骨シリーズ講演会

第2回 骨と宗教

骨と宗教
転換期にきた現代の遺骨めぐる観念
近代家族のプライベート感情が影響


                            中村生雄(学習院大学教授)

中村講師写真

 骨と宗教というテーマは広いテーマだ。問題が含んでいる広がりと、それがどういう風に現代の問題となっているのかということを、キリスト教における骨、仏教における骨、日本人の祖先崇拝と骨、現代の日本社会と骨、に分けて考えたい。

 日本人の宗教意識は仏教に徹底的な影響を受けている。ところが一方で、仏教の根本をまるで受け入れていない部分がある。よく日本人は遺骨信仰があるといわれる。半分あたっていて半分あたっていないと思う。戦争や事故のあと、できるだけ多くの遺骨、遺体を収集しようとする。厚労省が、最終的段階としてかなり大がかりな戦死者の遺骨収集をするという報道が最近あった。戦後60年たっても、国家が率先して収集するという国民性がある。半面で遺骨に対して淡白なところがある。沖縄には洗骨のような習俗もあるが、普通は納骨してしまうとカロートを再び開けることはない。一面では大事にするが一面で冷淡、という面がある。

 葬式仏教というが、日本人には仏教の考え方とは根本的に異なる死者に対する考え方、祖師に対する考え方があり、柳田民俗学は仏教伝来以前の固有信仰にその本質があるといった。受けいれながらある部分を拒絶するという二重性があるのだ。

◆キリスト教における骨
聖遺物崇拝と遺体への悲観論が混在

 キリスト教というわれわれにとって異文化の宗教がどのような特徴を持っているか、われわれの宗教と対比して考えながら、骨をどう扱ったかみてみたい。

 キリスト教の根本は復活の思想にある。地上から救われた者はすべて天国に引き上げられる。魂だけでなく最後の審判を経て肉体も引き上げられるという考えがある。仏教とも日本の土着信仰とも違っている点だ。そこからキリスト教に独自な聖遺物信仰が出てくる。肉体は罪の棲家と考える。しかし、特別な聖者の体は清らかであり優れている。

中世の聖人の骨
豪華に飾られた中世の聖人の骨=ドイツ・ヘッセン州のフルダ大聖堂で

 復活の宗教は、われわれには分かりにくい。イエスはキリスト教の創立者で、仏教でいえばブッダだが、ブッダと本質的に違うのはどこか。イエスは神の子・キリストとして昇天し、なきがらはこの地上にはない。死んだのち、肉体がすべて天上に上がってしまったのはイエスのほかにマリアしかいない。二人だけが特別に昇天したのだ。その考えは仏教にはない。ブッダですら、死後は普通の人と同じように火葬して仏舎利が残った。

 普通、教祖の遺骸は大変な崇拝対象になる。しかし、イエスは肉体がないので対象がない。その代わり、イエスの弟子、聖者の遺骸が特別な力を持ったものとして崇拝される。神との仲介者であり、その人たちによって祈りが神に届き、その人たちによって祈りへのお返しがもたらされる。

 聖人の遺骸を入れた聖遺物匣は古代ローマ時代からある。イエスの十字架のかけらや釘、処刑に使った槍の穂先など、イエスが地上にいたときに関係していたというたくさんのものが崇拝対象になる。豪華に飾られた聖人の骨などが中世以来のカトリック教会には必ずあり、陳列される。骨が大変に聖なるもの、特別な宗教的力のあるものとして崇拝された。

 中世に入って、100年戦争やペストの流行などによりヨーロッパ世界がペシミスティックな気分に覆われると、人間の生は醜くてはかないものであり、この世は無常と見る考え方が流行する。墓石の上に死後の腐敗する姿を浮き彫りにするトランジという彫刻が造られる。この世の間にどのような栄光をえようとも、死ねばこのように朽ち果てる。現実を直視し真の信仰にめざめよ、と布教される。

『死の舞踏』の絵
16世紀頃のドイツの『死の舞踏』の絵

 死の舞踏という考えもはやった。人生ははかない。死を逃れることはできない。死を積極的にひきうけて死に向かう準備をする。そのために踊るという社会的現象があった。キリスト教世界の遺骸、死体、骨にまつわりついている大きなイメージだ。死を克服して、正しい信仰によって神のもとで永遠の生を得るという考えが述べられるが、現実には悲惨な実態からペシミスティックなものが存在していた。聖遺物崇拝と人間の肉体に対する悲観的見方が混在しているのが特徴だ。



