(update_20070601_ed)
このページのドキュメントは日付を遡る順に掲載されています。

遺族の感想文_801-1000
801−1000


(20050529_sz_w)

第1000回自然葬

 古い日記帖の中の遺言

 夫の散骨の日はお天気がよく、小さな島が点在する松島湾を通り抜けた外海はおだやかで、大きなふところに包み込んでくれるようなやさしさで迎えてくれました。

 がんを患い入退院の繰り返しの日々、残された命が日ごとに短くなり、医師の心の準備をとの言葉に夫の身の回りを整理したとき、古い日記帖を見つけました。自 分の病のこと、回復不可能のときは延命処置は不要、苦しまないように自然に死なせてほしい、仏式の葬儀は理解できないことが多い、など遺言と思われる事柄 を記して会の電話番号も書いてあったのです。

 故人の望み通りに、との親戚の言葉はとてもうれしく、葬儀は神式でお骨は葬送の会を 通じて海へと決まりましたのも、夫が希望をきちんと書き残してくれたからだと思っています。お骨を砕くのは深刻で精神的につらいのではと初めは緊張しまし た。私は夫と、娘は父親とおしゃべりしながら終わってしまいました。水にとける紙にお骨を包み、小さなおひねりを沢山つくりこよりで結んで準備を終わりま した。夫の兄弟、その家族ら9人の手で波にただよう花びらに見送られ夫は海にかえっていきました。

 助言をいただいた歯科の先生、東北支部の阿部みち子様、生まれて初めてのことばかりの毎日を乗り越えさせていただき本当にありがとうございました。(故人の妻)


(20050528_sz_yb)

  ●第999回自然葬

  そのうち波打ち際に来るだろう

 兄の希望していた遠州灘は過去に実績は無かったのですが、会の尽力で、希望通り行うことが出来ました。浜名湖周辺のマリーナをひとつひとつ当たっていただき、ようやく賛同を得られるところがみつかったとのこと。感謝に絶えません。

 浜名湖の奥のそのマリーナから出航して湖を縦断すること30分、船長にも珍しいといわれた凪の太平洋に出て更に30分、浜松の砂丘沖にて自然葬を執り行いました。その砂丘の砂になりたいと思っていた兄を、思い出の花グロキシニアと鬼芥子と共に送りました。

 陸に戻って2時間後、その砂丘に赴き海を眺めました。海亀が産卵する穏やかな海岸に兄もそのうち辿り着くことでしょう。海上に出て兄を思うことは、今後容易ではありませんが、波打ち際に来れば兄と心を通わせられる。そんな思いにさせられたのでした。(故人の弟)


(20050528_sz_w)

●第995回自然葬

漂う花びらの様子に感動

  5月28日は、父の命日です。生前とても気の合う父と夫だったから「この日が最高」と思い散骨の日に選びました。日が近づいて来ると日一日、つらい気持ち が募り、夫の写真を見るたび涙が流れ止まりませんでした。天候がとても心配でしたが、当日は波も穏やかで、お骨を波の上にのせると静かに散りながら沈んで いきました。赤・白・黄色の花びらが悠々と漂う様子はとても感動的で、これで夫も自然に還れて安堵した事と思います。

 家族にとって散骨の時の光景は、生涯忘れられないすばらしい思い出となりました。(故人の妻)


(20050430_sz_yb)

●第992回自然葬

兄さん、墓は私の心にあるから

「自然葬を『すすめる会』5年、88人の遺灰 海や山に」(96年2月9日付朝日)という記事が私と会との最初の出逢いだった。当時、がんの開腹手術をしたば かりで将来に不安を感じていたが、まだ本気ではなかった。現実感を持ったのは01年。80歳で亡くなった兄の遺品整理中、赤鉛筆で囲んだ新聞記事を発見し た。「東京都の水源林に市民グループ散骨」(94年5月31日付朝日)という記事で、私より2年早く兄は自然葬に注目していた。

