ヨガ実践者
私はヨギ_中国支部元代表の中條正夫さんに聞く
「日常生活とヨガ」
中條さんは団塊の世代である。葬送の自由をすすめる会中国支部を1996年に立ち上げて代表になった。その後、支部代表は現在の山崎俊二さんと交代したが、もうひとつの横顔はもうじき30年になるヨガの師である。「物質(ヨガ的には心も物質とみなしています)をコントロールして、初めて真に豊かな社会があるのです」と語り、高齢者や病人、あるいはこれから子供の母になる若い女性に役立つヨガに関心を強めているという。かつて、中條さんの3DKマンションの1室で会の活動に対する新聞の取材を受けたことがある。世話人のひとりに加わった私も伺った。家具が1つもない部屋だった。ひょっとして、ここでヨガをやっているのだろうか。ヨギとはヨガの実践者のことだ。
(聞き手=寺島洋一・「再生ちゅうごく」編集人)
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■プログラムの後の団欒が大切
―― 中條さんのマンションの部屋、8畳くらいでしたね。あそこでヨガをやっているのですか。
中條 わたしのところでは、ヨガに来られる人は予約制にしており、時間もプログラムも1人1人別々です。あの部屋と続きの小部屋も使用して、定員は7人から8人ですが、それぞれのヨガ(呼吸法をふくめて体を動かす―実習ヨガ及び瞑想)をしています。 火、水、土曜日の朝10時から昼の12時半まで及び夕の6時から8時の間にやっています。 1回、1時間半から2時間ですが、個々人のプログラムを終えた後の自由な団欒の時間を大切にしています。昼はテイータイムをもち、夜は食事も出します。お互いしゃべり合いますから、週3日以上の開催をするとヨガ的でなくなると思っています。他の日には農業でもやるのが理想です。
―― 癌の手術をした後公民館でヨガを続けている友人から聞きましたが、20人くらいで一緒にヨガをしているそうですが…。
中條 日本でもインドでも、ヨガというとグループでやるのが普通です。最近、インドではスタジアムで5000人まとめてやったとも聞きました。私のような「個人プログラム」のヨガをやっているのは、私の師匠のAmar Nandy (アマール・ナンディ)師だけでしょう。しかし今後のヨガは、個人プログラムになっていくと予感しています。
ナンディ師は、4000年前のインド文明から生れたヨガのさまざまな流派を探索して、「インド正統ヨガ」を確立されました。カルカッタを中心に4つのクリニックを開業し、ヨガ・ドクターと呼ばれています。国際ヨガ会議でも評価されてヨギンドラの称号を受けています。現代医学・古代インド医学(アユール・ヴェーダ)、心理学とヨガのバランスのとれた高度な健康法を実施しておられます。具体的にいうと、薬は使用せず、食事とカウンセリングと生活指導とヨガの実技によるものです。
■家族生活をしながら歩むヨガ
―― ヨガというのは何ですか。
中條 他人や世界、自分自身との調和をとることで、人間個人の真の心の平安を目指します。
インドでは出家修行が主流ですが、家族生活をしながら歩むのも伝統的にあるようです。ファミリー・ヨガです。呼吸を整え、疲れたり鈍くなったりしているところ(体内も含む)を様々なアサナ(姿勢法)で調整します。時には、完全に動きを止めてみる。仕事・家庭・レジャーや勉強のこと、病気・老い・自分の誇りや負い目・将来に対する不安や思い、それら全てから一時離れ、何もせずただ静かに余分な力を抜いてじっとしてみる。とてもそんな暇はないと思われるかも知れませんが、暇は作り出せるのです。そうすると、体調や気分が良くなります。
その結果、仕事がはかどり、速やかに片付きます。そして時間の余裕も生まれます。心身が健康になります。このような動きが、まさにヨガなのです。
ヨガのシステムには8段階がありますが、最初の4段階が初歩的で基本的な実習ヨガで、呼吸法と体位及び日常生活上の注意と提案から成り立っています。
―― ヨガを始められたのは?
