私は「ギリシャ古代期」の研究者
「仮説実験授業研究会」会員の小学教諭 吉田秀樹さんに聞く古代オリンピック
京都市の小学校教諭・吉田秀樹氏(58歳)は、科学史研究者であり教育学者でもある板倉聖宣氏がつくった「仮説実験授業研究会」という教育研究会のメンバーで、ギリシャ古代期の研究を長年にわたってされている。『オリンピックと平和(文化と政治と宗教)』という授業書は、96年に出版されて以来6版を重ね、全国各地の小中高そして大学で授業に採用され、90パーセントの子どもたちから「この授業はたのしい」との評価を得ている。北京オリンピックはともかく終わったが、古代オリンピックの実態、それがなぜ民主制に結びつき、人間の生死や平和の大切さの問題にまでいきつくのか。これまでの研究の到達点について聞いてみた。
(聞き手=関西支部・柳 博雄)
『再生』第70号(2008.9)掲載
-----------------------------------------------------------------■たのしい研究、児童に体験させたい
――「仮説実験授業」とは、やや耳慣れない感じがします。
吉田 科学の歴史を調べてみると、科学研究は本来「たのしくて研究した」という伝統があります。自然の仕組みや法則を調べることは、本来たのしいことだと思います。無理やり誰かに命令されてやったのではなく、たのしくて自分から進んでやってきたんだと思います。教育研究は真理を求める科学研究なんだから、その時代の価値観に流されることなく、子どもも大人も共通にもっている好奇心を大切にして、研究をすすめていくことが大切です。
「仮説実験授業研究会」は、板倉さんが1963年につくった研究会で、そのような「たのしい科学研究の伝統に立ち返ろう」という思いがこめられています。ガリレオやニュートンがたのしく研究していく過程でたどった道筋を、子どもたちにも体験してもらおうというものです。それは1人ひとりの教師には無理。それで、「授業書」という一連の問題と解説の教材集みたいなものを作ることによって、「熱心な教師なら、誰でもたのしい授業ができる」ことを目指しています。
私が中心になって作った《オリンピックと平和》という授業書は、授業にかけたら4時間か5時間で済んでしまうものですが、作成には20年かかっています。もっといいものにしていくために、さらに検討中という状態です。すべての子どもたちに「この授業はたのしい」「受けてよかった」と思ってもらうには、それくらいの時間がかかる。「授業書」とは、新しい言葉で、その意味を伝えるのが難しいのですが、仮説実験授業研究会の財産です。現在研究会には1300人の会員がいて、すでに約45年の歴史を持っています。日本全国の学校で、授業書が授業に使われています。
■戦乱のオリンピアで復活した競技会
――北京オリンピックは終わりました。吉田さんの研究とオリンピックは、どう結びつくのですか。
吉田 現代のオリンピックに対比して「古代オリンピック」という表現があります。「古代オリンピック」は、紀元前776年に始まりました。古代ギリシャ民主制絶頂期より300年も前です。それから1000年以上、4年に1度ずつ中断なく着実に挙行されました。
もともと、戦乱に明け暮れていたオリンピア周辺の地で、イフィトスという指導者が昔、ギリシャで行われていたという「競技会」を復活させ、殺し合いに替えることを思いつきました。そして、デルフォイ神殿の巫女から、「競技会を再開せよ。そしてその間はあらゆる争いをやめよ」の言葉を引きだしたのです。それが、きっかけと言われています。
古代ギリシャのヒッピアスという学者が始めた「オリンピック優勝者年表」が残っていて、優勝者の出身地が分かっているのも驚きです。「年表」は、ヒッピアス以来、いろいろな人に引き継がれて書かれ、古代オリンピックの選手たちはオリンピアの周辺だけではなく、遠くエジプトやシリアからもやってきたことが伝えられています。
■年号に代用したオリンピック開催期
――交通が不便で情報伝達が不確実な時代に、どうして着実な開催が可能だったのでしょうか。
吉田 交通は予想以上に便利だったようです。当時の船の速度は思ったよりはやく、しかも古代オリンピックが開かれていた8月は、地中海もおだやかな状態だったようです。ギリシャ古代期の人たちは、そんな地中海を高速かつ安全に、自分たちの庭のように旅行したと思われます。
古代オリンピックがどれほど当時の人々に支持されていたかということは、例えば、人々がオリンピックをもとにした年号を使っていたということからもわかってもらえるかと思います。「私は第38回オリンピック大会期の1年目の年に生まれました」「第46回オリンピック大会期3年目の年に結婚しました」などの表現になるのです。現在、西洋史の出来事の多くの年代が特定 できるのは、古代オリンピックが年号がわりに使われたことによるものです。