 人は自然に還るのが良い。その思いを共有していることを知ってすぐ入会した。兄は生涯独身で妻子はいない。身内は弟の私ひとり。それでも満4年、遺骨を手元に置いた。

 5月25日、兄のイメージにあったであろう山=西多摩再生の森で散骨した。“梅雨前に”と考えたとおりの快晴。樹木の間を涼風が吹き抜け、遺灰はさわやかに散って逝った。兄さん、“墓”は私の心の中に在るからね。さようなら。(故人の弟)


(20050521_sz_d)

●第988回自然葬

桜の木の下に野の草と

  母は昨年の10月に93歳で自宅で永眠しました。生前から家族で自然葬と決めておりましたので、迷わず熊本の阿蘇外輪山と決定しました。日時は平成17年 5月21日でした。熊本で亡くなったおじの散骨も行ないました。五月晴れで阿蘇の山々も美しく、山の下の方に母とおじが暮した町並みが見えます。登山者も 多く、山とはいえ、さみしい所ではありませんでした。ウグイス、カッコウなど鳥が鳴いていました。

 桜の木の下に、ボランティアの方々、新聞社の方々が手折って下さった野の花や母とおじがよく行った水前寺公園の水をかけ散骨しました。その日は阿蘇に泊り母の思い出話につきませんでした。私達も将来はこの地に眠りたいと思いました。(故人の長女)


(20050520_sz_w)

●第986回自然葬

舞いながら落ちていく遺灰と花びら 

 調布飛行場から3人乗りセスナ機で飛び立ち、皐月の空を亡き夫と共に遊泳する。眼下に広がる緑多き箱庭のような町並み、地平線上に浮かび上がる海原、そして江ノ島がポッカリと姿を現した瞬間、永遠の別れが待っているのにまるで遊覧飛行の気分。

 住み慣れた鎌倉を左手に江ノ島を飛び越えて5分強、飛行機が大きく旋回し、パイロットが「どうぞ」と声をかけてくださる。20センチ四方の窓を自分で開け、 遺灰の袋を窓に近づけた瞬間、風圧でアットいう間に奪い去られてびっくり。あわてて残り6つの袋を窓の外へ。舞いながら落下していく後を真紅のバラの花び らたちはひらひらと追う。

 この間10数秒。手から離れる瞬間には一言「ありがとう」とか「安らかに」とか言葉を発するのではないかと思ってはいたが、あの風圧には言葉もなくただ「はぐれないで早く後を追って」と願うだけだった。

 水面に吸い込まれていく7つの袋は1つの塊となってブルーに染まって沈んでいった。セスナ機から確認しながら骨は水に入ると青く発色するものなのかと不思議 に思えた。航空会社に30数年在職、飛行機にこだわり、空からの自然葬は本人の希望。そして、生活圏だった江ノ島沖、子どもの頃、全国大会で模型飛行機を 飛ばしたのが調布飛行場。強く縁というものを感じた。

遺言の中に次なる文が。

人生の海の嵐にもまれこしこの身今その海に還る

月と太陽と北極星を仰ぎ

波と戯れし先住達の僕となり永遠の住家とす

七つの海を巡りし果たせぬ夢今ここに達す

愛しき人の手の温もり熱き思いと共に今旅発つ

その恩愛に感謝をこめて ありがとう、さようなら

貴方、遺灰の中にパスポートを入れておきましたから(故人の妻)


(20050515_sz_w)

●第983回自然葬

どう? 眠れそう?

  うぐいすの声絶えまなきこの山にわが手より散る夫の遺骨よ

  安く眠れこの森蔭の黒き土に汝が苦しみはすべて終れり

 「どう?眠れそう?いまどんな気持?」

『あゝ、いい気持だ。いや、そんなものじゃない。いいとか悪いとかの価値基準を超越した、ずっとおだやかな気持だよ』

「この一年の病気はつらかったものね。ずつとよく眠れなかったし」

『眠りとか覚醒とかというものともまた別だけれど、安らかな気分だ。眠りといえば眠り、直接見たり聞いたりはしていないけれど、しかしわかるんだよ。この森のようすが』

「いつか、私もここに来るから待っていてね」

『あゝ、待っているよ。でもそのころおれの元素は何になっているかな。じゃ…』

(故人の妻)