中條 私は1948年に群馬県富岡市で出生。大学紛争で大学を中退し、新宿のロシア語専門学校を卒業しました。ソ連の実情をみてやろうという思いもあって、ソ連の極東との貿易商社に就職しましたが、呼吸不全や腰痛のため退職しました。国立がんセンターで肺気腫と診断され、東京都江戸川区の公害認定も受けました。食養生を教えてくれた友人に助けられました。
親友からも「ヨガもやったらどう」とすすめられて新宿のヨガ教室に通い、ナンディ師に出会いました。半年で、不治の病といわれていた肺気腫から解放され、腰痛も治ったのです。29歳でした。食養生も続け、「自然農法」の福岡正信さんの講演を聞く機会も得、後の広島での米作りにつながりました。
1年後の1977年にインドに渡り、ナンディ師の下でヨガを学びました。会話は英語、師のベンガル語は通じにくかったのですが、それが体験学習を深めたようです。帰国後、ナンディ師とともに東京・福岡・広島で「インド正統ヨガ」の普及活動を行いました。そんな時、健康産業をふくめた事業を始めるという広島のFさん夫妻に誘われて、ヨガを担当することになって広島に来ました。1978年のことです。広島は、学生時代に1500キロのサイクリングの最終地だったという縁がありました。
Fさんの会社で「完全個人プログラム」方式のヨガを始めました。10年後の1988年に自立して、念願のインドのアシュラム(道場)のように食事も出せるヨガ教室を始めました。「ヒロシマ・ヨガ・スクール」です。もうじき、20年になります。子供から86歳の人の指導経験をもっていますが、現在99歳の母親と同居していることもあり、高齢者や病人に対するヨガプログラムに関心を強めています。また、未来の子供の母になる女性に役立つヨガ(妊娠中から子育てまで)を伝えて行きたいと、妻と話しています。
■基礎は行為、言葉、想いにおける非暴力
―― ヨガのキャッチフレーズはなんですか。
中條 ヨガの第1段階の1番は、非暴力。行為と言葉と想いにおいて他を傷つけないことです。
それを基礎に、心身の浄化と人としての無限の向上を日々養う。物質よりも精神的平安をもつことです。物質をコントロールして、初めて真に豊かな社会があるのです。
―― なるほど。それでNO DUの人文字(劣化ウラン弾反対の空撮写真を米紙の意見広告に出すため、2003年3月2日、広島市民が6000人集まった)にも参加されたのですね。「葬送の自由をすすめる会」に入会されたのは?
中條 1991年10月、相模湾で自然葬が行われた記事を切り抜いていて、翌年の1月に入会しました。父親は遺灰を海にまいてほしいと言っていましたが、末子の私の手の届かないところで盛大な葬儀になってしまったことがあります。末子の私が葬儀されるときは肉親はいなくなっているでしょうから、自分の思い通りにしたい。自分の葬儀は自分で決めようと思ったのです。
自然葬にしたいというのは、1978年にナンディ師のもとに行って以後、85年・86年・89年・96年と5回もインドの土を踏み、インド人の生活習慣をみてきたせいでしょう。インドの人たちは、死体を担架に乗せて町のなかを運んでいくのです。霊柩車などでなく、オープンなのです。それがごく日常的で自然なのです。窮屈な墓のなかに入らなくてもいいことにつながっているのです。
■お別れ会と自然葬で全てを終えたい
―― そういえば、私が編集している総合文化情報誌『地平線』36号(2004年4月刊)に、中條さんの「葬儀ノートを書きました」を掲載させてもらいましたね。従来の通夜や告別式を「お別れの会」とする、香典はお断り、写真の前に花を1輪ささげてほしい。そして、新井満さんの訳詩「千の風になって」を朗読してほしいと言っておられる。いまや人口に膾炙していますが、3年前ですから情報のキャッチが早いですね。
中條 私のヨガに来ている人がもってきてくれました。作者不明ですが、おそらくアメリカン・ネイティブの詩だろうと思います。私は私自身のよって来る「大いなる存在」(サムシング・グレート)の前で、「肉体を得てこの生を送らせて頂き、ありがとうございました」と感謝するセレモニーとして、自分の葬儀を考えています。季節の良い時期に、瀬戸内海とガンジス川に分散して遺灰を撒いてもらいたい。初七日・四十九日・一周忌などは行わず、「お別れの会」と「自然葬」をもって、葬送儀式の全てを終了する。目下のところ、そう書いています。
『再生』第65号(2007.6)
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