◆仏教における骨
布教のシンボルになった仏舎利

 インドで起こったことで、仏教は火葬文化圏であるインドの文化、葬送習俗を本質的に持っている。

 ガンジス河畔で荼毘に付された遺骸が川に流される。インドではもっとも一般的な葬り方であり、日本のように墓をつくることはない。仏教の考え方も変わらない。ブッダは死んだ後、クシナガラの荼毘塚で荼毘に付されたといわれる。遺骸をどうしたらいいかと聞くと、ブッダはそのようなことは思い煩うことではない、俗人たちの望むように行えばよい、と遺言したといわれる。

インド・クシナガラの荼毘塚
インド・クシナガラの荼毘塚

 その結果葬式は俗人たちが行い、普通の死者と同じように荼毘に付された。しかし、遺骸は川に流されず、ストゥーパ(仏塔)といわれる安置施設に残された。仏塔が初期仏教では重要な信仰対象になった。仏塔信仰が仏教信仰の中心にあるとよくいわれる。日本に来ると、それは五重塔に対する信仰となる。

 五重塔はブッダの遺骨を納める施設だ。心柱の下は地中に入り込んでいて、そこに仏舎利を収めている。飛鳥時代など初期の日本仏教は仏舎利を大切にした。法隆寺の玉虫厨子にも仏舎利を礼拝している姿がある。ブッダの教えを広める重要なシンボルだった。

 仏教が入ってくると同時に入ってきた習俗として火葬がある。7世紀後半から大和朝廷の貴族たちが火葬を始めるようになった。古事記を書いた太安万侶の骨蔵器が20年ほど前にみつかっている。仏舎利信仰と火葬習俗が重なったものであり、平安時代以降きらびやかになっていく。中世になると、五輪塔形式の舎利容器に収められるようになる。ブッダの骨を収める容器が世俗の武士の墓になった。これが墓石のスタイルになった。

 遺骨を大切にする考え方が高まったが、一方で死体はけがらわしい、無残なものだという考えが中世に盛んになる。死んだ後、人間はどのような段階で骨になっていくのかを描いた「九相死絵巻」や「六道絵」など、キリスト教の「死の舞踏」の流行の時期と重なり合って、世界史的にも興味深い。

 そんな時代に来世往生が確約された人たちがいた。各宗の祖師たちだ。親鸞は、死んだあとは火葬して賀茂川に流し魚に食わしてほしいと遺言したが、立派な廟がつくられた。それが本願寺のもとになった。一遍の墓は藤沢の遊行寺にある。五輪塔がつくられた。日蓮は池上本門寺でなくなり荼毘に付された。日蓮の像には遺灰が塗り込められているという。えらい坊さんは、遺骸のよすがの絵像や木像がつくられる。遺灰、遺骨、つめなどが納められていることがよくある。これが祖師信仰の原型で、江戸時代以降になると、中世の祖師信仰が一般の人の先祖信仰に結びついていく。

◆日本人の祖先崇拝と骨
納骨習俗広がり庶民も崇拝対象へ

 日本化された祖先崇拝の中で骨はどう扱われたか。世俗の権力者が崇拝の対象になった。その代表は徳川家康だ。日光の東照宮に運ばれて奥の院に収められた。東照宮は聖地中の聖地として力をもった。近世的なあり方としての骨信仰は、各藩の大名にもある。仙台藩の瑞鳳殿には伊達の歴代藩主の廟がならぶ。政宗の遺骨は戦後調査され、独眼流といわれた痕跡が確認された。山形県新庄の大名、戸沢家の墓所には茅葺の廟があり歴代の藩主の墓石が納められ江戸時代のまま保存されている。

 江戸時代の藩主の祭り方は、墓所、廟として崇拝されるケースと神社のケースがある。廟には遺骸があるが神社にはない。いずれも藩主への忠誠を家臣に要求して藩を安泰に守ることを誓わせた。

