(update_20080117_AKobayashi)
ページ担当:小林朗
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遺族の感想文_第1201回以後
801−1000
1201以後


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●第1312回・個人葬●

瞬間の別れにいろいろの言葉聞く

 初めての体験の自然葬は、お天気に恵まれ、得がたいものになりました。海の美しさ、刻々と変化する波の美しさ。祈りをささげ、海に流れた瞬間、つつみ紙が自然に開き、美しい姿を見せて海の中に還っていきました。その上を花びらが祝うがごとく……。

 感動しました。声なき声を聞いた思いです。中央に花びらはあつまり、いつまでもいつまでも心の触れ合いを感じました。突然の別れだっただけに、この瞬間の別れにはいろいろな言葉を聞くことのできた幸せを感じています。海の姿、波の変化。忘れることなく、私のこれからの人生に消えることのない幸せを感じています。

(山田早智子=故人の妻)


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●第1309回・個人葬●

思い出したコペンハーゲンの海

 亡き妻は、ヨーロッパ旅行が大好きで、2人で何度も行きました。ノルウェーやポーランド、チェコなどにも行くつもりでしたので、足腰を丈夫に保とうと、それまで同様2人で毎日5キロのウォーキングを続けていました。

 昨年3月末、妻は体調を崩し、入院すると腹膜がんが進行していて治療不可能といわれました。緩和ケア病棟に移され、その数日後の4月12日には息を引き取りました。

妻も私も有明海沿岸で生まれ育ったので、懐かしい島原湾に散骨することに決めました。今年4月26日、天草市松島町の桟橋から船に乗りました。風と波が少し強く、曇天でした。船は風上に向かって進みましたので波しぶきが強くて船室に引き上げました。以前、コペンハーゲンの港から妻と2人で高速船に乗ってスウェーデンのマルメまで行ったときも波しぶきが強く、当時が懐かしく思い出されました。

有明町から海に突き出た“高岩の鼻”の沖に浮かんだ無人島の黒島の近くで散骨のため停船すると、波しぶきは止まりました。室外に出ると、島原半島の懐かしい普賢岳はかすんで見えませんでした。船はかなり揺れていましたので、1分間の黙祷のときは足下がぐらついて、立っているのがやっとでした。花と一緒に遺灰を海に投げ入れると、遺灰は風に飛ばされて海の上に落ち、みるみるうちに海の底に消えてしまいました。

これで妻も故郷の海で永い眠りに着けたと思います。
(松下 徹=故人の夫)


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●第1306回・個人葬●

波音に心をあずけ伯母思う

 いつかこんな日が来る事はわかっていたはずなのに――。

運命と片付けるにはあまりに突然の悲報に言葉が出ず、伯父の落胆さを慰めるすべもなく、ただ葬儀を滞りなく過ごす事に精一杯だった。葬儀が終わり、伯父から伯母の生前からの希望であった自然葬を行う事を告げられ、海が好きだった伯母の想いを尊重する伯父の気持ちに一同賛成した。

 4月の網代沖の美空は青く、どことなく寂しくも感じたが、私達一行は、元気だった頃の伯母との思い出を昨日の事のように話し散骨した。花を海面に浮かべた時、庭で咲いていた花を前日伯父がガクから離したと聞き、40数年共に過ごしてきた日々の思いを花びら1枚1枚に込めたのだろうと思ったら、胸にこみあげるものを感じた。花びらが果てない波に浮かんでいる姿は、今にも消えそうでもあり咲きそうでもあった。船から港へ戻る時、別れをおしんでいる私達の頭上をどこからともなく一羽のかもめが翔び、いつでも暖かく太陽のような優しさで見えなくなるまで手を振って見送ってくれた伯母のように港へと送ってくれた。波音に心をあずける度に、雄大な自然へと旅立った伯母が私達の胸の内を温めてくれるのだと、そしておおらかな海にいつでも見守られているのだと感じる事ができた。

(森田夏生=故人の姪)


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●第1300回・個人葬●

寂しさ、間もなく安堵感へ

 3月30日、曇り。海面は少しうねりもありましたが、夫の遺骨は吸い込まれるように深い海へと潜っていきました。やがて、花びらの帯も波に揉まれて思い思いの方向へ散ってゆきました。数々の思いや、一抹の寂しさを感じた一瞬ですが、それは間もなく、安堵感へと変わっていきました。これで故人との約束を果すことができたという気持ちが大きかったのだと思います。

 他界するまでの数年間は、ほとんど闘病生活で、病床で夫は自分の死後のことなどもいつも考え、私とも話を時々しておりました。誰しもが死後はお墓へ入るのは当たり前のこととして捉え、私達もそうでした。以前から墓地の準備もしておりました。そんなある時、この会のあることを知り入会してみようということになったのです。何回か会報を読ませていただいているうちに、会の主旨や自然葬の意義に心を動かされ、夫は「その時は海へ」と言うようになり、大好きだった富士山の見える駿河湾への散骨を、約束致しました。

 夫の死。更にそれから1年余りの月が過ぎ、遺骨を海へ送る日が来ました。物事を習慣通り行わず、まだ世間ではあまり馴染みのない自然葬にはそれなりの勇気と決断を要しましたが、周囲の理解を得て故人との約束を果たすことができました。私共は先祖のお墓を守っていく立場にはなく、2人の娘も、それぞれ嫁ぎ継承者もないので、この選択肢以上のものはないと清々しい気持ちで一杯です。

 地球を海を墓として、今頃は深海の魚達とたわむれているのか、それとも大好きな富士山を眺めながら浪まかせの気儘な旅にも出たかなどと、在りし日の故人と重ね合わせ思いを馳せています。

(鈴木宣子=故人の妻)


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●第1299回・個人葬●

念願の下関で果たした自然葬

 私共は海外転勤をのぞき、30幾年住みなれた東京を離れ、故人が好きだった関門海峡に面した下関に引越して参りました。海を好み、魚を好み、念願の下関でございましたが、引越して来て3年目のあっという間の急逝でございました。本人もこんなに早く亡くなるとは思っていなかったと考えます。

 3月29日は好天に恵まれ大変幸せでしたが、風が強く船が波にゆられ私にとっては恐い思いをしました。船は、「まんじゅ」と云う観光船で、きれいな船でした。散骨とともに がくから切り離した花は船の廻りを取りかこみ、陽光に輝いて、銀河のようにきれいでした。立会人の方が「これでよかったのでしょうか」と聞かれましたが故人のたっての意志でございましたので、本人も安心して満足した事と思います。また、自然葬実施証明書を頂きまして 永久に故人の記念として保存させて頂きます。

(北之園満恵=故人の妻)