 老桜の根方に眠るわが兄の笑顔しのびてしばしたたずむ

(故人の妹)


(20050513_sz_d)

●第981回自然葬

再生の森に感動と安堵

  5月13日、91歳と86歳で昨年相次いでなくなった母と叔父の遺灰を「西多摩再生の森」に撒きました。私が思い描いていた通りの再生の森に、感動と安堵 の気持ちでいっぱいになりました。独身だった叔父の遺言がかなえられて本当に良かったと思います。私たち夫婦が自然葬を希望しているのを知っていた母は、 あとのことは任せると言い残してなくなりましたので、叔父と同じ場所で土に還り満足しているのではないでしょうか。

 母が17年前に九州から持ってきた真っ白な紫陽花は、主を失って今年も元気に咲き誇っています。(故人の娘)


(20050503_sz_h)

●978回自然葬

幸せな日々をありがとう

 5月3日、妻の自然葬の日はとても良い天気でした。昨年の9月26日に亡くなってから、ずっと近くにいた妻といよいよ別れるのだなと思うと少し寂しい気がしました。近しい親族とともに訪れた大森山は、穏やかで気持ちがいい場所でした。

 「一生わすれない幸せな日々をありがとう。安らかに大地にお還りください」といいながら、大きな桜の木の周りに散骨しました。八重桜はまだ満開で、花の好きだった妻も喜んでくれたと思います。思い出以外は何も残さない自然葬を行うことができ、とてもよかったと思います。 (故人の夫)


(20050501_sz_w)

第976回自然葬

これからは好きなところへ

 5月1日、とても良いお天気に恵まれ、主人の旅立ちには最高の日和でした。ゴールデンウイークの真最中、まわりはヨットと釣り船で賑わっていました。

 家族だけではもったいないような大きなサザンクロスで出港、賑わいの中を通り抜けて現地に到着。係の方の合図で主人の白い包みを静かに波に沈めました。青く きれいな海の中をゆらゆらと沈んでいきました。さようなら……花びらをみんなで散らすと、主人を囲むように波と一緒に漂いました。そして船はそのまわりを 三周して別れが終りました。

 6年間の車椅子で自由に動くことのできなかった主人も、やっと大好きな海で魚たちとこれからは自由に 好きなところへいかれることでしょう。おかげ様でこのような葬送ができたということを、今とてもよかったと心から思っております。一年たったら又あの場所 へ行こうと息子たちと話しております。(故人の妻)


(20050430_sz_h)

第974回自然葬

約束の自然葬

 4 月30日、三浦半島の小さな入江、小網代湾のシーボニアマリーナに浮かぶ名艇「シナーラ号」に私を含め14名が乗り込むと、船は波静かな晴天の相模湾を滑 るように進んで行きました。主役は妻、弘子です。彼女は約1年前、満開の桜に見送られながら食道がんの為に生涯を閉じました。生前より尊厳死と自然葬を望 んでおりました。今日はその約束の日です。

 船が江の島沖に達すると弔鐘を合図に船縁より白い包みにカトレアを添えて投じ入れました。キラキラと光る波間に揺れながらゆっくりと静かに沈んでゆきました。「サヨナラ、ヒロさん又、会おうね」と言ったものの何か空しい寂しい感じを禁じ得ませんでした。(故人の夫)


(20050423_sz_d)

●第972回自然葬

両親を暖かい再生の大地に

 平成17年4月23日、武蔵五日市里山の「西多摩再生の森」に、没後20年の父母の散骨を致しました。岐阜の旧家の5男坊であった父は生前墓地を持とうとせ ず、自然に還る夢を抱いていたと思います。昭和26年の歌に「われらがすみか」は、「空も極まるいやはての広がり」と詠んでおります。芸術家として一生を 終え、花を愛し、春を惜しむ歌を多く残した父。その父に仕えて尚、自らの強い生き方を貫いた母も、四季折々の木の花を庭に丹精し、父の研究を裏で支えて茶 道に没入し、晩年は大勢のお茶のお弟子達に囲まれて幸せな日々でした。

