随筆など

聖書に「葬儀」を読み返す

自然葬、虚飾取り去った「葬り」

                    柴田 千頭男(ルーテル学院大学名誉教授)

 わたしが「葬送の自由をすすめる会」の会員にしていただいたのは1992年、ちょうど10年前である。入会する多くの方は、考え、悩みぬき、そして問題解決を求めて決意するのではないかと思うが、わたしの場合は、ちょっと異なる「必要」があった。

 わたしはキリスト教会の教派のひとつ、ルーテル教会の牧師であるとともに、教会が運営する大学と神学校で牧師になる学生たちのために、実践神学という分野での教育に長くたずさわってきた。定年を迎え、99年に43年間の職務にピリオドを打ったが、この実践神学の重要な課題の一つが「葬儀」であった。それをどのように行うかということが中心になる教育である。

老牧師の言葉に衝撃

 

 率直に言って、教会には何事につけ欧米で定着したキリスト教の諸形態を大切にし、きちんと守ればそれでよしとする傾向がある。しかし、ある年、わたしは根底から考えなおす必要を迫られる体験をした。九州のある教会に招かれ、葬儀について信徒の学習指導をした。泊りがけの熱心な集まりであったが、その夜になって、その日のプログラムの終了直前、その場におられた別の老牧師が急に、「わたしの葬儀は、牧師がきてお祈りしてくだされば、それだけでよろしい。あとは儀式は要らない」と言ったのである。

 参加者は驚いて「先生、わたしたちはどの様に葬儀をするのがよいか、という学習のために集まっているのに、先生から葬儀は要らないと言われたら困ってしまう」と不満が噴出した。

 当然のことであろう。しかし、わたしはすっかり考えてしまった。実はこの先生は、長い間東京にある、ある大きな老人ホームにかかわって、それこそだれよりも多くの葬儀を見てきたし、またご自身が葬儀司式も何度となくされてきた方だった。先生は一言、ぽつりとこう答えた。「今の葬儀は虚飾が多すぎるから」と。 わたしはどのように葬儀を行うべきかを一生懸命に教えていただけに、この言葉に衝撃を受けた。「虚飾」ということは、かざりが多すぎて本物、本質が見えなくなってしまうということであろう。本物、本質を生かすためにあるはずの周辺的なものが、本物、本質を押し退けて正面にしゃしゃり出て、それを隠してしまうということであろう。世の中には、骨董など多くの偽物が横行していて、それを本物としてつかまされてしまう人も多いらしい。ある人が書いていた。「素人には本物より偽物のほうが良く見えるので、どうしても偽物を買ってしまう。

 ではどうしたらよいか。根本的解決はひとつしかない。それはなにか。本物をよく知っておくことだ」。本物をよく知っておくことから偽物を見抜く。それしかないと言うのである。

迫られた葬儀観の再考

 では葬儀はどうなるか。この老牧師の一言は、伝えられてきたことをせっせと教えていたわたしに「お前にとって葬儀の本物とはなにか」という質問をつきつける結果になった。いままでの固定した視点からいささか離れても、周辺をみてみたいと思った。葬儀は死にかかわる。

 その死は、宗教、非宗教を問わずすべてに共通な事実である。そうである以上、他に学ぶ、他から知るべきことも多いはずだ。そのような視点から周辺を見てみると、今に社会で一番際立った現象の一つが葬儀についての論議がタブーから解放され、実にオープンになっていることだとわかった。遅きに失したが、学ばなくてはならないと思った。不必要に虚飾があれは、それを払拭していって、本物をきちんと提示できるようにしたい。その学びのための一助にと、わたしは本会の会員になったのである。