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●第1296回・個人葬●

明るく陽気だった妻にふさわしい

3月22日は亡き妻映子の散骨日であった。この日を含めて誕生日、結婚記念日および命日は映子についての忘れ難い日々である。散骨は親族、友人など11名が参加し横浜沖で行われた。さいわい晴天に恵まれ、多少波が高かったがおだやかな海であり、船酔いする者もいなかった。散骨点に着いて参加者から海に投じられた遺骨は海面に散らばって浮遊し、やがて海中に沈んでいった。一緒に投じられたバラの赤い花びらは海面に浮かび、やがて波にゆられて海上をただよっているのが見えた。実に明るく、開放的で陽気だった映子にふさわしい別れであった。涙を見せる参加者はなく、むしろ爽快感が残ったように感じた。

 海に消えた遺骨は自然にかえり、新しい命を育くむ糧となることであろう。自然葬で映子を見送る事ができて本当に良かったと思う。これを可能にした会に感謝したい。

(近藤保=故人の夫)


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●第1295回・個人葬●

 お世話になりました

 会のみなさまには本当にお世話になりました。

 昨年、弟が亡くなりました。死んだら宮古島に散骨をして欲しいといっていました。本人の遺言と一緒に、高まる散骨への関心を伝える新聞の切り抜きと宮古島の観光案内が入っていました。それからあちこち調べて会にめぐり合いました。東京に事務局があるのでいろいろ不便ではないかと心配しました。でも会の方と電話したり手紙をもらったりしてスムーズにいきました。ありがとうございました。

(小玉富子=故人の姉) 


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●第1294回・個人葬●

父との約束が果たせた

3月16日、江田島沖で亡父の自然葬をとり行うことが出来ました。よいお天気で、海も静か。共にまいたバラの花びらが海面にいつまでも漂い、父の墓標のように思えました。生前より父に頼まれていた散骨を、父が望んでいた海域で行え、家族一同大きな約束が果たせた思いです。実家から遠く離れて生活している弟と私にとっては、海を見れば、そこに通じる同じ海に眠る父を想うことが出来、幸せです。

 「千の風になって」という歌のように、父がいつも共に居る、見守っていてくれると素直に思えるのも、父が長い間仕事の場にしてきた海、多くの戦友が眠る海に戻って行ったからかもしれません。父と、一番仲の良かった伯母(父の妹)と、たて続けに愛する人々失った母が「ほっとした」と言ってくれたことが、私にとって大きな救いです。

(福田敬子=故人の娘)

                     ◇

 故山下淳氏は、旧海軍士官で終戦の直前に呉港に停泊中の軍艦に乗り組んでいて米軍機の空襲を受け漂流した経験を持っていた。亡くなった戦友をしのび、遺灰は呉港に撒くよう希望していた。

 遺族は全部で13名で、伯方島から回航してきた「伯龍丸」には、中国新聞の記者や広島大学大学院の韓国人研究生、李美愛氏も乗船した。良好な天気で、潮流も止まって、花びらは流した位置にいつまでも漂っていた。                  (中国支部長・山崎俊二・記)


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●第1293回・特別合同葬●

祖先の12体を自然の中へ

葬送の会に加入して約15年。快晴の横須賀、三笠公園の港から「シーフレンド号」に息子・娘を伴い約30分、観音崎灯台沖に出ました。

 「千の風になって」の歌詞を思い浮かべながら、本家・分家の祖先の遺骨12体を、花と共に念仏を唱えつつ、広い大自然に還へさせて頂きました。係りの方々に色々ご指導を頂き、とどこおりなく、終える事が出来ました事、厚くお礼申し上げます。

 会長の著書、「やっぱりお墓にはいりますか」を読ませて頂いて、遠からず私共もお側に参る身、ご先祖は家の仏壇で、香華を手向け、手を合わせる日々で御座います。

(佐藤鶴次郎=遺灰の子孫)


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●第1293回・特別合同葬●

遺灰は7つの海へ散ったと思う

梅の花が満開の3月15日、三笠公園から観音崎沖に出港、夫の希望通りに散骨できました。

 青い海というのは少し無理かと存じますが、ゆったりした波(浪)に、皆で投じた花びらが花?になり、そのまわりを汽笛をならしながら船でゆっくりまわり見送りました。夫は船乗りで世界をめぐって居りましたので遺骨も7つの海へ散って行ったかと思われます。

(金子彩子=故人の妻)


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●第1293回・特別合同自然葬●

約束通り2人を海に

春の訪れを感じさせる穏やかな好天に恵まれた3月15日、濱田忠男、康子夫妻の自然葬に遺言執行人として立ち会いました。濱田夫妻は昨年、私どもに荼毘の手配から、どちらか1人残されたときは病院の身元引受人、荼毘、公共料金精算、公団の退去手続きなど一切を依頼されました。12月に忠男さんが亡くなり、看病疲れから今年2月に康子さんも亡くなりました。あっという間のことで少し混乱しましたが、約束どおりやらなければならないことはひとつずつクリアーし、最後に希望通り2人の遺骨を海に還すことができ安堵しています。

                                   (木霊と凪 吉澤武虎)


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●第1293回・特別合同葬●

人生で一番いいお葬式

小学生の時、祖父が亡くなった。近所中が集まって、それはそれは楽しそうに芋の煮っころがしなんかをつくり始めた。祖母も母も大忙し。私はお腹の中で怒っていた。「みんな、おじいちゃんのそばで泣いていればいいのよ!」

ごはんを山盛りにしてお箸をつき立てる、脳髄までしびれるわけのわからないお経。すべて変だと思った。納得が行かなかった。以来何10年、この手の葬儀をやめる方法はないものかと思い続けていた。そして自然葬を知り、知った途端に入会させていただいたのでした。

沖へ出た船から、水に溶ける袋に入れた夫の粉状のお骨(これは会からの紹介で、やっていただく。非常に良心的にやってくださった)を、海中に入れ、そのあと花びらを撒き、全員が終わったあとそのまわりを3周して汽笛を鳴らしてお別れ。何というさわやかさ! 今までの人生で一番良いお葬式だった。喪服なしというのもいい。私の時もこうしてね、と娘達に頼んだのは勿論のことです。

(色川真知子=故人の妻)


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●第1292回・個人葬●

風にのり、白い帯となって舞った父

 1月26日、上総亀山再生の森で1292回、2239人目になる父の自然葬を行いました。本人の生前からの希望であり、家族も賛同していました。しかし、実際にどのようにすすめていったらいいかまったくわかりませんでした。そんな折、インターネットでこの会の存在を知り、具体的な方法など教えていただくことができ、安心して行うことができました。遺骨の粉末化についても業者を紹介していただき、きれいな海の砂のようにすることができました。

父は退職後20年以上、野草研究家として山野を歩いていました。私たちは、そんな父の好きな山を散灰の場所として選びました。亀山は20年前に家族旅行で訪れたことのある地でした。亀山湖は、以前と変わらず、満々と水を湛え、穏やかに私たちを迎え入れてくれました。自然葬の場所は、道路の舗装も切れ、冬場は人が訪れることもないような山奥にありました。車から降りて、林の中を10メートルほど入ると、南に面した急峻な斜面の上に小さな広場がありました。冬枯れた山は、穏やかな日和のせいか清々しく神聖な印象さえ受けました。