 白い花の好きな父が庭に植えた木には、 梔子(くちなし)、スノーボールの他、椿、山吹、山茶花など白い花が多かったのを思い出します。両親の好んだその春の季節に、山桜、しだれ桜の花の盛りを 沿道に愛でながら山麓に着き、急斜面を登って倒木の多い杉林の中で、杉の根方のあちこちに芽吹く若木や菫(すみれ)の花の上に、主人と息子、娘の4人で散 灰しました。 

 初め私は漠然と、もっと高く広々した空間の大空の下での散灰を想像していたので、一寸戸惑い ましたが、開けた空地には既に何度か自然葬を行ったあとがまだ残っていると伺い、この処女地の上に心中合掌しながらまき、白々と広がる灰に向かい、黙祷を 捧げました。自然葬実施証明書を戴き、20年間心にかかっていた願いがようやく叶った事に安堵いたしました。

 簡素を愛し、自然をこよなく愛していた父も、冷たい骨壺から暖かい再生の大地に迎えられ、のびのびと自然に還った事と信じております。今回来られなかった姉や兄にも記念の写真と共に報告するつもりでおります。(故人の娘)


(20050416_sz_d)

第968回自然葬

自然の息吹となった父

 2005 年4月16日午後12時30分、秩父再生の森にて自然葬に付したことを証明いたします。こう読みあげられた時、やっと父を土の還すことができたと、安堵の 胸をなでおろした。父の死から待つこと6年。遺志の通り、母、妹、孫2人の手によって粉になり、父は、桜の木の根元に永眠することになった。

 春 夏秋冬、秩父の山や樹木、草花。風雪に包まれ、あらたな自然の息吹のひとつとなった父に、今どんな気分か聞いてみたい。お墓はなくとも、こうして父に問い かけ、頑固で短気だった父の面影が心に残っていれば私も幸福である。「子供は死がわからない」と、ぼそりとつぶやいた父だが、12歳と14歳に成長した姪 と甥は、さらに大人になっていき、はたしてどのようにこの葬送を受けとめていくのだろう。(故人の娘)


(20050405_sz_d&m)

●第966回自然葬

両親と息子を伊勢の美しい海へ

 両親は都会育ちの小学生の私と妹弟の健康のため、夏休み中過ごせる場所を伊勢湾の海の御殿場に与えてくれました。遠浅の海の美しさは今では想像も出来ない別 天地でした。その後2人の子供を持ち、想い出の海で同じ経験をと来た当地は昔の面影とは程遠い海ながらまだ貝や蟹が残っており、やさしい土地の人と何年か過ごしました。

 永い年月を経て、両親と息子の遺骨を抱いてよき想い出の海にて自然葬をさせていただき無上の安らぎに包まれております。波の全くない穏やかな海面をゆったり海へ還っていくのを見送りながら私も同じ場所へ還れたらこれ以上の幸せはないと切に思いました。 (故人たちの娘であり母)


(20050321_sz_s)

●第961回特別合同葬

海を見るたび父母を思い出すと思う

  3月21日、おだやかな早春の相模灘で父と母を送りました。母は一昨年3月に76歳で、父は昨年4月に83歳で亡くなりました。2人は終戦の年に結婚しま した。3月の東京大空襲で焼け出され、次に大規模な空襲が来たらどうせ死ぬのだからという親たちの思いもあって、4月に入籍したと聞いています。世の中が 大きく変貌をとげた長い戦後を、どうにかこうにか2人で生きてきたといえるでしょう。

 父は「死んだら、できれ ば海にでも撒いてくれるといいんだが」とひかえめに言っていました。中国山地の豊かな自然のなかで生まれ育ったせいか、都心の小さな墓に入るのがいやだっ たのかもしれません。しかし、さまざまな事情でそれはかなわず、母と同じく仏式の葬儀をし、埋葬しました。父の言葉は私への宿題のようなものでした。自然 葬にするなら両親一緒にと思い、あらかじめ2人のお骨を分骨して、家に置いておりました。

