酒井卯作: 死神の話

題字:死神の話

(中) 冥土の使い

                              民俗学者・酒井卯作
                              (題字も)

怖いので2人で行く

 以前は人が死ぬと大変でした。棺作りから穴掘りまで、たくさんの人手を必要としました。その中でいちばん大変だったのは死の知らせです。これを受け持つ人を飛脚、早使い、告げ人など各地にいろいろの名称がありますが、いちばん多い名は2人使いという言葉です。それは2人連れで出かけるからで、名称は違っていても、各地とも2人で行くことには変わりありません。鹿児島県下には「死の知らせは2人、祝いごとは1人」という諺があります。2人連れの客があらたまって尋ねてくると、口上は聞かなくても、それは何の使いであるかピンときたものです。ピンときたら、すぐに簡単な食事を2人のために用意します。

 今でこそ、死の知らせは電話1本ですみますが、しかし死の知らせというものは、そんな軽いものではありませんでした。一戸ずつ縁者の家を尋ねて死の口上を述べる煩わしさは、たしかに大変な役目にちがいありませんが、それにしても、死を告げるだけのために、なぜ大の男が2人連れ立って行かなければならないのでしょうか。あえていえば、それは死神が怖かったからです。告げ人には常に死者の霊がつきまっとっている。そういう考えが基本にありました。だから1人で行くと死神に憑かれるという心配があります。兵庫県伊丹市など、墓には1人では行くものではないということも、和歌山県田辺地方のように、自殺者は1人で助けるものではないということも、その考えは同じです。1人だと死神に憑かれるおそれがあるからです。みなさんの多くが葬式に参加したとき、火葬骨を2人で合い挟みにして瓶に納めた経験がおありだと思いますが、1人だと心細いのです。近代社会といえども、霊魂に対する毅然とした態度は、なかなかとれないものです。愛知県佐久島のように、死の告げ人がどうしても1人で行かなければならないときは、誰かの赤ん坊を借りて背負って行くとか、奈良県櫻井町のように、腰に鎌をさして行くなど、私たちにできるのは、いかにして死神からのがれるかの技法を、うまく演出するかということだけです。

 その演出の仕方の1つに、この2人使いが来ると、必ず食事を出すことがあります。東京は杉並などでも、以前は2人使いがくると「スグチでは帰さない」といって、ありあわせの料理を出しますが、群馬県安中市などでは、このときのために、常々米の1合か2合を用意しておくそうです。仏教では餓鬼という言葉があって、生前悪事を働くと、あの世に行って飢えと渇きに苦しめられるといいますが、日本でもヒダルガミというのがあります。山などで急にひもじくなったりすると、ヒダル神がついたといって、何かを少し口に入れます。何も食べものがないときは、掌に米という字を書いてなめると大丈夫。空腹は悪霊の友です。今でも弁当の食事のあと、箸を折ったり、ハイキングの帰途には水筒の水は捨てるなど、無意識のうちに、ヒダル神に対する呪いは私どもの生活の中に生きています。

 立場を変えて、死神の世界から人間社会をみてみよう。8世紀頃の仏教説話「日本霊異記」(中)には、閻魔王の使いの鬼が2人で出てくる話があり、11世紀頃の「今昔物語」(17の19)にも、やはり鬼が2人でやってきます。地獄の鬼にしてみれば、人間の世界の方がまだ怖いのかもしれません。とくに最近は。その鬼と人間の死のたわむれの話を次にしてみたいと思います。

再生 第61号(2006.6)

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