家族で遺灰を谷に向けてまくと、細かな灰が風にのり、白い帯となって舞っていきました。空を見上げると、傍らにイヌシデの木が、青々とした蔦をからませて立っていました。その姿は、大きく枝を広げて私たちを見守っている父のように感じられました。また、父の亡くなった11月に、美しい紅葉とイヌシデの木に会いに行きたいと思います。

(石島 芳枝=故人の長女)


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第1289回・個人葬●

粉骨にするときには抵抗感

 私たち夫婦は子供がいないこともあり、墓は作らない、夫は海へ、私は海が怖いので山へ、と2人で決めていました。こんなに早く散骨をすることになるなんて思ってもみない事でした。夫は肺がんで検査入院からわずか4ヶ月で帰らぬ人となりました。

 お別れの会は、兄姉・甥・親しい友人のみで行い、散骨の日もほぼ同じメンバーが41名集まり、好きだったそば(そば粉)、中国のプーアール茶、日本茶・焼酎などをたっぷりいただきながら海に還っていきました。夫は小さい頃、海にもぐってサザエやアワビを獲っていました。今は、わかめの養殖の時期などで、大好きな生わかめを肴に一杯やっているかもしれないなと思ったりしています。

 散骨に至るまでの過程で感じたことは、“自然葬というものの、遺骨を粉骨にしなくてはいけないというのは自然ではない”ということです。私は山へ、と願っていましたが、夫がいない今では、誰に粉骨にしてもらうか。それを思うと考えてしまいます。火葬にして、そのまま自然に還ったほうがいいのでは……。そのままであることが、本当の意味で自然といえるのではないかと、そんな気がしています。

 海へ散骨を、という夫の思いを実現するにあたって、葬送の自由をすすめる会の方々がとても親切に対応してくださり、当日も安心して散骨すすることができました。

(山西玉美=故人の妻)


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●第1288回・特別合同葬●

自分で会を探し自然葬を願った夫

12月1日に観音崎沖にて無事、散骨を済ませることができました。

 夫は生前より、お墓には入りたくないので海へ散骨して欲しいと申しておりましたが、私は、そんなことは親戚が反対するでしょうし、私も出来ないと思っておりました。でも、自分で葬送の自由をすすめる会を探し、申込書を取り寄せ、遺言で希望をのべておりましたので周囲の者も納得し、今回の運びとなりました。

 夫は今年の春頃から体調をくずし、夏の猛暑がそれに拍車をかけ、老齢であることも伴って衰弱が著しくずい分苦しみました。傍らで看護しながらどうする術もなく、辛い毎日でした。でも10月1日に息を引き取る時は、安らかな表情であったことは救いでした。

 よく晴れた空の下、観音崎沖に船が進み、泊まったところで1名づつ遺灰を海に入れ、お花をまき、ふと空を見上げると夫が亡くなる前の苦しみなど凡て大空に散らして、軽やかに自由に大空にはばたいて「ママありがとう」と言っているように思いました。

 これでよかったのだ……。あの墓の暗い土の中でなく、夫は希望通り、自由にはばたいて天へ昇って行ったのだと思いました。

 娘と2人で参りましたが、娘もそのような思いであった様子でした。

(山崎和加子=故人の妻)


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●第1288回・特別合同葬●

陽光降りそそぐ穏やかな海にホッと……

 12月1日、初冬とは思えない暖かな日に15の御家族と合同の自然葬を観音崎沖にてとり行いました。

 病に倒れ、術後は順調に回復、明日退院そして歩行訓練、と告げられ安心していた矢先に誰にも看取られず突然の別れでした。それから12年余り、遺骨を側に置いていましたが生前「海を見ると心が落着く」と言っていた言葉が頭を離れず、この度海へ還す事にした次第です。

 散骨が始まると同時に今まで以上に太陽がふりそそぎ穏やかな海へ還る事を嬉んでいる様に感じ体の力がぬけホッとしました。私も最後は同じ海へ還る事を願っています。

(嶋方京子=故人の妻)


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●第1288回・特別合同葬●

心のこもった別れに満足

 12月1日観音崎沖に母と妹を送りました。出船時曇りだった天気、散骨時には冬の陽が射してきました。静かな波の音、カモメの飛ぶ中、簡素で心のこもったお別れが出来ました。

 会に申し込んでから、妹と進めた準備も環境を考えてどれも必要最小限の事で、ひとつひとつ納得しながら行うことが出来ました。会のボランティアの方々が、さりげなく手助けして下さって感謝しています。こんなに満足した別れが出来とても幸いです。自然葬を選んでとても良かったと思いました。

(中里光永=故人の娘・姉)


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●第1285回・個人葬●

故郷の海に還った父

 父は満80歳で痴呆の症状が出始めました。母の介護が無理になり、老人施設に入所してからも生まれ故郷の瀬戸内海の話をすると、「ウン、ウン」とうなずいておりました。昨年の4月に91歳で亡くなった直後、母を含め2人の姉弟と孫達も「葬儀は身内だけで」「お骨は墓は作らず散骨する」ということでスンナリ意見は一致しました。

 母が随分以前から自分はお墓は要らないとの考えで、「葬送の自由をすすめる会」の会員でしたのでさっそく資料を送っていただき、父の生家のあった島のすぐ近くでの散骨が可能とわかりました。具体的な話が進行してくると思いがけない親戚からの反対も飛び出して一時は実施も危ぶまれました。幸いにも会の担当の方や現地中国支部の関係者のご尽力により11月の末、好天の穏やかな瀬戸内海で無事父を見送ることができました。

 高齢の母を含め2人の子供、各々の連れ合い、両家3人ずつ6人の孫の総勢11名で乗船し瀬戸内海「しまなみ海道」の橋をくぐってのクルージング、透き通った海の中に吸い込まれていったキラキラ光る宝石のような父のお骨の欠片、いつまでもクルクルと渦を描いて流れていた赤や白の花びら、どれも家族の心の中に深い思い出となって残ることでしょう。最後のお別れに海の男達の葬送にならって、船長さんが散骨場所を3回旋回し、汽笛を3回ならして下さった時は思わずこみ上げる涙を抑え切れませんでした。

 幼少時海軍士官になるのが夢だった父、どんなに貧しい時も毎年夏の海だけは家族を連れて行ってくれた父。広い海の中を2人の子供を背中に乗せたまま何処までも泳いで行ってくれた父。その様な沢山の思い出が一杯詰まった美しい海に父を還してあげて本当に良かったと思います。

(渡辺啓子=故人の長女)


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●第1284回・特別合同葬●

兄たちとの約束を果たせた

 兄夫婦には子供がなく、7年前に兄が亡くなってから時々義姉を訪ねると「2人一緒に散骨してね」と言われ、「うん、いいよ」と返事をしながら、そのことが重く心にかかっていました。

 当日は少し波が荒く、私は船室でなるべく外を見ないようにしながらその時を待ちました。鐘がなり、とうとうその時が来ました。兄が好きだったビール、義姉にはジュース、そして花ビラをまきました。「兄さん、義姉さんサヨナラ若し別の世界があるとしたらそこで幸せになってね」と私は心で思いました。

