インタビュー

私は小児神経疾患の専門医

秋津療育園の余語毅男さん語る医療と社会

 
 東京・東村山市の重症心身障害児療育施設「秋津療育園」医師の余語毅男さん(80)は、てんかんや脳性まひ、発達障害などの小児神経疾患の専門医だ。一方で、上智大学では社会福祉学科の教授を長く務め、小児の健康を中心とした家族の問題や社会福祉など臨床にとらわれない幅広い活動にもかかわってきた。学生時代からカトリックに親しみ洗礼も受けた。人間関係が希薄化してさまざまな問題を生んでいるが、「児童は人として尊ばれる」と格調高く宣言した児童憲章を思い直すべきという。「それが育児の基本であり、対人関係のすべてだから」という。
(聞き手=事務局・小飯塚一也)

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――上智大学のホームページに「マリア食堂ボランティアのお願い」ということを書かれています。どんな食堂ですか。

余語  JR南千住駅近く、山谷地区の中心に明治通りの泪橋交差点があります。そのそばの小さな弁当店です。労働者向けに、安いが温かく衛生的な弁当を売っています。前身は食堂だった。材料はほとんどが献品です。オムレツの上手なシスターがいて、そのオムレツは卵1個でふっくらと大きく見える。1日100個焼く。週に500個、年にすると2万4千個。10数年は働いていますから彼女は延べ30万人に温かい弁当と心を贈ったことになる。上智大学の社会福祉学科は実習を重んじます。私も店頭で販売を手伝っており、若い人に奉仕の場にと呼びかけるのですが反応がなく、しつこく書いているのです。

■小児科は治療以外の課題も山積

――社会福祉学科は文学部に属しています。医師がなぜですか。

余語  私は慶応義塾大学の医学部で勉強しました。小児科に小林提樹という先生がいました。脳障害の講義をし、脳障害の重い患者の外来診療をされ家族と親身に問題を考えておられた。障害は生まれつきの問題や分娩の時の問題などが原因になることが多いのですが、戦後混乱期だった当時、その対策はあまり問題にされなかった。牧師になろうと考えたこともあるという先生の人柄にひかれて、外来診療を手伝うようになりました。後に「島田療育園」という、私が今いる秋津療育園と同じ重症心身障害児療育施設を作られ院長をされましたが、大学にいる間も施設の必要性を説き、厚生省(当時)に日参されたり、ソーシャルワーカーのようなこともされたりして社会事業に傾倒するようになった。

 私に社会事業家になるような力はないし、もっと神経系の勉強をしたいと思っていたときアメリカに留学する機会があり、ジョンズホプキンス大学やハーバード大で小児神経学領域の発達やてんかんなどについて5年ほど研究員生活をしました。帰国して、慶応に戻り小児神経病の診療に当たっていましたが、50歳になった時に上智大学から声がかかりました。

 小児科には治療すること以外に心の発育とか発達という問題がついています。母子関係、夫婦関係のあり方とか、家庭教育や女性の社会的自己実現、ジョブシェアの問題とか、社会福祉の面で講義の材料はたくさんあるのです。

 もともと私の住まいは上智大学に近い麹町三番町にありました。昭和20年3月10日の東京大空襲で焼け出されたときは、四谷駅前の上智大学構内に逃げお茶とおにぎりをいただいて一息ついた。JRで1駅先の信濃町の慶応病院で勉強していたときは、カトリック研究会というサークルがあり、上智大学の学長にもなったイグナチオ教会のホイベルス神父が月に2回来てくれました。その人から洗礼を受けました。私を上智に招いてくれた先生が医学部の先輩でもあったのです。

■1960年代に法が認めた重症心身障害

――「療育園」という施設はどのような施設ですか。

余語  秋津療育園は、1998年に上智大学を退職した後のかかわりですが、それ以前から新潟県にある同種の施設、長岡療育園でも診療していました。児童福祉法に基づいた施設で、「重度の肢体不自由及び重度の知的障害が重複している児童を入所させて、これを保護するとともに、治療及び日常の生活指導をすることを目的とした施設」と規定されています。

 秋津療育園の創立者は草野熊吉というクリスチャンの社会事業家で、重度心身障害児や子どもをかかえる家庭では保護の手が届かず、惨めな生活を強いられることに気づいて1959年(昭和34年)に開設しました。訴えが大きな社会問題になり、東京の多摩市に小林先生の島田療育園ができたり、作家の水上勉さんが雑誌に「拝啓池田総理大臣殿」という文章を書いたりした。そういうことがあった後、1967年に児童福祉法が改正されて法が認めた施設になりました。

