第3回 骨と美術
創造的行為を促した死への恐れ
髑髏を直視するルネサンス精神
小池寿子(国学院大学教授=美学美術史)
◆生と死と芸術
悲しみや苦悩がかたち持つ美に昇華
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芸術は本来、生と死への呪術的行為から生まれました。まず、生存本能が造形行為としてあらわれた絵図としては、たとえばアルタミラの洞窟に描かれた動物の絵をはじめとし、獲物の獲得を願った狩猟図などです。ついで、ある程度生きるための条件が満たされたのち、人間が思いをはせたのは死後世界です。そこに造形されたものを「死の芸術」と名づけるとしたら、人類が最初に生み出した死の芸術は「墓」でした。そして古来、生の希求よりはるかに、死への恐れ、不安、願望の方が、創造的行為を促す多大なエネルギーとなってきた(のと→ように)思われます。
人類が最初に墓を造ったのは旧石器時代後期、すなわち紀元前50万年前から20万年前といわれています。墓穴を掘ったり、骸骨の上に小石や骨を積み上げ(る→たり)といった、死者を埋葬した痕跡が、各地に認められています。また、死者といっしょに埋められた貝殻や石でできた装身具や工具などは、死後も生き続けるという考えをあらわす儀礼が存在したことのあかしと見られています。さらに紀元前1万年以降の新石器時代には、それ以前のきわめて簡素な土盛りから、自然にできた洞窟内などを利用した墓室に加えて、ドルメン、地下道、塚などの人為的な墓が登場します。
そして紀元前3000年頃になると、ピラミッドをはじめとして死後世界に関わる壮大な建造物が出現します。私たちがそこに芸術的価値を見出すのは、ある頂点に達した形式と様式が認められるからです。「死者の生存と保存」を願った人々の長い営みは、悲しみや苦悩を儀式のうちに昇華し、かたちの美をもつ芸術に結実したのです。
今日に残る墳墓の内部には、供物の代わりを果たす果物や獲物の絵図をはじめとして、来世への期待を込めた楽園的な光景や人生の楽しい時期の情景、また故人の姿や家族の像、葬送儀礼の様子などが描かれ、当時の死生観をうかがい知ることができます。「表現」のことをrepresentation といいますが、このre-presentation とは、現実を再びそこにあらしめること、現物の代替物の意に他なりません。芸術(Art=術)はまさしく代替物を表現することなのです。しかし不思議なことに、墳墓芸術には、実際の死者の代替物ともいうべき「骨」が描かれていません。実物の骨を埋葬しても、墓の装飾として骨を描くことはなかったのです。おそらくそれは、リアリズム=写実の意識の問題と密接に関わっていると思われます。墳墓には、死という恐ろしく、忌まわしい現実をリアリスティックに描ききる精神は見られず、むしろ生死の理想化が、造形行為の根底にあるようです。
ここでは、骨が芸術に登場する死の芸術の足跡を簡略に辿ってゆきましょう。
◆エピキュリアンとしての骸骨
諧謔精神と結びついて一躍表舞台に登場
地中海文明の始まりを画す紀元前3000年来、巨大墳墓から廟堂、石棺など墓の形態は多様化してゆきますが、その装飾については大きく2つの傾向に分かれるとされます。描かれている形象を、それを生み出した固有の文化的・宗教的・社会的背景を考慮しながら、分析し解読する図像学という分野を開拓した美術史学の碩学E.パノフスキーは、遺著『墓の彫刻』の中で、「先望的」「回顧的」と分類しています。つまり、死後世界の安寧に重点を置いて形作られている場合と、故人の生前の事績を記念することに重点を置く場合です。たとえばピラミッドは先望的であり、故人の肖像などを浮き彫りとして刻んだ墓石は回顧的というわけです。すべてこの2つに分類できるわけではありませんが、墓に死生観を探る上では、貴重な視点になります。そして年代的に遡れば遡るほど先望的であり、下れば回顧的な墓碑が多いのも興味深いことです。日本の墓石は、肖像が彫られたり、装飾が施されていないとはいえ、両者を兼ね備えた機能をもっているといえましょうか。
さて、回顧的な墓碑が主流となってきた古代ギリシア美術を受け継いだローマでは、故人の若い頃の肖像を彫り、かつ死後の永世を願うための神話的モティーフを配した墓石が流行しました。古代ローマでは、諸宗教が混交し、許容されていましたが、帝政末期には死と再生を本願とするディオニュソスの密儀に加え、救済を約束する東方伝来のミトラ教、そしてやがてローマ帝国を支配するキリスト教が優勢となりました。しかし一方、知識人の中には、死によって万物は自然界、すなわち神話的神々の世界に還元されるとする者や、胡散霧消すると考える者もいました。前者はストア主義者であり、後者は、いわゆるエピキュリアン(享楽主義者)と呼ばれる人々です。そしてこのエピキュリアンたちの考案によると目されている墓碑や葬送儀礼に関わる物品、好事家的な日常品の中にはじめて、骸骨が現れるのです。