私は今ホッとしています。約束を果すことが出来たのです。これも偏に会のお陰と感謝しております。兄達の思い出とともにいつまでも忘れることはありません。

(野津冨久子=故人の妹)


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●第1283回・個人葬●

何はともあれいまはホッとした

 前日の激しい雨が嘘のようにあがり、秋の美しい晴天の日となりました。

 想像していた山ではなく、里山というより広い庭山といった風情の梅や桜の古木に囲まれたところで、安心しました。母は花、花木が好きでした。

このたび、献体、散骨をみな諸手を挙げて賛成したわけではありません。母が望んだので尊重しました。遺体が帰ってくるまで長かった為、その間に母の妹は足腰が弱り動けない状態となって、散骨に参加することは叶いませんでした。それが残念です。

何はともあれ、いまはホッとしています。

(奥山美枝子=故人の長女)


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●第1276回・個人葬●

横須賀の港祭りに送られて

10月21日、日曜日のとてもよい秋晴れに恵まれて、無事に観音崎沖で主人の自然葬を営むことができました。横須賀の町はちょうど港祭りでにぎやかで、主人にとてもふさわしい日となっていました。自然葬は主人の希望であり何人もの友人にその話をしていたので、親族の間でも何ひとつもめることなく、21名の方々に見守られて行うことができました。参加された人は皆初めての経験だったのですが、とても厳粛で感動した、といっていました。自分も自然葬にしたいという人もおられました。

生前、主人は墓のしたは狭くて暗いし、あんな所に閉じ込められるのは真っ平だ、といっておりました。宗派によっていろいろなことがお金に左右されることもいやがっており、死んだときぐらい平等でありたいといっておりました。私も主人とまったく同じ考えなので、主人と同じ海に散骨してもらえるよう書き残しておこうと思っています。

私の父も江ノ島の海にて行いましたが、今回もまた改めて、本当に自然に還るのだとつくづく感動しました。

(大平鈴子=故人の妻)


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●第1263回・個人葬●

季節ごとに思い出すだろう

 9月23日夫の散骨を無事終わらせる事が出来ました。山育ちの山が大好きな夫でした。

生前から「自分の葬送ノート」を書き残しており家族も故人の意志を尊重し行う事が出来ました。甲府再生の森は想像していた以上に見晴らしの良い自然がいっぱいの明るい中で鳥の声や虫の声に囲まれ安らかに眠れる事でしょう。孫達と一緒に思い出を語らいながら心をこめてお骨を砕き楽しく晴れやかな気持ちになり散骨する事が出来ました。

 自然に帰り木、花、土、風となった故人の心に孫達の笑い声が響き渡る、と信じております。立会いの高橋様に「千の風になって」の詩の朗読を頂きました。残された者は季節の移りに伴い思い出す事でしょう。私もいずれ同じ場所に散骨と心に決めました。

(匿名希望=故人の妻)


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●1257回・個人葬●

4人で語り合えるように

 前夜から気になっていた強風も大分おさまり、協会立会人、船会社の方の御指示のもと無事とり行うことが出来ました。

 今回母の遺灰を姉弟達で大海原に送ることで、8年前から待っていた(第307回)父、弟孫娘と4人揃って静かな海で語り合える時が訪れ、遺族の胸に万感の思いがこみあげて来ました。「良かったね」と心のうちで何度も繰り返しました。

 いつまでも心に残る葬送でした。

(原澤千榮子=故人の長女)


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●1254回・個人葬●

花びらが夫のように思えた

 9月9日、土佐沖の海は台風の影響もなくおだやかでした。

湾内には何艘もの釣り船が出ていました。

 夫も釣りが好きで、こんな日の日曜日は朝早くから出かけていました。

 「どうして釣りじゃないの。どうして私の膝の上でこんなに小さくなってるの」 私は心の中でつぶやきながら、泣いていました。

 30分ほどして、船長さんが、このあたりでどうか、希望のところがあればと尋ねて下さったが、「ここで」と小さな声で答え、船のエンジンが止められました。

 私と娘と2人の息子、そして、私の兄の5人の手で、夫は土佐の海に還って行きました。

 それから、花びらと酒好きの夫のためにお酒やビールを撒きました。

 「お父さん、これだけあったら足りるよね」と声をかけながら……。

 船がその場をゆっくり3回旋回する間、海面に浮かぶ花びらは夫の様に思えました。

 無事、散骨することができ、ひとつ肩の荷を下ろしました。

 いつか、私自身も夫が還ったあの場所で自然に還りたいと思います。

(大山佐智子=故人の妻)


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●1253回・特別合同葬●

青少年期の海に還った夫

 関東地方を通過した台風9号の影響で波が高く心配でなりませんでしたが、予定していた船から安定した船に変更して下さり、安心して散骨出来ました。

 台風一過、よく晴れ渡り暑くて暑くて小蔭を捜すほどでした。夫は常日頃、「戒名はいらぬ、骨は海に」と申して居りました。息子達、娘達の耳にも届いていてスムーズに散骨と言う方向に家族が動いてくれました。故人の大好物だったお酒とワインで見送りました。

 奇しくも夫の少年期から成年期にかけ過ごした横須賀・鎌倉の海に愛されし母と共に帰ることが出来、さぞ喜んでいることと思っております。

 手元に少しの遺灰をのこし、この世に生を受けることのなかった娘達の遺灰と一緒にし、私の亡きあと再び海に、と息子達にお願いを致しました。

(小林桂子=故人の妻)


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●第1246回・個人葬●

木下さんの記事で会を知った

 猛暑の続く8月21日、横浜の海に夫の散骨をしました。出港後約40分の所で、親族9名と友人3名が祈りと共に遺灰を投げ入れ、色とりどりの花を撒きました。晩年に好んでいたワインも注ぎました。花の周りを船が旋回し、汽笛が鳴りました。かもめが一羽いつまでも花の上を飛んでいるのが見えました。船の揺れがひどくそれ以上進めなかったようです。ともかくも自然の大きな営みの中へ夫を還してほっと安堵しました。

 自在に生きて、こよなく仕事を愛し、酒と旅を大いに楽しんだ夫でした。自然葬はふさわしいものだったと思います。沢村貞子さんの海への散骨のニュースに、2人で共感したことも思い出します。また夫の死後数ヶ月経った昨秋、木下順二さんへの惜別の新聞記事で「葬送の自由をすすめる会」の存在を知ることになりました。「夕鶴」や「子午線の祀り」

など木下作品、舞台を長年2人で見てきました。「自由に生きてきた…から、死後も自由でありたい」という考えは、ほんとうに木下順二さんらしいものでした。

(和仁てる子=故人の妻)


(20071201_ss67p23_SKawaguti)

●第1245回・個人葬●

「千の風」を歌いながら

 この度は、会の皆様にお世話になり、無事に伯母と伯父の散骨を済ませる事が出来ました。大変感謝致しております。

 生前、甥である主人を信頼して、遺言書を作成するに当たり、子供がいなかった伯母が一番に望んだのは、「自分の遺骨は、亡き夫の遺骨と共に小田原沖へ散骨して欲しい」という事でした。

