インタビュー

元女性マナスル登山隊長 医師・黒石恒さん

3年前まで世界の山を歩いた医師・黒石恒さんの世界

  3年前、くも膜下出血で倒れるまで世界各地の山を歩いてきた医師の黒石恒さん(82)には、50年近い登山歴がある。1974年の「日本女性マナスル登山隊」の編成の際は、何回か辞退したのに隊長に推され、隊は登頂に成功して「8000メートル峰を征服した世界初の女性隊」の栄誉を受けた。「でも、私は高さや技術だけをめざしたわけではないのです」という。最近は高峰でもお金を出せば登らせてくれる登山の商業化も進む。「自分で計画し、自分でやることに意義があるのに」と批判的だ。 (聞き手=事務局・小飯塚一也)

『再生』第62号(2006.9.1)掲載

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■山にかかわったのは結婚後

―― お見受けするところ、きゃしゃなお身体で山に登っていた方とはみえません。

黒石  私は、もともとは絵描きになりたかった。父がそれは趣味でやればいいというので、好きではないが東京女子医学専門学校に入ったのです。卒業すると、絵を描くなら開業したほうかいいと勧める人がいて、埼玉県川口市で開業しました。学校時代は戦争で登山どころではなかった。診療所が順調にいって、結婚しました。彼が山に行く人だったんです。

  

―― マナスルやチベット、南米などの山や現地の人たちを描いた画集「旅の回顧」の著者紹介を読むと、国内やヨーロッパはもちろん、ネパール、インド、パキスタンなどと世界中の山に登っていますね。

黒石  夫婦で山に行っていましたが、どこに行っても絵ばかり描いているといわれました。そのうち、山に夢中になってしまい、女性の登山団体「エーデルワイスクラブ」に入りました。創立10周年の記念に海外遠征をすることになりました。移民で行っている日本人が便宜をはかってくれるから、とペルーのアンデスが選ばれ、医療係として参加しました。1966年です。6000メートル級のプラランカという山でしたが、クレバスに阻まれて引き返しました。

 そのようなことをしているうち、日本山岳会に入れば山岳画家がいて絵の勉強もできるからと入会しました。入ってみると盛んに海外登山研修会が開かれていたのです。

―― 1956年の日本山岳会隊によるマナスル初登頂が戦後、大衆的な登山ブームを起したのですね。

黒石  ペルーに行ったころから、女性だけの山岳会ができてきて、研修会では男女混成隊に参加しても下積みの仕事をさせられつまらない、女性だけでヒマラヤに行こう、という話が出るようになったんです。1975年エベレスト日本女子登山隊に参加し、女性としてエベレストに世界で初めて登頂した田部井淳子さんたちの女子登攀クラブができたり、マナスルに行った「同人ユングフラウ」という会ができたりしたのもこのころ。だんだん8000メートル級の山にもということになったのです。

―― 日本女性マナスル登山隊はどのようにしてできたのですか。

黒石  マナスルが決まって、編成が進みました。でも、参加者1人100万円という個人負担があり、募金も思ったように集まらず苦労しました。私は銀行から借金もしました。隊長になり手がいない。私は当時48歳で、ドクターとして参加したのです。しかし、計画の中心になっていた人が健康問題もあって隊長をやれない。開業医で忙しかったし、医師と隊長の兼務は無理だと思い辞退したのにどうしてもやってくれ、といわれてやることになったのです。

―― 支援を求める計画書には、日本山岳会会長だった今西錦司さんが序文を書き、作家の北杜夫さん、南極越冬隊長をした西堀栄三郎さんなど著名な支援者が並んでいます。

黒石  「マナスル隊SOS」なんていう見出しでスポーツ新聞が書いてくれました。西堀さんは銀行に紹介状を書いてくれました。「がんばれよ」とおっしゃってくれた。私は南極にも行きたかったので「女性はダメですか」なんて聞いたりしました。

■女の意地を貫く難しさを知りました

―― そして出発ですね。

黒石  ネパール外務省から登山の許可が下りて、何とか出発しました。でも大変だったの。女の意地を貫くことの難しさをとことん味わいました。

―― 登山隊報告書に、「社会性に欠け、感情に走りやすい女性の欠点」とか「未踏の東尾根に対する懸念」とか、「周囲からあった意見や忠告が単なる杞憂ではなかった」などと書かれていますね。