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| 図1 ボスコレアーレの銀製酒盃(ナポリ近郊出土、紀元前世紀末から1世紀前半製)=パリ・ルーブル美術館蔵 |
たとえば、ポンペイ近郊のボスコレアーレから出土した銀製酒盃には、ゼノン、ソフォクレス、エウリピデス、エピクロスなど、ギリシアの名高い悲劇詩人や哲学者が骸骨の姿で彫られ、「快楽こそ人生の目的である」「生あるうちに今を捕らえよ、なぜなら明日は定かならぬから」「生きている間に楽しみたまえ」といった銘文が記されています(図1)。そこには紀元1世紀のローマの文人ペトロニウスが悪漢小説『サテュリコン』で描いた「トルマルキオの饗宴」と通じる享楽と退廃の死生観が伺えます。その饗宴では、奴隷上がりの成金トルマルキオが饗宴たけなわ、一体の銀製骸骨模型を取り寄せ、その手足を自在に操りながら客たちの向かって次のように言うのです。
「ああ、わしらはなんと哀れな奴か。人はみな空の空。死神オルクスがわしらをさらっていくと、みなこうなるのさ。さらば、元気なうちに楽しもうではないか」(国原吉之助訳、岩波文庫)。
こうした趣向はエジプトにすでにあったことが知られており、古代世界でのアイロニーに満ちた余興のひとつであったと思われます。リアリズムの精神が諧謔やカリカチュアと結びついたとき、骸骨が一躍、表舞台に登場するのです。
◆キリスト教美術における死
黒死病や戦争を背景に風靡した「死の舞踏」
では古代ローマを支配したキリスト教は、どのような死の芸術を生み出したのでしょうか。キリスト教美術の出発は、目に見えないはずの神と天使的世界を表現することにありました。端緒から矛盾と難題を抱えていたといえましょう。現存しないものを表出するには、現実にあるものを利用し、かつ非現実的な様相を与える方法が考えられました。そこには理想化や抽象化、象徴化といった操作が加えられます。しかし、実を写す精神はけっしてなおざりになされたわけではなく、やがて西ヨーロッパで、今日に至るリアリズムの芸術を展開させてゆくことになります。
したがって、死の芸術においても、救済観にもとづく来世的な表象が主であり、死体が登場するのは、12世紀になってからです。それは日々の祈りを記した写本の挿絵であったり、教会を飾る彫刻(です→であったりします)。そして13世紀になると、死者を主人公とした物語が著され、それに挿絵が施されるようになります。さしずめ今風に言えば、臨死体験もの、でしょうか。教会がヨーロッパの大地に先住していた諸民族の伝承を、教化文学として改変し、説教などに取り入れていったのです。その中からやがて、死者と生者との対話という文学形式が生まれ、蛆虫に食われ、内臓は腐敗し、あるいは干からび、半ば骸骨と化した死者たちが表舞台に立ちます。「三人の死者と三人の生者」はその挿絵です(図2)。
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| 図2 「三人の死者と三人の生者」(『ロベール・ド・リールの詩篇』挿絵から。1300年頃)=ロンドン大英図書館所蔵写本 |
ある日、世の憂いなどまだ知らない3人の若者が、狩りから帰る道すがら、3人の死者と出会う。若者は着飾った身分の高い者で、死者の方は腹や背、足や腕の肉などすべて腐り、顔ときたら目も鼻も口も、ぽっかりと穴があいてしまったよう。生者は死者の姿に驚き、恐れ、この忌まわしい者は誰なのか、と口々にささやきあう。すると死者は、人間は必ず死にゆく者であり、自分たちは、神がその真実を知らしめるべく送った鏡である、地獄に行くような悪しき死を避けるために悔い改め、神に祈りたまえ、と語る。
つまりここでは、死者は生者のなれの果てを映し、教訓を与える鏡なのです。そしてこの趣向は、死者と生者が踊るように行列をなし、墓場へと向かう「死の舞踏」に引き継がれることになりました(図3)。「死の舞踏」がヨーロッパを一世風靡した背景には、14世紀半ば以来流行した黒死病や度重なる戦争による死者の増加があります。今日、黒死病はペストばかりでなく、いくつかの疫病を混同した症状をさす用語とされています。いずれにせよ、それは当時のヨーロッパの人口の3分の1近くを奪い、人々は死体を目の当たりにする生活を強いられ、救済観の変更を余儀なくされたのです。
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| 図3 「死の舞踏」木版画本の一部(1485年、パリのギュイヨ・マルシャン刊)=グルノーブル私立図書館蔵 |
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| 図4 「死の勝利」(部分、1490-95年頃)=イタリア・クリュゾ-ネのサンタ・マリア・アッスンタ聖堂付属デヒシプリーニ礼拝堂 |