 3月29日、満開の桜に見送られるように亡くなってから、私達は「散骨」という未知の課題に取組む事になりました。既に埋葬されている伯父の遺骨を霊園から戻す際に、改葬担当の方から「散骨は違法です!」と言われたときには「そんなはずは無い?」と疑問だらけでした。とても強く威圧され、「それではせめて分骨で」と引き下がったのですが、不思議な経緯で全部の遺骨を戻してもらう事になりました。

 そして、「自然葬」というキーワードから、この会に辿り着きました。

 「真夏の小田原の海へ、夫婦で仲良く還っていった伯父さんと伯母さん、これで良かったのでしょうか?至らなくてごめんなさい。ありがとうございました。」

 散骨の後、青空を見上げながら「千の風になって」を繰り返し歌いました。

(川口幸子=故人の姪)


(20071201_ss67p23_RKawamura)

●第1237回・個人葬●

「千の風」に背中をおされて……

 8月5日に、松島湾沖にて母の散骨をさせて頂きました。一周忌を前にして、母の意志を叶え、散骨し、自然に還っていく道筋をつけてあげられたことにホッとした気持ちでいます。

 母は、自分自身では、親や先祖をまつるために、墓を作り、守ることに非常に尽力しておりました。精神的にも、労力や金銭的な面でも莫大な負担だったと思います。そのためか、母は「自分のためだけには墓はいらないから散骨してほしい」と申しておりました。そう言われた時はまだまだ先のこととして受けとめられずにおりました。しかし、昨年突然母に逝かれ、考えざるを得ない状況になりました。途方にくれる状況のなかこの会の存在を知りました。散骨は、お墓があるのが当然という現在の状況では、なかなか理解されにくいと思います。周囲は反対しないまでも、理解しにくいなあ、とうけとめるのが大勢でした。「本人の遺志」だからというのと、「千の風になって」の歌のブームが、背中をおしてくれました。愛する親や家族を失った悲しみは立派な墓をたてたからといって癒されるものではないでしょう。それよりも、大きな海原を眺め、母の深い愛に涙し、残された家族と故人を語ることの方がよほど「悼む」という行為に相応しいものがあるように思えます。

(川村理佳=故人の長女)


(20071201_ss67p23_MBeppu)

●第1232回・個人葬●

前から決まっていた祖父の海

 私の祖父は2年前の、6月7日に日付が変わった頃に亡くなった。その日の夕方、見舞いに行ったときに「小遣いだ」と言って渡されたお金がそのまま形見になった。父方の祖父は私が生まれる前に亡くなっており、私にとっての「おじいちゃん」は母方の祖父だけだった。

 祖父が体調を崩した頃、もし死んだらどうするのかという話を聞いた。祖父が墓に入ることを望まない、と知ったのはその時だ。祖父は言っていた。海に骨をまいてくれ、と。

 祖父は海のある場所で生まれ育った。その海に骨をまこう、というのは、祖父が亡くなる前から決まっていたような気がする。祖父の話を聞いていた祖母が、自然葬送に関する様々な資料を集めていたのだ。

 献体に出されて戻ってくるのに1年と半分。叔父一家と私たちが集まったのは7月の終わり。日差しの強い暑い日だった。

 海は静かだった。波は高くなく、穏やか。私たちは海に出る前に写真を撮った。祖父と一緒に。海を背中に。

 祖父の砕かれた骨が、粉状になって紙に包まれていた。私たちはそれを一つずつ手に取り、海へ投げた。花をたむけ、酒を撒いた。

(別府美奈子=故人の孫)


(20071201_ss67p23_THara)

●第1231回・個人葬●

今こそあなたは自由な存在に

 亡妻留女子は2年前の乳がんが肝臓に転移し、平成19年5月31日未明3時に旅立ちました。享年56歳でした。遺言により7月22日、西多摩再生の森で散骨式を行いました。

 脱皮した蝶のように

 今こそあなたは自由な存在となったのだ

 風に乗って せせらぎに乗って

 朝の光となって両神山の頂上から

 大海原を渡りあなたは飛んでいく

 ミレーの種撒く人のようにボクたちは撒く

 大地に撒かれた あなたから

 草が生え、樹が育ち、小鳥が生まれる

 梢を揺らすざわめき

 小鳥の囀りとなったあなたは

 ボクたちに新しい命を吹き込んでくれる

 そう ボクたちはいつでも一緒なんだ

 あなたは立派にやり通しましたよね

 縁をいただいた周囲の方々にお別れの手紙を書き、それぞれの人にできるかぎりの心遣いを果たし、1日が1週間のように感じると語っていたあなた ありがとう。 

 もう1度――ありがとう。

 つつがなく自然葬を実現してくれた葬送の自由をすすめる会に心から感謝します。

(原輝=故人の夫)


(20071201_ss67p23_TIwahasi)

●第1228回・個人葬●

花びらが忘れられない

 7月19日、房総半島、野島崎へ船で夫と長女の遺灰といっしょに行きました。乗り物酔いしやすい私は船べりにつかまり、船のつくる大きな波と海原を見ていると、遠い昔、若かった夫と娘達とで函館の大森浜で泳いだ時を思い出しました。このような波で喚声をあげながら皆で波乗りをしたことを。

 我にかえると、散骨した時にいっしょに撒いた花びらが、ほおずきの橙色の実が、波に寄せられて私の目の前にきました。それはとても美しく一生忘れられないこととなりました。

(岩橋照子=故人の妻・母)


(20071201_ss67p22_EBandou)

●第1228回・個人葬●

海には鳥や魚やクジラがいる

 この度は3年前に病死しました姉と共に、去る5月30日に87歳で亡くなった父を海に還しました。

 散骨は生前姉が家族との食卓の席で言っていました。父は姉といっしょにと言っていましたが、子としては父が亡くなるまで棚上げしていました。いざ実行しなければならなくなった時、インターネットで、キーワードに「散骨」「海」等入力して捜しました。たくさん出てくる商業ベースのところは気が進みません。ところが非営利で散骨を行っている団体が見つかりました。父の亡くなった3日後には直接東京の事務所へお伺いしました。散骨に抵抗感のある人の心情を思いやって活動されていること、目立つようなハデな葬送をしない点に納得し、会員になりました。早く散骨があたりまえのこととして受け入れられる日がくることを願います。

 私はバードウォッチャーなので気がつきましたが、この日はオオミズナギドリと言う海鳥が数百羽飛んでいました。海には四季を通じ、夏鳥・冬鳥、春と秋の渡り鳥と飛びかいます。さらに海の中では魚やイルカ、クジラがいて、少しもさみしくありません。行なって良かったです。

(坂東英利子=故人の次女、妹)