――古代オリンピックは、どんなプログラムのもとで進められていたのですか。
吉田 スワドリング著『古代オリンピック』という本には、観客4万人を集めた最盛期の様子が紹介されています。5日に及ぶ期間で、その第1日目には、「哲学者の演説、詩人や歴史家の朗読」と書き込まれています。
たとえば、ヘロドトスという学者は、紀元前444年に行われた第84回古代オリンピックの会場で、自作の『歴史』という文章を朗読しました。大変な評判となり、その後、あちこちのポリス(都市国家)に招かれました。「歴史の父」として、今でも名前が残っています。
■開催日告げる使者は「停戦を運ぶ人」
――今のような情報伝達手段がなく、会場で声も届かない。どうやって朗読を聞いてもらったり、オリンピックの開催を伝えたりしたのですか。「聖火リレー」もあったのですか。
吉田 「自分はこんなことを発表したい」と思った人の中には、競技会場のすぐ近くのゼウス神殿に、だれでも自由に発表できる場所がありました。話しを聞いた人たちは,帰って自分たちのポリスの仲間に口コミでその話を伝えたのです。ある意味で,古代オリンピック自体が、マスコミだったのです。
聖火リレーはなかったのですが、オリンピック祭典が始まる前に選ばれた3人の使者(オリーブの葉を編んで作った冠をかぶり、杖を持ち、『スポンドフォロイ』と呼ばれていた)が、ギリシャのすべての都市をめぐりました。スポンドフォロイとは、『停戦を運ぶ人』という意味のギリシャ語です。使者の最高の目的は、『各都市間で続く戦争の中止』を宣言することでした。戦争だけでなく、死刑の執行や、訴訟行為まで禁止されました。スポンドフォロイは、オリンピックを生みだしたイフィストと、それを支え続けた多くの人々の思いを背負って、『一切の争いを止めよ!』と叫びながら、祭典の正確な日取りを知らせ、訪れた国々の人たちを招待するという大切な役割を果たしました。
回を重ねるに連れ、オリンピックは、素晴らしいチャンスの場だとすぐに人々は気付きだしました。本も放送も新聞も、もちろん携帯電話もない時代に、広い地域から4万人もの人々が集まるのです。そこは、モノを売りたい人、宣伝したいことがある人、新しい知識を求める人にとっては待ちきれないほどの魅力的な場所に映ったことでしょう。古代オリンピックは、ありとあらゆる所から人が集まる広大な『フリーマーケット』の場所だったのです。
――だから、ギリシャがローマに支配されるような時代になっても、間断なく続いたのですね。
吉田 古代オリンピックは、ローマに支配された後、さらに500年間続きました。ローマの勢力が広がるたびに、参加者もより遠方からになりました。最後は393年開催ということが通説です。その2年後に、ローマは東西に分裂します。
――吉田さんが、古代ギリシャ研究に足を踏み入れたきっかけを聞かせてください。
吉田 もともと私はギリシャの民主主義に興味があって、すばらしいギリシャ古代期の文化は民主主義の完成とともに生まれたと思っていました。だから古代オリンピックも民主主義の完成後に生まれたと思っていました。ところが民主主義完成の300年も前に始まっていたのです。そのことを知った時は本当に驚きました。今では逆に、古代オリンピックにおける「対等」「競争」「オープン」「品物や情報の大交流」などの諸要素が、ギリシャに民主制度をもたらしたのではないか思います。そのことを多くの人に納得してもらいたくて今も研究を続けています。
■死後も原子として存在し続ける私の体
――吉田さんは「自然葬」をどう思われているのですか。
吉田 数年前、大阪湾での自然葬で立会人役をつとめ、感動しました。「『自然に還る』とは何か」と家に戻ってからも考え続けました。古代ギリシャが独創的に生みだしたとされるのが「民主制」と「原子論」です。先行するエジプトにも他の文化にもありません。人間は死んで火葬され、骨粉になって最後は原子になります。原子の総数は、海の水をコップ1杯掬ったらその中に1人の人間を構成していた原子が1個は入っているくらいの数です。人間の体は,それくらいの膨大な数の原子から出来上がっています。原子は不滅です。あるものはあるのです。なくなったりはしません。私が死ぬと、私の体を構成していた原子は自然に戻ることで本来の原子としてまた地球上に存在し続けます。原子として私は、子どもたちを見守っていきたいと思います。
---------------------------------------------
