平等で安らかな世界への旅立ち
平等で安らかな世界への旅立ち~相模湾の自然葬に立合い考える
柳 博雄(ジャーナリスト)
2002 年夏、劇団民芸の舞台『千鳥ケ淵へ行きましたか』の大阪初公演に関わる機会があった。「ドラマティック・リーディングういずケーナ」と呼ばれるこの公演では、入江杏子、久保まづるか、白石珠江、田嶋陽子ら8人の女優が、それぞれの思いを込めて、ステージから満員の観客に語りかけた。
二万三千の兵が死んだ
島の名 ガダルカナル/太平洋戦争始まって翌る年の 秋/その島で 二万三千の 日本兵が死んだ/絶えまない米軍の火砲に向かって/地下足袋で白兵突撃/瞬時に 屍の山となった/天皇の赤子たち/飢えて 病んで/ジャングルのなかでハタリと息絶え/極秘の撤退のとき/もはや動けない兵たちは 自死の命を受け/(兵すらそうならば 飛行場設営のため/連行された軍要員は 朝鮮人徴用工は/いくたり 生きて帰ったろう)/……/森下一等兵 あなたは その島で 一九四三年の正月に死んだ……
詩人石川逸子の同名の詩集(上記は「第六室(飢えの島)」から引用)を、演出家渾大防一枝が舞台化し、今年は初演から8年目だ。私は、91年、朝日新聞の紙面企画『女たちの太平洋戦争』を手がけたとき、渾大防さんとの縁があった。
石川は、1986年発表したこの詩で、日本の戦争責任を被害と加害の両面から描き出している。そして、特攻隊員、絶望的な戦いを強いられた太平洋の島々での兵士、「三光作戦」の犠牲となったアジア各地の人々たちなど、「怨嗟(えんさ)と慟哭(どうこく)の無名の声」を、一人一人の名前ある人間の訴えとして取り上げた。
拾われる骨、日当たらぬ骨
『再生』46号の声特集で次の一文を読んだ。
「今、(ガダルカナル撤退作戦に投入された)私は友の遺骨にも差別を感じます。遺骨収集団に拾われる骨と、まったく未来永劫、日の当たらない骨。遺骨収集団の手で行われる差別」
(北九州市・森義直)
同じ『再生』46号に「千鳥ケ淵戦没者墓苑と墓埋法」の特集があった。 「国立墓苑の名にふさわしく十分に整備されているとは言いにくい状態だ。墓苑中央部に六角堂があり、地下に納骨堂が設置されているが、手狭になって12年前に六角堂の裏手の地下に納骨堂が増設された。ところが増設納骨堂には屋根もなく野ざらしで、一見したところまるで浄化槽のよう」
3年近い介護生活の果て、私の父は、1996年4月に88歳で亡くなった。生駒山中腹の病院から連れ戻り、大阪市内にある団地集会所の一室に父を安置した。その直後に業者から連絡を受けたのだろう。私たち夫婦以外だれもいない部屋に、僧侶が到着した。
枕経(まくらきょう)を終えると、初対面のその僧侶は膝の向きを変えた。朝の日差しが、まぶしく差し込む室内だった。
「ところで、こちら様にはお連れ合いはいらっしゃるのでしょうか?」
私は、質問の真意を探りかねた。
「いましたが、84年に亡くなりました。12年前です」
「で、奥様の戒名は何とおっしゃいましたか?」
戒名の「格」ですったもんだ
私は母の戒名を正確に答える自信がなかった。ドギマギしていると、妻が質問を引き取って応じた。
「院がついていたわ。賢照院貞徳妙優大姉のはずよ」
「家に位牌があります。夕方には正確な返事ができます。一体どういうことでしょうか?」
私の尋ねに、僧侶の答えは率直だった。
「お父様のご戒名の件です。もし、院がつけば50万円。大姉と同格にして居士をつけるなら、それにさらに20万円上乗せになります。やはり、ご夫婦なら戒名も同じ格の方が、後に家族の方が後悔しないですむと思います」 こんなやりとりは平常あるらしい。宗教者とも思えない、というより、不動産業者の敷金設定に近いやりとりだった。少なくとも、私にはそう思えた。
私の母は84年、東京で死んだ。このとき、私たち家族は、病院につめていた葬儀業者のほぼ言いなりだった。提示されたパック葬儀「中の上」を採用した。母にはそれなりの戒名がついた。母は、生前、故郷福島県の生地へ分骨を希望していた。分骨に際して分かったのは、母の東京でつけられた戒名の「格」が、田舎で家族が代々お寺さんから貰っていた戒名より、はるか下だったことだった。
すったもんだの末、東京の母の戒名に「院」と「大姉」がつけられた。
それが、今度は父の戒名にまで、影響が及んでくる。父が母より、戒名での格が下だと、あの世での肩身も狭かろう、と僧侶は私たち夫婦に暗示したのである。
昨年9月、相模湾で自然葬に立ち会う機会があった。
イギリスの故チャーチル首相に愛されたヨットとして知られる「シナーラ号」(72?)は、葉山のヨットハーバーを出発。かなり沖合に出てエンジンを止めた。真っ青な空、濃紺の海。背景に遠く富士山が見えた。
相模湾に戻される骨は、すべて粉末状に砕かれていた。粉末にする作業の多くは、前夜までに家族などの手で行われた。逆風で、自分の身体に遺灰を浴びたりしないよう、船の舷側に、入れ口が直径30?ほど、下が細くパイプ状になっている器が取り付けられている。家族らが次々と、その入れ口に遺灰を注ぐ。
弔鐘、霧笛、海面下に消える灰
弔鐘が鳴らされ、霧笛が続く。灰は水面に広がり、同時に投げられた花びらと一緒に、暫くして海面下に消えてゆく。遺族は故人への思いを胸に静かにそれを見送るだけだ。
葬送の自由をすすめる会・安田睦彦会長は「うみ・やま・そらへ還る旅」という。差別、偏見、憎悪と戦いに満ちた現世から、すべて平等で安らかな世界への旅立ちとは、こういう一瞬を言うのではないかそんな思いがよぎった。
やなぎ・ひろお
1941年、中国山西省生まれ。朝日新聞記者を径て、帝塚山大学非常勤講師(新聞学)。日本エッセイスト・クラブ会員。著書に『夫婦の親』(三五舘)など。
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やなぎ・ひろお
1941年、中国山西省生まれ。朝日新聞記者を径て、帝塚山大学非常勤講師(新聞学)。日本エッセイスト・クラブ会員。著書に『夫婦の親』(三五舘)など。
(2002.12)