(20070601_ss66p19_MEguchi)
●第1235回・個人葬●

自然葬の前、お骨と2度の旅

 自然葬に注目していた私は、息子が県外で生活しており会うのもままならず、いつ話をきり出そうか思案にくれておりました。息子が帰郷した折、勇気を出してきり出してみました。息子たちは散骨のことを知っていて迷わず合意できて、平成15年1月10日入会の手続きをしてくれました。

 私達は広島での自然葬を語る会には2回参加させて頂きました。3回目(平成17年4月17日)出席するため、列車の切符を用意しましたが、主人の身体の不調で残念ながら取りやめました。中国支部の山崎俊二さんにお会いしお話を聞くことを楽しみに、その日を待っていましたのに。その後快方に向かい、今までのように海外旅行は出来なかったのですが、小旅行は実現できました。みんな安心し、大変喜んでいました。が昨年12月、急に入院し2日目に永遠の眠りにつきました。

 広島の会は心残りだったと思います。自然葬の前に2回お骨を持って旅にでました。今までホテルでは、一杯を美味しく、寛いでいる主人の姿がありました。この度も、お骨の前でお膳を用意し、お酌をし、色々思い出し、かえって辛くなりました。子供や孫が、散骨を玉野市の沖に選んだことをとても喜んでおります。一番喜んでいるのは、亡くなった主人と思います。

(江口三枝=故人の妻)

 この感想文は、7月29日、岡山県玉野市の宇野港沖で行われた江口弘二氏の自然葬の際、妻の三枝さんが事前に書いて立会いの山崎俊二・中国支部長に託したものです。


(20070601_ss66p19_JTakano)

●第1234回・個人葬●

波間から「じゃあね」と笑顔の母

  天候に恵まれ、その日家族に囲まれた母は観音崎沖の海に還りました。散骨をしてほしいという母の思い通り、その思いを叶えることができてよかった、という気持ちでいっぱいです。

 病気に立ち向かい、前向きに生きた母。残された私たちに、どのように人生の幕を引くか鮮やかに示して、さっそうと旅立っていきました。美しい花びらが漂う波間に、「じゃあね」と母が笑顔で手を振ったような気がして、じっと波を見つめていました。

 梅雨の晴れ間、風を切って帰る船上にさわやかな風が流れ、心も穏やかに「母さんよかったね」と語りかけました。去年3月、母の弟である叔父もこの観音崎沖に散骨いたしまた。いまごろ、仲良く旅をしていることでしょう。

(高野淳子=故人の次女)


(20070601_ss66p19_KItou)

● 第1230回・個人葬●

「悲愴」を聞きながら熱いもの

  五年前に亡くなって、海への散骨を望んで果たせなかった主人の葬送の自由をすすめる会の申込用紙(1997年)をみて、息子と計り継承する者のいない成田の墓地をとじて主人の母と共に散骨をすることにいたしました。

 船は野島崎をあとに沖へ沖へと進みます。小さく見えた灯台も視野に入らなくなったころ、立ち会って下さった会の立会いの人の祖慶雅子さんにうながされ散骨いたしました。

主人には好きだったチャイコフスキーの「悲愴」をながし、祖母には白い菊の花を波に浮かべて見送りました。

 悲愴の曲に耳をかたむけながら「これでよかったのかしら」なぜか熱いものが込みあげました。思い返し生きているものはすべて海から生まれてきたときいております。主人も暗いお墓の下の仮の住処を出て自然の広い海に還りたかったのだと思います。因みに主人の墓の墓碑銘は「還」の一文字でした。

   碧き海 永久の住処と ねむれかし              合掌

(伊藤キワ=故人の妻)


(20070601_ss66p18_HYuko)

●第1226回・小樽沖特別合同葬●

あらゆる感情を受け入れた海

  あっという間に、あっけなく、白い包みは海の底へと深く沈んでいった。感動の言葉や気持ちもなく、ただ投げ込まれた包みを次から次へと見ていた。

 そんなものなんだろうか?

 こんなものなんだろうか?

 揺れる船の中で、遠くの山々を眺めては深呼吸ばかりしている自分がいる。私の中で何度も繰り返される言葉、「約束は果たしたからね!」今日のこの日まで様々な思いを秘めてきた事、何度も本当にこれで良いのか!、と自問自答しながら骨を粉にした事もすでに思い出。この小樽で全て終わったのだという思いと、私たちを縛り付けるものなど何もない事を。 

 人のあらゆる感情を海がその懐を広げ、飲み込んで行ってくれた。ありがとう、心から感謝。

(畠山優子=故人の長女)


(20070601_ss66p18_YAbe)

●第1226回・小樽沖特別合同葬●

「えんかま」にはまった姿想像

 台風接近を感じさせない、静かな海でした。小樽に生まれ、育ち、水産高校を卒業した故人の、「死んだら海に捨てて欲しい」と望んだままに、海に送ること出来たこと、良かったと思っています。

 遺灰を海に還し、船がその周りを回り始め、波しぶきが降り、波の上の花の渦をみたとき、今、えんかま(海の底の渦巻いて吸いこんでいる所)にはまりながら、嬉んで泳いでいると想像していました。

 骨は私ひとりで粉にしました。版画家の棟方志功が、奥様の亡くなられたとき、柩の蓋を石で打ちつけながら「なばへんかするの、これがさいごだ」と言ったと。私もと、でも言えませんでした。ごめん、ごめんなさい、としか。ホスピスに送らねばならなかったときのことなど。考えながら、2人きりの最後の時間、私の手で粉になってくれ、海に還せてあげられて、本当にありがとうございました。

(安倍泰子=故人の妻)


(20070601_ss66p18_KOyama)

●第1226回・小樽沖特別合同葬

車を止めて聞いた「千の風」

 今回、亡夫の意志を継いで入会できました事を嬉しく思います。

 亡き夫は、自分の死をわかっていたかのように、葬儀は身近な兄弟姉妹で家でしてほしい、骨は自然に返してくれるように、と書き止めてありました。

 定年後三年で人生の幕をおろしました。宗教の話しをよくしてくれ、海の上、空から見ているよと話していましたから、初めて「千の風になって」の歌を聞いた時、車の運転を止めて聞きました。亡夫の言っていた事と同じで驚きました。

 7月14日晴天に恵まれ波は少し荒いようでしたが、散骨をし花が沢山波のうねりに乗って流れていき、責任をはたした安堵感と少し淋しさが入りまじりました。私も人生の幕がおりた時は小樽沖で散骨をしていただく事にします。

(小山清子=故人の妻)


(20070601_ss66p19_TKatahira)

●第1226回・小樽沖特別合同葬

山仲間と話し合っていた自然葬

 妻は、3年前ガンのため、享年57歳で他界しました。

 お骨は還暦を一緒に迎え、お墓については、長男・二男に跡を託すのも難しい状態なのでゆっくりと考えることにしました。私は山登りが好きで、家族で大雪山や東北の山へと足を運びました。長い間、山と触れ合っていますと、親しい仲間が山で亡くなり、好きだった山に散骨した話も聞き、自分もできればそうしたいと妻に話していました。