 私自身、昨今の商業 化した葬儀のあり方や僧籍にある方々の姿勢に思うところがありましたので、このたびの自然葬は私自身のためでもありました。青い空の下、船上から撒いた細 かい白砂のようなお骨は、思いのほか早く、青く深い海に吸い込まれていきました。あっけないくらい、またたく間に視界から消えていきました。広い海を前に して、人間はなんとちっぽけな存在なのか。そんなことすら思わせるひとときでした。

 「人は、残された人々の記憶のなかにあるかぎり、生きている」といわれます。亡くなった人への一番の供養は、「思い出す」ことなのではないでしょうか。よすがとなるものは、写真で あれ、形見であれ、風景であれ、人それぞれでよいのではないでしょうか。私はこれからも海を見るたびに、元気だったころの父と母を思い出すことでしょう。(故人の息子)


(20050320_sz_d)

●第960回自然葬

灰の沈んだところを指し示す花びら

 「葬儀無用、墓碑無用、海に流してくれ」

遺言状を見るまでもなく、十数年来言われ続けてきた言葉ゆえ、自然に事が運んだが、昨年7月予定した自然葬は台風の為中止。準備万端整えて84歳で旅立った はずの父だったが「きっとまだ行きたくないに違いない」と台風シーズンを外し、一周忌も迫った3月20日、いよいよシナーラ号にて相模灘へ船出。曇り空の もと、30分ほどで江ノ島沖に到着。立会人の山田理事の司会で、和紙に包んだ遺灰をそれぞれ海へ投入。あっという間に見えなくなる。続いてお花を、と促さ れ花びらと酒を撒く。シナーラ号がその場所を大きく3周旋回するのだが、この時初めて花びらの重要性がわかった。遺灰は沈んでしまうが花びらは、旋回する 間まるでその場所を指し示しているかの様なのだ。この旋回にはかなり時間がかかった様に感じられ、いよいよ永遠の別れを思い知らされた。帰路、真昼の太陽 を覆う雲の周りから陽光が洩れ、虹となった。突然、母の逝った早朝、北の空に見た虹を思い出した。(故人の娘)


(20050303_sz_d)

第958回特別個人葬

故人が植えた庭木の周囲に

 2月から3月にかけて、3人分でしたので数回に分けて、自宅庭で散骨しました。最初だけ友人に来てもらいました。故人が植えた木の周囲に、故人が望んでいたよ うに撒きました。粉状になっていますので、撒くと斑雪のようにも見え、私自身の気持ちが安らいでいくのが分かりました。終了した今、故人も安堵していると 思います。

 大地に還るというより、なぜか大空に昇っていくような感じが湧き、自然葬を選んで良かったと思っています。(故人の長女、姉)


(20050306_sz_w)

●第956回自然葬

阿蘇の桜の下の父

3月6日、熊本は阿蘇外輪山にて、夫の自然葬を行いました。生前から夫婦で話し合い墓ではなく、自然の中に還りたいと考えておりました。夫の生まれた故郷である阿蘇に自然葬ができる場所があることを知り、そこに還すことにしました。

今年は3月に入ってもなお雪が降り、前日宿泊した宿の庭にも雪が積もり、実施できるかどうか心配しておりました。しかし、当日は雪もあがり、山の中に入るこ とができました。現場までの道も茅がかりとられ、足元に敷かれておりましたので、足の悪い私も無事現場にたどりつくことができました。

そして、桜の若木の根元に散灰してまいりました。今年の春はこの桜の花を観ながら、好きな酒を飲んでいることでしょう。(故人の妻)


(20050109_sz_w)

●第954回自然葬

大好きだった思い出の沢山ある海へ

 昨年末31日は関東は大雪に見舞われお正月も氷が張る寒さだったが、晴れ男で通っていた主人の再生の日1月9日は朝から快晴だった。横須賀から「しーふれ んど2」に乗り込んだ。陸より船の方が暖かく潮風が心地良い。目の前には穏やかな海が広がり太陽の光が波に反射して眩しい。

