私は元ベトナムの日本語教師
6年在住した山口泰世さんに聞く ホーチンミン市などの暮らし
11年前に東京都町田市の小学校の教師を辞めた山口泰世さん(66)は、その後すぐベトナムに渡った。ホ-チミン市(旧サイゴン)に住んで、ベトナム戦争終結後アメリカナイズしていく社会をみつめ、農村部の親しみ深い人間像に限りなくひかれた。日本語教師をし、茶道も教えた。がんにかかっていることがわかり帰国したが、今もベトナムにかかわる。
(聞き手=会員・田沢健次郎)
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■25年間の小学校教師生活辞めて決断
―― 大学に入学したのは26歳だったそうですね。
山口 生まれは長崎県で、高校を卒業して2年半は銀行に勤めました。もともと理科の実験が好きだったので、その後、長崎大学の熱帯病研究所で1年半働き、組織培養の技術を習得しました。そうした技術のバイブルである「細菌学実習提要」を発行していた東大の医科学研究所にあこがれ、やがて同研究所に就職することができました。
免疫反応を媒介する血中たんぱく質のひとつである「補体」の研究の手伝いをしました。全国から若手研究者たちが基礎医学の研究で論文を出そうと集まっていて、「山口さん、大学を出ていないと研究職にはなれないよ」と大学進学を勧めてくれました。研究の合間に受験の数学とか国語とかの勉強をみてくれました。夜は予備校です。26歳の時、東京学芸大学に入りました。
4年後に研究に戻らないかと誘われたのですが、子供たち中心の学級経営の方が楽しいのではないかと思い、教職に就いたのです。それから25年間ずっと、町田市で小学校の教師をしたのです。
―― でも定年までは勤めなかったのですね。
山口 私は、校長にはやりにくい教師だったと思います。君が代の斉唱や日の丸の掲揚の強制には反対でした。13年間学級担任をしました。5、6年生の担任が多かったのですが、だんだん1年生しかもたせてくれなくなりました。高学年担当だと、卒業式が管理者の思い通りにならなくなると心配したのです。その頃、図工専科の教師がいないという学校がありました。私は絵が好きなので、そちらに変更しました。絵画のこと、彫刻のこと、木工のことを講習会などで特訓しました。
12年間図工専科の教師をして、定年まで5年はあったのですが、1996年に教師を辞めました。持ちこたえられるような勤務環境ではなくなったのです。3月25日の終業式の翌日にはもうベトナムでした。その2年前には「葬送の自由をすすめる会」にも入会していました。
■会のこと知ってこれだと思った
―― 入会のいきさつを教えてください。
山口 入会は確か1994年です。会ができてそんなに時間がたっていなかった。私には夫も子供もいません。兄弟はいますが、お墓をああしろこうしろといった揉め事から逃れたい。私はそういうことに関係ない、といいたいのです。周恩来さんやライシャワーさんも散骨していましたし、お墓はいらないと思いました。田舎に帰れば親の墓参りはするけど、私にはお葬式もいらない。だれがお墓の掃除を何回やったとか、作り直すのに何十万円かかったとか、私には煩わしい。墓を建てても、ゆくゆくは皆が私のことなど知らなくなります。会のことを知った時にはこれだと思ったのです。
ベトナムに行く前に、散骨の手続きも全部済ませ、兄弟全部には病気をしても延命措置は不要、葬式はしない、墓もいらないと通告して納得をしてもらいました。
■食べ物や人間的触れ合いにひかれた
―― どうしてベトナムなのでしょうか。
山口 やはりベトナム戦争です。ベ平連のような活動はできなかったのですが、テレビや新聞で戦争が報道されたベトナムですから1回行ってみようと思ったのです。1995年にストリート・チルドレンの救済活動をしていた日本人が組んだツアーに参加しました。訪れたのはホーチミン、ダナン、フエです。行ったら、食べ物も人間的な触れ合いも、私に一番合う国だなと思ったのです。
その後、私の日本でのベトナム語の先生だった方のフエの実家に15日間滞在してみて、ベトナム生活を決心しました。ただ、15日目には警察官が来てパスポートを取り上げられ、警察署に呼ばれました。2002年くらいまでは、外国人がベトナム人の家に泊まる場合は公安委員会に届け、オーケーが出ないと泊まれなかった。その時は許可を取っていなかった。ベトナムで暮らすようになってからは、現地の人の家に泊まる場合は、公安の許可をとってくださいとお願いしました。