 妻は小樽で生まれ育ったせいか、札幌に家を構えてからも、札幌に行くよりも慣れた小樽に終始家族で通っていました。また、子供が成長したら1年くらいクルーズで世界の海を周遊したいとよく冗談を言っていたので、「小樽沖の特別合同自然葬」は妻の考えに叶うのではないかと思い早速申し込みました。

 7月14日の天気は良かったが、台風4号の影響で波が高く、小樽祝津間の定期航路は中止となっていました。船は予定より早く出港、小樽港を離れ祝津沖に出ました。かなり揺れ、ゆったりと散骨はできませんでしたが、私と長男・二男でお骨を海中に投じました。好きだったワインとお花を撒き、是非聴きに行きたいと言っていた イタリアの歌手「アンドレア・ボテェッリ」の「タイム・トウ・セイ・グッバイ(君と旅立とう)」の曲を流した。

 「ひとりでいる時 地平線に思いを馳せる でも言葉は届かない 君と旅立とう。君と見たことも暮らしたこともない国々へ‥‥」

 波がおだやかな日、小樽からオタモイ航路に乗り、ハイキングや海水浴をした赤岩、オタモイ海岸を眺めるのを楽しみにしています。

(片平卓男=故人の夫)


(20070601_ss66p19_RHougan)

●第1225回・特別合同葬

七夕の海に還る

  梅雨の真只中の7月7日・観音崎沖での合同葬に参加した。朝から雨が降ったり止んだり、加えてかなり風もあった。同じ船に乗り合わせた家族は11組。私共も、生前に海への散骨を希望していて、4月に95歳の天寿を全うした母の散骨に、姉妹で加わった。

 順番に船尾からお骨の包み、お花、お酒等を海に撒いた。正に「大海原に還っていく」の感。黙祷のあと、船がお骨を撒いた地点の周囲を二度、ぐるりと旋回、海面のそこここに色とりどりの花びらが浮遊していた。美しく、もの悲しい光景に、皆が知らず知らずに手を合わせていた。

 七夕の日に海に還っていくなんて何ておしゃれなのだろうと、生前に母自身が選んだ海への散骨にエールを送りたい思いであった。

(寶官玲子=故人の娘)


(20070601_ss66p17_TTomisima)

●第1225回・特別合同葬

九州の墓を整理して

  私ども夫婦が特別合同葬に参加しましたのは、最近身内の誰かを亡くしたのではなく、今年、父の十三回忌に老齢、病気、遠くに住んでいる(埼玉県、お寺は九州の小倉)ため、集まることができなくなったからです。我々は老齢のため、この先、墓の掃除、墓参りも出来なくなり、どうしようかと心を痛めておりました。

 貴会の存在を知り、この際思い切って墓を更地にしてお寺に返すことに決めました。父のお骨とお墓の中に少し残っていた先祖のお骨も、貴会にお願いして散骨していただくことにしました。

 当然、私ども夫婦も子どもに迷惑をかけないように、将来は散骨していただこうと考えています。

 7月7日の観音崎沖の散骨には、粉骨したお骨を持って夫婦で参加しました。船内では、亡くなられた人のことを思われてか涙ぐんでいらっしゃる方もおいででした。私どもは、広々とした海に散骨して、「自然に帰してやれる」とひそかに喜びを感じておりました。

 順番が来てお骨を海に投げるとき、思わず「ホッとした気持ち」になりました。ビールとジュースを撒きましたが、亡くなった父が「自然に帰してくれて有難う」と言っているように聞こえ、目頭が熱くなりました。

(冨嶋唯昭=故人の長男) 


(20070601_ss66p16_YAoki)

●第1225回・特別合同葬

納得できる形に安堵

7月7日、待ちに待った日が遂にやってきた。百日忌に友人と2人、地震にあった能登の実家で粉骨式を行い、この日に備えてきた。

 早朝、泊めて戴いた吹田の友人宅を2人で出発、新幹線を経て横須賀中央の待合場所に到着。既に妻の双子の姉は、東京から来て待っていた。前日買い求めた花は水に浸けておいた。この場で茎を切り離す作業を行う。妻が所持していた幼い頃から小中学校、看護学校時代の写真などを数冊のアルバムにまとめて持参した。前半世を共に過ごしてきた姉は、なつかしそうに熱心に見入っていた。

 この日の観音崎の海はやや波が高く、船に弱い私は、いざ散骨という時1つ1つ心を込めて撒くことができなかった。ただ大声で妻の名を叫びながら夢中で撒いた。私ができなきなかった分、姉が念入りにやってくれた。友人が撮ってくれた写真を後でプリントしてみると、姉の前腕だけが写っているものがあり、散骨の瞬間が生々しく捉えられていた。海に差し出された一本の手から、惜別の悲しみ、喪失の無念さが痛切に伝わってくる。

 この度の自然葬では、他人任せ業者任せでなく、このように納得できる形で直接実施できたことに、深い安堵を感じている。

(青木嘉明=故人の夫)


(20070601_ss66p16_KHaraguti)

●第1225回・特別合同葬

夫が私の内に帰った日

 朝から雲が重く、今にも雨が落ちて来そうな天候。夫の骨とおしゃべりしながら和紙につつみコヨリで結び、昨日から仏壇に供えていた。胸にだいて長男と一緒に港まで。何家族もといっしょだったので私も夫も楽しい一時でした。

 ずっといっしょに今日まで、そばにいた夫が大好きだった海に帰って行った日、胸の中で「サヨナラ……」と。この時からますます夫が私の内に帰って来た日でした。

 ありがとう。7月7日は私の特別な日となりました。

(原口君子=故人の妻) 


(20070601_ss66p19_MImaizumi)

●第1225回・特別合同葬

「もっと気軽に」といっていた夫

 入梅直前の悪天候の中、主人の散骨を終えることができました。彼は解放されたように荒波の中へ泳ぎだしました。葬儀のプラン、葬儀後の一切のこと、そして散骨の場所と すべて自分の意志で決定していました。ただこんなに荒れた天気になるとは思いもよらなかったでしょう。

 波しぶきに洗われる甲板を眺めながら、同行していただいた皆様の髪の荒れる様を眺めながら生前主人の言っていた言葉を思い出していました。「自然葬をもっと気軽にどこでも行えるようになるのはいつかなあー」。散骨をと考える私たちにとって誰でも思うことのひとつでしょう。この会の啓蒙がもっともっと広く行きわたっていくことを思わずにはいられません。

(今泉澄子=故人の妻) 


(20070601_ss66p16_KTanaka)

●第1225回・特別合同葬

海軍兵学校の兄と面会した横須賀で

 60数年前、横須賀海軍兵学校に志願した兄の面会に訪れた横須賀。それ以来の横須賀で、姉を大海の海に送り出すとは感無量で涙を抑えられませんでした。入会して17年。3年半の闘病生活で2月に命がつき7月7日、観音崎の沖へ姉の希望通り、甥2人と散骨に参加できました。無事に終わり有難く、お世話くださった会の方々にお礼申しあげます。

(田中邦子=故人の妹)


(20070601_ss66p15_KYamada)

