我が身であることを口には出さずともわかっている人びと。
だからこそ、ラム酒に酔い、ドミノに興じて、笑顔で見送らざるを得ないのだ。葬儀初日の光景に、ドミニカ人の一攫千金という死生観を垣間見たような気がした。
2010年1月。カクーは28年間の短い人生に幕を降ろした。彼の葬儀に参列している自分が信じられなかった。風邪をこじらせた彼は、近くの設備の整わない病院に運ばれると、二度と生きてこのバリオに戻ってくることはなかった。
死者がまだ若い場合は、バリオの人たちは一様に悲嘆にくれる。なにか得体の知れないものによってあの世に召されてしまったと考えるからだ。そのため、殺人や事故で亡くなったもの、カクーのように20代で亡くなったものの葬儀では、その家につづく道の両端にロウソクを等間隔に並べて、万燈篭のような幻想的な雰囲気につつまれる。悲しみにくれながらも、カクーの葬儀にはバリオの人びとが集まり夜を明かした。
家のなかには、4年前にカクーと私が出会うきっかけとなった弟がいて、泣き腫らした顔で柩の側を離れない。彼もまた、野球で一攫千金の夢を掴もうとしている。いまにして思えば、カクーは身をもって、ドミニカ人として生きるとはどういうことかを私に教えてくれていたのだった。苦しかったはずなのに、それがあたりまえのように明るく生き抜いたカクー。いつも肩を怒らせて、うまい話がどこかに転がっていないかと探し歩いていたカクーの姿を思い出して泣けてきた。「もう闘わなくていいんだよ」。一言だけカクーの寝顔に語りかけると、ラム酒を飲んでいる知り合いを探しに外に出た。
■飛行機で故郷の人びとの元へ送られる遺体
教会から帰った私たちは、週末だというのにさすがに外出する気分になれずに、リビングのテーブルで、ラム酒を傾けながら亡くなった若者の話を続けた。
この家には、20代の夫婦と子どもがふたり、それに最近ドミニカからやってきたばかりの夫の兄が暮らしている。
アメリカの葬儀にはじめて参加した兄が「これがアメリカのやりかたなんだろうけど、俺たちはドミニカ人だからな……」。
私と同じような感想を漏らした。「だから飛行機でドミニカに送るんだよ」と弟が応じた。
ドミニカ移民は、移民先で故郷の文化を維持する傾向が強いことで知られている。
言語、食事、宗教などの実践を通じて本国の生活を再現しようとするのだ。
葬儀についてもほんとは本国の方法でおこないたいところだが、公共の場での飲酒が法律で禁じられ、騒音にも厳しいアメリカ社会では不可能だし、そもそも氷点下の屋外で夜を明かすなど自殺行為である。
そんな事情もあって、こちらの教会で形ばかりの葬儀を済ませると、遺体は埋葬されずにバリオの人びとの待つ故郷に送られるのだ。
異国の地まで一攫千金の夢を追いかけて行ったドミニカ移民の魂は、やはり故郷の地で弔われることでしか鎮めることができないのであろう。
そんなことを考えていると、ふいに「カクーの葬儀はどうだった?」との質問が飛んできた。
ドミニカの家族と頻繁に電話で話す彼らは、すでにカクーが亡くなったことを知っていたのだ。
私が葬儀の様子を話すと、年齢も近くカクーと仲の良かった兄が沈痛な表情を浮かべ「バリオのみんなが集まって徹夜しただろ?」と私に尋ねた。
もちろん、という私の答えに満足そうに頷くとグラスに残っていたラム酒を一気に飲み干した。
明日の朝、若者の遺体はドミニカに送られる。
くぼた・さとる
1976年、奈良県生まれ。総合研究大学院大学文化科学研究科(国立民族学博物館)に在籍。ドミニカ共和国からアメリカに渡る野球選手を「野球移民」と定義し、スポーツを介した国際移動の実態を研究している。専門はスポーツ人類学、移民研究。
「再生」第83号(2011年12月)