五輪塔型納骨
福島県・会津の八葉寺にある五輪塔型納骨器

 遺骨信仰は、中世末から江戸時代には、祖師型、権力者型から一般人に及んでくる。すでに中世から高野聖が出て、納骨の習俗が各地に広がっていた。地方ごとに納骨の中心となるお寺が出来た。会津の八葉寺には、遺骨やつめ、髪を納めた木製五輪塔型の納骨器が残っている。庶民が釈迦にあやかって納めてもらうようになった。あらゆる人の遺骨が丁重に扱われ、崇拝されるべきだということになっていく。大阪の一心寺には骨仏がある。お釈迦様の像が遺骨を塗り固めて出来上がっている。自分の遺骨をお釈迦様の姿に一体化する気持ちがこうした行事に表れている。お寺の営業アイテムとなっているが、祖先崇拝の中で一般化した日本人の信仰の中で、お墓、遺骨がどういう風な役割、重要性をもっていたかの参考になる事例だ。

◆現代の日本社会と骨
遺骨なくても死者とつながる

 現在の骨をめぐる状況はどのように変化したのか。1985年の日航機墜落事故の遺族の死者供養の仕方などからみてみたい。

日航機墜落現場にたつ昇魂之碑
日航機墜落現場にたつ昇魂之碑

 8月12日は例年、遺族は1時間かけて御巣鷹山に登山して犠牲者の霊の供養をする。それぞれ墜落現場に卒塔婆が立つ。遺体を捜索したとき、どこにあったかが記録されている。全体を見下ろすところに昇魂之碑という中心的な施設がある。その後ろに、死者の名前を刻んだプレートが立つ。また、ふもとの上野村には慰霊の園という場所がある。事故のとき、遺体の損傷が激しかった。誰のものか判定できない遺骨が123個の骨壷に収め死者の名前を刻んだケースでは、ほかに沖縄の平和の礎もある。

 山の墓標は、墓埋法上の墓ではない。骨はない。しかし、みんなここが本当の墓だという気持ちをもってお参りする。本当の墓は、そこに遺骨があるかどうかなど現代のわれわれには関係ないのかも知れない。そこを注目したい。

 平和の礎でも、慰霊の日には碑の前にご馳走を持って家族が集まる。遺骨はないのに、伝統的な亀甲墓に家族が集まり飲食するやりかたが行われる。これは現代の特徴かも知れない。骨より死者の思い出やプレートの名前で結び合う。それが死者とのつながり方であり、現代の宗教感情の特徴といえる。

 樹木葬ということを岩手県・一関の寺が始めてある程度成功している。芝を植え遺骨を埋納した上に桜を植える桜葬墓地もある。葬送の自由をすすめる会の自然葬は、墓埋法の対象外でこれらと趣旨は違うが、新しい葬法という意味では共通している。

 自分の手元ですべて処理することを総称して手元供養という。ペンダントに遺骨の一部をぬりこんで身辺に置く。遺骨の一部を通してつながりを確保しようとする。

 死者とのつながりを常に持っていたいという感覚は、ペットとの関係でも必要とされる。ペットは家族の一員という感覚は、大きな意味をもっている。現代社会の特徴のひとつでもある。仏教では、人間と動物を根本的に違う存在だとは考えない。決定的な違いを認めないという感覚がある。キリスト教と違う。そこがペットの墓の流行とつながる。

 宮城県の鱒淵観音では戦前から馬の墓地があった。人間と同様、墓に葬る。東北地方では馬を大切にする。動物との強い関係が生んだことかもしれない。現代ではさらに進んで、人間と動物が同じ墓に入ると言う形式まで現われた。東京の町田市や埼玉県の白岡町には、withペット墓という墓地を備えた墓苑がある。

 骨をめぐる考え方が揺れ動いている時代だ。宗教と遺骨の関係が変わりつつある。伝統的墓観念、来世観と無縁の近代の家族のプライベート感情が影響していると思う。

 こんな風に、現代は、骨をめぐる観念や習俗の大きな転換期ではないかと思う。

(2005年9月25日、東京・文京区の後楽園会館で行われた講演の記録)

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なかむら・いくお(中村生雄) 1946年、静岡県生まれ。京都大学卒業後、法政大学大学院を修了。大阪大学教授を経て今年から学習院大学教授。『カミとヒトの精神史』(人文書院)『日本の神と王権』(法蔵館)『折口信夫の戦後天皇論』(同)等の著書がある。
中村さんは靖国問題について、『新しい追悼施設は必要か』(国際宗教研究所編、ぺりかん社)などで、「靖国神社が独占してした戦没者の追悼という国民全体の課題に対して、仏教の側が積極的に介入していったならば、現在の硬直した事態を少しは変えていけるのではないか」と宗教界に問いかけるなど、発言が注目されています。


再生 第59号 (2005.12)

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