私はジャズハウス店主
芥川美佐さん語る ジャズと今
ジャズを聴くことができる場が町から減った。東京・下北沢の商店街のはずれでこじんまりしたジャズハウスを開いている芥川美佐さん(78)=02年入会=は、「モダンジャズはいま、バックグラウンドミュージックのように扱われ、だれもちゃんと聴いていない。ミュージシャンの心がにじむ素晴らしい演奏がたくさんあるのに残念」という。開店以来37年。お客は少なくなったが、店主としては、「動けなくなり座っているだけになっても続けたい。ますますジャズを極めたい」と話す
(聞き手=「再生」編集担当・小飯塚一也)
-----------------------------------------------------------------■最近は偉大な演奏者が出なくなった
―― ジャズはいま、どんな風に聴かれていますか。
芥川 モダンジャズは、いま日本ではバックグラウンドミュージックのように扱われて、居酒屋とかクリーニング店とか、どこでも有線放送かなにかでかかっていますね。CDもいろんな演奏家の適当な1曲ずつを寄せ集めたものをつくって、これは車の中で、これは午後のお茶を飲みながら、とかいって売っている。たまに店に来る若い人が「ジャズっていいわね」なんていうけれど、何となくいいわねという風で、深くは聴いていない。マイルス・デイビス(1926-91)ならマイルス・デイビスのアルバムのA面もB面も聴いてこそ、 よさが分かってくるのにといつも思うんです。
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| 看板の肖像はピアニストのビル・エバンス |
モダンジャズは、40年代後半ごろ天才チャーリー・パーカー(1920-55)が、「ビ・バップ」という革新的な奏法を取り入れ、それまでのスイングジャズをひっくり返し世の中を驚かせたのが始まりですよね。テーマより演奏者のアドリブを重視した自由な音楽です。自由が行き過ぎて、もう少し曲の全体構成を考えるように変わったのが50年代の「ハード・バップ」といわれる時代。マイルス・デイビスやコルトレーンが登場し、今でも50年代、60年代のものがジャズの主流です。
ケネディが大統領になり、キング牧師の黒人運動、公民権運動が激しかった60年代には主張がある。マックス・ローチ(1924-2007)のドラムなんて、自己主張をしようとして音楽になっていないようなすごさがある。闘うジャスだったのに、70年代は軽くなってしまった。ジャズは時代とともに変わるんです。ミュージシャンが優等生になってしまって、偉大な人は出なくなっている。昔は譜面が読めない、音楽学校など行っていないというような人がガーンとやったのにね。
毎年、アメリカなどに聴きに行きます。昨年9月にもニューヨークに行きました。ライブハウスは20ドルぐらい。でも、だんだんお金もうけ本位の店がふえてきました。デートや食事の場になり、有名な演奏者が出ているのにあまり聴いていない。下北沢ほど子供っぽくないけど、似てきました。
ジャズはアメリカが中心ですが、公民権法が64年にできたあとも白人の黒人への人種差別は収まらなかった。黒人ミュージシャンはヨーロッパに行きたがる。デンマークにはたくさんのアーチストが移り住みました。そこで一生を終える人もいる。だからコペンハーゲンにはライブハウスがたくさんある。アメリカ以上に真摯にジャズと取り組んでいるので、行くと楽しいんです。
集めたレコードは3000枚ほど。ヨーロッパでつくられたものがふえています。
■店に入り「あれっ」という顔をするお客
――黒ずくめの店内、レコード満載の棚、プレーヤーにスピーカー、ミュージシャンの肖像を配した店の看板など、開店当時のままと見受けます。
芥川 「Since 1973」ですから、今年で37年。開店当時のままです。去年、写真家の荒木経惟さんが『荒木経惟トーキョー・アルキ』(新潮社)という本で取り上げてくれました。そこに書いてあるのがおもしろいの。
「初めて入ったとき、俺がミルドレッド・ベイリーの『ロッキン・チェア・レディ』が好きだっていったら、探してくれて、かけてくれたんだよ。LPを。すごいだろ。最近はみんなCDになっちゃってるけど。ここ、ここ! なっ。閉まってるわけじゃないんだよ。ほら『ベルを鳴らしてください』って書いてあるだろ。めったにお客さん来ないんじゃないの」