日常化した死。それは黒死病に襲われた14世紀半ばから15世紀を経て、宗教戦争に明け暮れた16世紀に至るまでのヨーロッパに、死の芸術の隆盛をもたらしました。この時期、死の舞踏のみならず、墓碑には腐敗し、干からびた屍の像が彫られ、また万人を襲う死を死神として表現した「死の勝利」が流布しました(図4)。まさしく、死のオンパレードです。しかし興味深いのは、死に対する態度に見られる大きな変化です。つまり、人々が死に慣れ親しんでゆくのです。死はもはや恐ろしいばかりの敵ではなく、教訓者であり、友人であり、さらにこの世の苦しみから解放してくれる救済者へと変貌してゆきます。死者が乙女を誘惑する場面を描いたエロティシズムと死など、19世紀末期にその頂点(に)達するテーマももてはやされます。
◆リアリズムと死の克服
求められる死を見つめる透徹したまなざし
こうした死の芸術の隆盛には、もうひとつ重要な要因があります。それはまさしくルネサンスという時代を特徴づけるリアリズムの問題です。黒死病は多くの画家の命も奪いましたが、彼らに死を見つめる透徹したまなざしを与えました。刻一刻死に近づいてゆく肉体、変色し変形してゆく死体。その恐るべき現実を、彼らは克明に描きとめる技術を身につけていったのです。14世紀後期はまた、ヨーロッパに都市を中心とした市民社会が胎動し始め、それまで天上に向けられていた人々の関心が地上的な事柄に向かう時代でした。
そして、神が支配する世界観から人間が支配する世界観への(以降→移行)は、16世紀に大きな転換期を迎えることになります。
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| 図5 クリスピン・デ・パッセ(父、1564-1637年作「死は生の始まり」(エングレーヴィング)=ガブリエル・ロレンハーゲン著『寓意の核心』より |
この時期、死に対する態度も、もう一段階の展開を遂げます。たとえば、「死は新たな生の始まり」と銘文のついた表象を見ましょう(図5)。画面には、すばやく過ぎ去る時を象徴する砂時計の上に髑髏がのり、そこからは麦の穂が生え出ています。向かって左には墓地での葬列が、右には麦刈りが描かれています。穂は再生を意味し、死が単なる終わりでなく、豊かな実りののちの刈入れであること、そしてそれは、死後世界での新たな生の始まりであることを謳っているのです。
また当時の一修道士は、つぎのように勧めました。部屋に髑髏を置いておくのがよい。もしそれがなければ、自分の肢体をみつめなさい。そしてそれがやがて朽ち果ててゆくことを思いなさい、と。慣れ親しむべき死には、さらに積極的な意味が与えられ、日常の生そのものの中に死を見、死と共存し、かつ克服してゆく態度が育まれていったのです。
しかし、近代に向けて別様の変化があらわれました。死を日常から遠ざけ始めたのです。それはひとつには、墓地の郊外への移転という具体的な施策に起因していました。キリスト教世界が古代世界と大きく異なるのは、死者への距離のとり方です。古代では死者の町(ネクロポリス)は生者の住む町の外にありました。一方キリスト教世界では、教会を中心に町が発達しましたが、その教会こそ、死者を葬る場であり、死者と共存する場だったのです。信仰生活の中心であった教会の力が衰え、利潤を追求する都市が巨大化していったとき、死者の住む墓地は郊外に移転されることになりました。死を疎んじ、タブー視する時代が訪れたのです。
今日の私たちは、死を再び重要な問題として受け入れようとしています。医学的、倫理的、社会的などさまざまな視点から死について議論されています。一方で、Tシャツやアクセサリーなど若者のファッションばかりでなく、巷には髑髏や骸骨の絵があふれるようになりました。ヨーロッパの死の歴史を鑑みると、これは慣れ親しんだ死の段階なのでしょうか、あるいは戯画化され、遊戯化された死の時代なのでしょうか。死に対する真摯な態度、透徹したまなざしなくして、死を受容してゆくことはできないように思われます。それには、長きにわたる死との歴史を改めて振り返ることが必要なのではないでしょうか。
(2006年4月22日、東京都渋谷区の国学院大学百周年記念講堂で行われた講演をもとにご執筆いただきました)
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小池寿子(こいけ・ひさこ) 1956年生まれ。お茶の水女子大人間文化研究科博士課程満期退学。美学美術史専攻。『死を見つめる美術史』『死者のいる中世』など多くの著書がある。
再生 第62号 (2006.9)
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