黒石  始め未踏の東尾根ルートをとったのですが研究不足で、ザイルが不足することが分かって現地で方向転換し、日本山岳会隊が登ったルートに変えました。登頂を目指すのか、登れなくてもいいから東尾根を追及するのかという論争をし、ベースキャンプまでやり直したのです。男のシェルパが登頂したいと考えていることなど全く考えないで計画を立て、うまく使うことが出来ないでトラブル続きだった。1次隊が登頂に成功して、2次隊を出すかどうかでももめました。トランシーバーでのやりとりがうまくいかず、出ていったら猛吹雪で隊員の1人が遭難してしまいました。でも、がんばって隊員3人とシェルパ1人が登ったことは評価された。カトマンズの日本大使館で祝賀会の話もありました。遭難者がいるのに祝賀会ではないと思い、スピーチだけで済ませてもらいました。

―― 「隊員達は、衆に優れた人間でもなく、ごく普通の、市井の人間達であり、そのような人間達が、マナスル登山という、困難な壁に挑戦して、それを克服し得たということが、世の多くの女性達に、自分達にも、その様な可能性があるのだという、希望を抱かせたと思います」という報告書の文章が印象的です。

黒石  はい。どんなことを書いたのかよく覚えていないのですが、あの登山で、男性対女性ということより女性の可能性についてPRすることはできたと思っているのです。翌年エベレストに登頂した田部井さんのグループのミーティングにも参加して私たちの失敗についてお話しました。エベレストにもと誘われましたが、マナスルで借金していてとてもできませんでした。

―― 山の画集は3冊出版されています。山と絵の人生だったということでしょうか。

黒石  私は山に対して情熱をもっていました。苦しいことがあっても乗り越えて行く。趣味というより人生観ということかもしれません。歩けるうちは登っていこうと思っていました。自分で計画して、自分でやる。今までそうしてきました。お金を出せばいいという商業登山が盛んなようですが、私は登る以前にも意義があると思います。

■3年前まで続けた山歩き

―― 「ヒマラヤングリーンクラブ」というNPO団体の会員ですね。

黒石  3年前にくも膜下出血で倒れるまで、毎年夏はパキスタンのカラコルム山麓で、ヨード欠乏症という風土病対策に取り組んできました。「ヒマラヤングリーンクラブ」は、世界第2の高峰K2へのルートにあるパキスタンの北部辺境で、植林、教育、医療などのボランティア活動をしているNPO団体で、私は会員です。登山をしない人には行けない山間地域での仕事です。

―― ヨード欠乏症とはどのような病気ですか。

黒石  氷河が土壌を削り取る。水や食糧にヨードがなくなると、脳の発育が悪くなり、神経症状が出てくる。甲状腺疾患も増えるのです。私はこんな疾患は知らなかった。ヨード欠乏症国際対策機構日本代表をしている東邦大学の入江実教授に指導を受けました。身長、体重、胸囲を測り甲状腺を調べ、尿のヨードの測定をするんです。測定は日本でないとできない。腐敗させないで持ってくるのが大変です。調べたらヨード欠乏症地域ということが分かった。ヨード添加塩を使って治療する必要があるのです。大量に買い込んで持っていきました。

―― 登山家になじみの土地ですね。

黒石  そう。よくトレッキングをしていました。地域にヨード添加塩の工場をつくろうと思って外務省に「草の根無償援助」の申請をしたのですが、通らなかった。残念です。

―― 70歳のとき、川口市で開いていた診療所を閉じたのですね。

黒石  45年続いた診療所を廃止しました。その後は老健病院や保健相談所などに頼まれて医師をしてきました。勧める人があって、10年ちょっと前、武蔵野市に引っ越しました。リバース・モーゲージ制度があるというのです。高齢者が住んでいる不動産を担保に融資を受けられる。いまは必要ないけど、いずれそうなるかもしれない。不養生と過労で倒れたんです。くも膜下出血で手術を受け、その後また水頭症が起き意識を失った。体力に自身がありすぎたんですね。市の福祉公社の世話になって、火曜日と金曜日はリハビリテーションです。手足の筋力トレーニングと、脳の機能回復の百枡計算です。重い荷物を担ぐようなことばかりやっていたから、腰が痛い。参っています。

―― 会には2001年入会ですね。

黒石  灰にしてヒマラヤにまいてもらいたいと思っていたけど、もうお金もないし日本の山でもいいから、と西多摩再生の森にまいてもらうことにしているのです。主人は墓にといっていますが、私は割り切っています。

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