「葬」語り、「儀」語らぬ聖書

 この課題を念頭におきながら、キリスト教の牧師、または教師として、わたしは聖書そのものを克明に読み返している。キリスト教の正典(キャノン。尺度というギリシャ語からきた言葉で、信仰と生活の基準)は聖書なのだから当然のことである。多くの問題が出てきた。はっきりとしたことの一つは、聖書は「葬り」については語るが「儀式」についてはほとんど語っていない、ということだ。これはわたしにとり非常に重要な発見であった。聖書、とくに旧約聖書は律法によって人間の生活万端について事こまかに指示を出している。親と子、男と女、食べ物、週一度の安息日、重要な祭りとそのやり方、社会生活、職業などなど。微に入り細にわたる律法があるのである。しかし、人が死んだ時についてはきちんと葬ることの重要さは告げられているが、葬りを執行する際にこれこれの「儀式」を行えということはなにもないのである。

人間の帰る場は「土」

 聖書冒頭の創世記には、「ついに土に帰る。あなたは土から取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰る。」という有名な言葉がある(新共同訳聖書では「土に返る。お前がそこからとられた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」)。アダム(人)はアダマー(土、地)に関係された存在として語られている。土に帰ることが人間の帰る場なのだ。それ以外は死に関わる記述は、旧約聖書では二、三の例外を除いては、だれがいつ生れ、働き、そしていつ死んで先祖につらなったか、というような、きわめて即事的な言及が次々と出てくるだけである。儀式ではなく、死という事実そのものの羅列が聖書である。「葬り」を強調する以上、それに付随してなにかしらの儀式・習俗行為があったことは確かだが、具体的な記述はない。その必要がなかったのではないか。

 ただヤコブという族長の死に際しては、彼がエジプトで死んだのでエジプト式の壮大な葬儀がいとなまれた記述がある。しかし、あれはエジプト式だと創世記の著者はわざわざことわっているので、それが聖書における本来の葬儀だということにはならない。くだって、新約聖書、つまりイエスの時代になると、何回か死と葬儀の話が出てくるが、大変象徴的な出来事のひとつにヤイロという会堂長の娘が死んだ時の話がある。その家につくと笛を吹く者たちや騒いでいる群衆がいるので、それを見たイエスは「あちらへ行きなさい」と言われて、彼等を遠ざけている。(マタイ9章23)。葬りに付随したいろいろな習俗があり、ここでも人々はその習俗的なことをあれこれしていたのではないか。しかし、イエスはその人々を必要とせず、彼等を遠ざけ死者と向かいあう。そこで蘇生の奇跡がおこるのであるが、それはともかくとして聖書は葬儀の「儀」に関しては、かくのごとく徹底的に沈黙してしまうのである。葬ることが重要なのであって、どんな儀式にするかは二義的なこと、付随的なことではないか。つまり儀式的な虚飾の入りこむ余地がないのである。

自然葬に向かう私の結論

 土なれば土の帰る人間。しかしその人間を救済者イエスが受け止めてくださるのだという信仰的事実の宣言が中心にあれば、儀式は二義的ではないか。そこから不必要なものを虚飾として払拭していってもよいのではないか。いまの私にはそういう考えがあるし、自然葬に違和感がないし、否という必要はないと思っている。イエスを信じる者の葬られ方は、土なれば土に帰るという事実と、死に打ち勝ってくださった勝利者イエスを証しするなら、葬り方は一律でなくてもよい。むしろそれを積極的に表すなら「儀式」のほうがそれにあわせたくなくてはならないだろう。

 海も川も山も人間の帰るべき大地の一部である。いま、わたしはそのあたりから自分の結論を出そうとしているのである。虚飾をとり払った時の「葬り」のありかたの一つとして自然葬を考えたい。そういう結論にたどりつきつつある。ただしかし、それが残された者たちの感情論や、実利論からくるのであるなら、それもまた虚飾になってしまう危険があるので、注意は肝心だろう。これが今わたしがたどりついた考えである。

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柴田 千頭男(しばた・ちずお) 1928年生まれ。
立教大学大学院修了。アメリカで牧師活動の経験もある。ルーテル神学大学教授、アメリカのコンコーディア大学客員教授など歴任。新共同訳聖書の翻訳に加わる。著書の『結婚』など。     


再生 第47号(2002.12)