●第1221回・個人葬

このような会があったとは……

  平成19年2月11日に私たちの最愛なる息子を、飲酒運転で赤信号無視の無法者が運転するトラックに奪われました。18歳の短い人生でした。息子の心情を思うと家族は何をしてやればいいのか。いろいろ考え、息子が愛した海や山の自然の中に還してやるのがいちばんいいのではと思いました。はじめは個人で信州の山か太平洋に遺骨を撒こうかと考えましたが、パソコンなどで妻が調べて「葬送の自由をすすめる会」を知ったのです。

山は日程調整など難しかったので、海にしました。会の担当の方や船長と乗組員の方にも親切にしていただき、本当に良かったと思いました。このような会があったとは、まったく知りませんでした。

私が逝ったときはお願いすると思います。よろしくお願いいたします。

(山田耕太郎=故人の父)


(20070601_ss66p15_YAsahi)

●第1217回・個人葬

海、山、森、川への親しみ増す

 6月4日、私は散骨の旅に出た。気に病んでいた天候も晴れ上がって上々。船は30分ほど進行して港外へ。風もなく海面はおだやか。3つに分けたセツの遺骨と花びらの包み。「ばあちゃん、自然に帰ろうな」「富士があんなに大きく見えるよ」思いをこめて海へ。それはみるみる海底ふかく姿を消して行く。やがて三点鐘があって、しばし黙祷。

 太古、いのちは海から生まれた。私にはふっと親鸞の遺言がかすめた。わしが死んだら遺骸は川に流して魚に食わせろ。だが師はいつも弟子にそむかれる。

 散骨がとどこおりなく終わって、私はこんなことを感じている。海ばかりでなく、山も森も川も、草原も、つまりこの大自然というものが今までの何層倍というほど親しみあるものとしてそこにある。

(朝日柊一郎=故人の夫)


(20071201_ss67p21_MManda)

●第1216回・個人葬●

「母と伯母の海」に

 太陽の光の中でトルコブルーとエメラルドグリーンに輝く石垣の海に、伯母の散骨を行う事が出来ました。2年半前、母を見送った海です。その時、一緒に珊瑚礁の美しさに歓声をあげ、群れ泳ぐ熱帯魚に見とれ、白い砂浜で貝を拾いましたね。そして「自分もおなじところに……」と言いおいていたのです。

 伯母の遺灰は、あっけない程の早さで色とりどりの花びらにかこまれてコバルトブルーの海にすい込まれていきました。

 「母の海」が「母と伯母の海」になりました。いつまでも美しく豊かな海であって欲しいと思っています。

(満田モユル=故人の姪)


(20070601_ss66p15_SMisima)

●第1215回・個人葬

イルカウォッチングとともに

 6月3日、天草苓北町沖にて母三島好子の遺骨を、私ども親子三人と叔母夫婦二人で無事散骨することが出来ました。

 死がそう遠いことではないと感じ始めていた2年前の新聞に、熊本での「葬送の自由をすすめる会」の活動を紹介された記事を見て、母の遺骨は自然に戻そうと思うようになっていました。年末から容態が悪化し、正月3日に私の勤務する病院で死を看取りました。通夜・葬式・火葬では参列してくださった方々と母の生き様を大いに語り、私の心の中での母の記憶をあれこれと思い起こしました。それから数ヶ月が過ぎ、わりに淡々とした気分で散骨の日を迎え、行うことが出来ました。

母の骨はほどよい風で空中に舞った後海面に落ち、そしてゆっくりと海中に沈んでいきました。船からは旅立った病院の建物が見えており、まだ元気だったころ眺めていた海での今の光景をひょっとしたら母は予想していたかもしれません。すぐ横には当海域を回遊しているイルカの群れがおり、皆でウォッチングを楽しんで港に戻りました。

(三島眞一=故人の長男)


(20070601_ss66p14_TKitamura)

●第1211回・個人葬

篠笛の「晩鐘」とともに

 夫が亡くなって半年が過ぎた5月26日、葬送の自由をすすめる会および日本自然葬協会のお力添えにて、西多摩の再生の森に散骨しました。 

 前日の雨が上がり、曇りなき空の下に青葉の風が心地よく吹き渡っています。杉木立の山林は所々伐採され、日の光が足下を照らしています。遺灰となった夫を背負い、常(盤)磐木落ち葉を踏みながら山を登ります。

 尾根から山の急斜面に向かって骨灰を握った手を広げました。ただ手を広げただけなのに、風に誘われて私の手を離れていきました。自らの意志があるかのように、さらりと飛んで行きました。少し離れたところでは長男と次男が空に手をかざして撒いています。娘は自分の手から離れ、風に舞う真っ白い灰の行方を見ながら、何回も言います。

 「うわーきれい」

 夫はいま宇宙の塵になりました。娘が鎮魂の篠笛を吹きました。『晩鐘』という曲でした。

篠笛が響いている間中、胸がいっぱいになって私の涙は止まりませんでした。立ち会ってくださった方々に、図らずもこの地で篠笛を聞けた事も、とても良かったと言っていただきました。

(喜多村蔦枝=故人の妻)


(20070601_ss66p14_MKumamoto)

●第1210回・個人葬

葬儀せず、参加者17人に

葬儀はするな、墓にも入らない、との遺志に従って5月26日に千葉上総亀山に散骨を致しました。前日までの予報とは異なる晴天で、紙コップに移した遺灰を撒きました。参加は17人。葬儀をしないのは気持ちの整理がつかないとの想いからか、多人数になりました。遺灰は緑の中に沈んでいきました。故人の好きだったお酒とビールとともに。
 田舎暮しがしたいと神奈川より福島に移って8年目に迎えた死でしたが、やりたいことをやり、最後も信頼できる医師に出会えて幸せだったと思います。傍に居てやるとの本人の弁で私の手元に少しの遺灰を残してあります。かつての同僚たちが7月に偲ぶ会を計画しています。その時に一緒に上京します。それから先は‥‥私の最後のときに息子たちが一緒にしてくれることでしょう。

(熊本美彌子=故人の妻)


(20070601_ss66p14_YYamasita)

●第1205回・個人葬

父の急逝で考えた会のこと

  慌しさと悲しみだけの葬儀から2年4ヵ月、5月19日午前11時55分、父の生前の希望通り、母と私、親族、父の旧知の親友の方の手で父の遺灰は生命の源である大いなる自然、相模灘の沖に還って行きました。
「お父さんありがとう。お父さんの思い通りさせてもらったよ」と、やはりその時は感慨無量の思いで一杯になりました。
 亡き父は会の東海支部の会員として、支部長さんはじめ他の方々と会の運営のお手伝いをさせて頂いておりましたが、一昨年急逝致しました。生前から自然葬への意志をはっきりと表示しておりましが、私自身は特別深く考えもせず過ごしておりました。急逝して改めて、この会の趣旨を考える課題と時間を残してくれたこと、また皆様のお力添えで無事父を見送れましたことを感謝しております。

(山下靖子=故人の長女)


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