看板の肖像はピアノのビル・エバンス(1929-80)。草創期から黒人の中に入って頑張った白人です。聴くたびに新しいものを感じる。「ベルを鳴らしてください」という立て札は、入り口そばの机に立てている。お客が来ないときは奥にいます。誰も来ない日もある。以前は、ふらりと入ってくる人もいたけど、そういう人、いまは店に入り「あれっ」という顔をする。美術学校の学生が「ジャズを聴けといわれてきました。何を聴いたらいいのですか」なんていう。そうなっちゃいました。
私、20歳のとき親の反対を振り切って静岡から東京に出て来ました。昭和27年(1952年)のことです。芝居がやりたくて、築地小劇場を興した新劇運動の長老の土方与志(1898-1959、演出家)に手紙を出しました。「東京で芝居がしたい」と。当時、健在でした。思ってもいなかった返事が来たんです。「まず学校で勉強をしなさい」というようなことが書いてありました。まだ、東京なんて外国に行くみたいに思っていたころです。もう帰るまいと大決心でした。姉を頼って上京、土方の関係していた池袋の演劇学校に通い始めました。
それからいろいろありました。メーデーだから行こう行こうと誘われて、何も分からず皇居前にいったら警官隊がいてすごいことになっていた。メーデー事件です。劇団の民芸はできたばかりの小さな集団でした。研究生みたいになって、当時の新橋演舞場で上演した久保栄の「五稜郭血書」の舞台に子供の役で出ました。滝沢修や宇野重吉など、その後の新劇の重鎮になった人たちといっしょです。戦後すぐの熱気は忘れられない。お金はないし子役みたいなことばかりでぱっとしなかったけれど、20代は芝居しか考えられなかった。
31歳で結婚して子供ができて芝居から離れ、41歳で離婚して、シングルマザーで子供を育てていくために杉並区・荻窪からここに来て店を始めました。ジャズをかけているうちにそれが第1になっちゃって。体が動かなくなって座っているだけになっても続けたい。ジャスを極めたいというのがすごくあるの。
――下北沢は「若者文化」の町なんていわれます。
芥川 私が来た当時、駅前はもうにぎやかだったけれど、八百屋や魚屋、肉屋や米屋など生活必需品の店も並ぶ住宅街の駅だった。そのうち、手作りのケーキの店とかパン屋さんができ、80年代になると本多劇場ができてライブハウスなどもふえた。以前は、映画俳優の岡田英次や緑魔子を見かけたり、高島忠夫がレコード店に来ていたり、といった雰囲気があったけど、今は、カレー屋ならカレー屋でも主人が頑固に作っているというような店は少なくなってチェーン店のような店がふえてきた。やってくる年齢層が急に若返って、若者はあまりお金を使わないから店もくるくる替わる。若い人、文化を求めてここにきているのかしら。去年9月、愛好者の中では有名だったジャズ喫茶が閉店したんです。駅近くで50年以上もやってきた店なんです。
大規模な道路計画もあるようだし、騒々しいだけで、下北沢のどこがいいんだろうと思います。
■ジャズにも自然葬にも自由がある
――ジャズと自然葬には関係がありますか。
芥川 劇作家の木下順二さんの入会の辞が何度か「再生」に載りましたね。お母さんがなくなったとき知人に送った手紙がいいですね。「通夜、葬儀、告別式など一切おこないません。この手紙御落掌のおり、お受け取り下さった方々おひとりびとりの自然なお気持ちに添うて、一度だけしばし故人のことを思って頂ければ、それが故人の最も喜ぶところ」「そのような次第ですので、ご香料のほかも、勝手ながら花一輪といえども御辞退申し上げます」と書いてありました。
友人が持っていた「再生」で読んで、ひそやかに通知するというのがいいなあと思って書きとめました。それで会員になり自然葬契約もしました。
ジャズにはとても自由なところがある。自然葬も似ている。最低限のところで決まりがあればあとは自由にできる。自由なところにまけることがとてもいい。私は、ジャズを聴きにいってコペンハーゲンがとても好きになりました。同じ資本主義体制なのになんで日本とあんなに違うのか。つつましいけど静かな豊かな暮らしがある。あの町でまいてもらえたらうれしい。
サックスのジョン・コルトレーン(1926-67)は、最後は宗教的な心境に入っていったミュージシャンだけど、心の中の清らかさがフワーと出てくるような演奏がとても好きです。彼の「ディアロード」(Dear Lord)という曲をかけながら送ってほしいと、遺言に記しています。
『再生』第77号(2010.6.1)
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