 重症心身障害児は中枢神経機能の障害で、運動障害と知的障害をもっていて日常生活ができない。成人になったからといって他の施設に移すなどすると、それだけでパニックを起こす。法は「18歳以上でも重症心身障害児に限り児童福祉法で対応する」という規定を設けて退院制度をつくらなかった。それで今は入園者175人の平均年齢は42.8歳、最年長は63歳、30歳以上が80パーセントです。厚労省の報告では、重症心身障害児は全国で37,700人とされていて、これに対して施設数は193、定員は18,924人ということです。

 ここで生活している患者さんは、苦しいとか痛いは表情で示します。でも、どこがどう痛いのかはまったく言わない。食事はコントロールされているから肥満や糖尿病はひとりもいません。高血圧もほとんどいない。ですが、動けないと骨が弱る。ひどく背骨が曲がる人もいる。また、がん患者の発生は避けられない。

 ある患者にがんがあるのを見つけました。家族に連絡をとったら「よろしいように」と委託されました。放って置くと骨を蝕む。足腰が痛くなる可能性がある。その場合痛みの治療しながら養育していくのは本人にも職員にも負担が大きいと判断して手術をしました。幸いうまくいきましたが、だれの意思で医療をすすめるかという問題がいつもあります。

■1980年代起きた「生と死」考える運動

――会の入会カードに「自身、第一子を乳児期になくしており、同じ悲しみを経験した若い人と話をしたい」と記されています。

余語  長女を生後6月で亡くしました。朝、変な声を出すので見たら顔色が変わっていた。びっくりして慶応病院に連れて行きましたが亡くなりました。いまで言う乳児突然死症候群(SIDS)です。

 上智に移った1980年頃から「生と死」という問題がクローズアップされるようになった。がんの治療は、画像診断など診断方法が非常に進んで治療もある程度うまくいく。ところが全部うまくいくわけではないので、本人の了解を得ないと治療をすすめられない。そこで病名の「告知」ということが問題になった。死の問題を考える「生と死を考える会」などができ、上智はそうした問題のセンターのようになりました。そのなかで乳児突然死症候群が取り上げられました。乳児の突然の死は、とくに母親にとって自分の命が縮むほどの思いをする。責任が問われることもある。警察が来ると調べの間は遺体に触れられない。悲しんでいる時に被疑者として尋問される。落ち込んだり、離婚したりする人もいる。そういう人を支えようと、「SIDS家族の会」というのができました。私も遺族として会員です。

 乳児の突然死は、発達のプロセスで起きることで成熟するにつれ問題はなくなると私は理解していますが、そういうことを認知させようと努力されたのが、福井ステファニーさんという米国出身の女性で、「SIDS家族の会」の会長です。現在は流産や死産で子をえられなかった親のケアもしています。偉いと思います。

■社会の信頼感が薄れてきたのは残念

――産婦人科や小児科志望の医師が減るなどの問題が指摘されています。最近の医療と社会の関係についてどのように思いますか。

余語  責任を回避することを念頭においているような社会になったと感じます。個人情報保護ということが強調され、人に情報を出すことを恐れる。医師もだれに患者さんの状況を話すべきかそれがどういう結果になるかを非常に恐れる。事実、訴訟になることもある。また、一般の人が医学常識を持ち始めているのはいいことですが、医師が専門家として話していることをその辺の茶飲み話と同じレベルで受け止め、その結果誤認することが生ずると感じることがあります。

 航空機で「ドクターいませんか」と求められることがある。医は仁術であるなら手をあげるのは当然ですが、できることとできないこともある。いいがかりをつけられるかもしれない。それだったら黙っているということもあるようです。人間間の信頼感というか、善意にもとづいて行う行為を率直に受け入れないような世の雰囲気は残念です。

――会に入られた理由はどのようなことですか。

余語  代々の家の宗教は曹洞宗で都内のお寺に墓があります。そこに入るなら戒名をもらってほしい、とお寺にいわれました。それは信仰を変えろということですから、困る。自然に親しむことが好きですから自然に還ることにしました。

 私は、1951年(昭和26年)5月5日制定の児童憲章を非常に格調の高い宣言と思っています。その前段の宣言「児童は、人として尊ばれる」こそが育児、教育の基本だと思います。たとえ相手が赤ちゃんであっても、「あなたはいかなる意向でこういうことをなされるのですか」と聞くぐらいでなくてはいけないといつも言っています。相手をひとつの人格として尊重することは、社会的または家族内の位置とは別の重みがあり、自分を高いものとせずに対応する心が対人関係のすべてではないかと思うのですが。                                                                                    

                                                                                                          『再生』第69号(2008.6)
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