―― 体験したベトナムの生活を教えてください。
山口 1996年5月にホーチミン市のハイ・バー・チューン通りというにぎやかな通りに一部屋を借り、ホーチミン総合大学に入学しました。まずベトナム語ができなくては、とベトナム語科教室に通い始めました。留学生ビザ(1年ごとの更新)ももらいました。ベトナムの大学は入学金さえ払えば簡単に入学できます。入学試験はありませんが、入ったらしょっちゅう試験があります。
ベトナム語学科は1クラスが10人くらいでしたけど、日本人、タイ人、韓国人、ドイツ人、オーストラリア人と多彩でした。1日2時間の授業で、ベトナム語がだんだんとわかってきて、教室では共通語のベトナム語で大いに盛り上がり、笑い合ったりしました。それを聞いていた担当の先生が「あなたたち楽しそうだけど何語で話しているの」と聞くのです。「え、ベトナム語です」と答えると、「私には何を話しているか全くわからないわ」ときょとんとしていました。
ベトナム語には声調があって、学生同士では通じても現地の人には全く通じない。途中から自宅にベトナム語を教えに来てもらうようにしました。別の大学で1年間、3年生に日本語を教えましたが、私自身が日本語教育の系統だったものを学んでいなかったので、ベトナム人対象に行っていた日本語学校に2年間かかわりました。和太鼓を教えたり、茶道や着付け指導などにもかかわりました。学生たちは日本人と違う興味を見せてくれて、教えがいがありました。
びっくりしたのは、ホーチミンでみた葬式です。ラッパ隊が演奏してすごくにぎやかで、最初はお祭りと思ったくらいです。「りんご追分」や「美しき天然」などに似たメロディーが私の寝床まで聞こえてきました。参列者が鉢巻して泣いている。下宿の大家さんはハノイ出身で、「あんなことハノイではしない」と批判的でしたけど。
―― 日本との違いをいろいろ感じたようですね。
山口 感じました。ベトナム人はしなやかでしたたかです。たとえば、時間は日本人から見ればルーズです。教えていた学生たちは、約束の時間に来なくても平気なのです。「先生ごめんなさい」と謝ることもない。家で教えてくれていた先生が約束の時間よりもずっと早く来たので、「こんなに早く来てもらっては困ります」といっても、「関係ない、関係ない」です。ベトナム人との付き合いは、あせらず、あてにせず、あきらめずの3Aだといわれました。なるほどね、現地に溶け込むということはこういうことかと思いましたね。
■がんが見つかって
―― 2005年に帰国されましたね。
山口 ベトナムに6年間住み、その後は私の年金ででも生活できそうだからと、タイのバンコクに移りました。ベトナムでは日本人との付き合いはほとんどなかったのですが、タイでは元商社員や激務の日本を飛び出した人たちなど、個性ある人たちとも付き合いました。タイに住んで、死んだらそこで荼毘にふしてもらおうと人生設計を描き、2年でタイ語もものにできた頃に、視野狭窄の症状が出たり、食欲がなくなったりしたのです。念のために帰国し検査したら、末期に近い卵巣がんと診断され、引き上げざるを得なかったのです。6時間の手術と抗がん剤の治療を受けました。
―― 現在の生活をお教えください。
山口 ベトナムで生活した縁で、日本でベトナムのインスタントうどん(フォー)を販売する会社のお手伝いもしています。この社長さんはベトナム人で大変な美人で素晴らしい人です。
私は、今は抗がん剤の治療は受けていませんが、月に1度、病院のがん緩和ケア病棟に通院しています。また、丸山ワクチンの注射も受けていて、腫瘍マーカーの数値は抑えられています。いつ死んでもいい、ただ毎日が楽しくという心境にもなっていますが、そんな思いをYYコラム(http://amoment.pupu.jp)というホームページに書いています。がんは治療にお金がかかりますので、経済的な補助を国に要請する運動が起きてほしいですね。私は参加したいです。
ベトナム戦争を経験した国で生活して、平和が一番の基本だと痛感します。国民1人ひとりがアンテナを張って平和に敏感でなくてはならないと思います。それとアジアの国へ本当にお金が生かされる支援、ボランティア活動をしてほしいなと思っています。
『再生』第66号(2007.9)
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