 主人は、海釣り、潮干狩り、夏は毎週海水浴に出掛けた。海への再生。迷いはなかった。再生の場所に着き船が停泊。青い海、背後には富士山、素晴らしい大自 然。お別れの時、いつものように主人に語りかける「クロバイバイバイバイ…」。青い海に黄、オレンジ、ピンク、白の色とりどりの花が円を描く中、遺骨が海 中へとゆっくりと沈んでいく。50代前にして大自然に還っていった。闘病生活は辛かっただろうけどいつも前向きによく頑張ったね。私達を海から見守って下 さい。(故人の妻)


(20041210_sz_yb)

第949回自然葬

遠くない時期に鹿島灘へたどり着くと…

 独り身の気ままな人生を仕事一途に送ってきた兄は、最後は生まれ育った海(鹿島灘)に帰りたいと9年前に心に決めてこの会に入会したようです。

 予定された12月5日は季節はずれの台風の影響で陸も海も日本中が大荒れの天気となり、中止となりました。仕切り直しをした12月10日も風雨強く波も高いとの予報で、皆をヤキモキさせましたが、当日は快晴微風の好天気に恵まれました。

 素晴らしいヨット「シナーラ」号に乗った私達弟妹は青い海に消えてゆく兄の遺骨、波間に漂う花びら、その光景に涙があふれ合掌しました。房総沖を越え遺骨と兄の想いが故郷の鹿島の海に辿りつくことも、そう遠くないことと思います。本当に心に染みました。(故人の弟)


(20041204_gsz_w)

●948回特別合同葬

恩寵の年月憶い散骨す

 散骨は亡夫の願ひ 冬ざくら

 朧月や 散骨の海 鈍色に

 低気圧の通過で、シナーラ号の出航は見合せとなる。10名宛、小舟に分乗。波しぶきを浴びながら近場にて散骨。

 亡夫の教え子で海の男を自負する若林さんが、足元のおぼつかない私の介助をして下さったお陰で無事、波頭を越えて流れていく花筏の上に遺骨を乗せることができた。清貧を貫き通し、釣好きだった亡夫には「海の貴婦人」よりも、誠にふさわしい葬送の儀となった。

恩寵の年月憶ひ 散骨す(故人の妻)


(20041204_gsz_w)

●第948回特別合同葬

  平成16年12月4日土曜日、前日より台風なみの低気圧の発達で大荒れになると予報されていたのにもかかわらず、どうにかその日は船を出すことが出来てほ んとうに好かったと感謝しております。かならずしも夫の望みではないかもしれませんが、生き残ったモン(者)勝ちで私の思うとおりにさせて貰いました。私 の時も同じようにして欲しいと、近しい縁者には話してあります。

 人も他の動物と同じ物体なのですから、自然に還えす方がほんとうだと思います。次から次にと産れてくる人の為に狭い土地を使用するのは限度があります。

 「葬送の自由をすすめる会」がどんなにこの度の私にとって大きな存在だったか言葉に云いつくせません。 (故人の妻)


(20041204_gsz_d)

●第948回特別合同葬

あふれる涙はうれしさの涙

 波が高くなってきたので出航を30分繰り上げます。このようにいわれ、防水コートを支給頂いての出航となりました。軽快なエンジン音に合わせるように船体を バタバタと波が打ち寄せています。うねりも段々に大きくなり、15分くらい進んでエンジンが止まり急に波の音だけになり、汽笛を鳴らしますから散骨下さ い、との事。ボーという汽笛。何とわびしげに響いた事でしょう。

 用意した花びら、母の好きだったお酒を添え、めぐりめぐって何時 の日か親子の絆が結ばれるなら、その時もっともっと幸せな人生にしましょうね、お墓に閉じ込めるより、大海原の元いつでも逢える、そんな想いを胸に見送り ました。船は海面の大きな波に浮いている花びらの周囲をボーボーと汽笛とともに3回まわりました。何と胸に迫る音だったのでしょう。止めどなく溢れる涙は 悲しさの涙ではなく嬉しさの涙でした。(故人の娘)


(20041125_sz_es)

●第944回自然葬

願っていたこの日

 11 月25日正午、夫と下の妹の3人で小網代湾を出航。滅多にない凪だそうで、海は青く海の貴婦人シナーラ号は素晴らしかった。船に自信のない私でしたが前夜 船長さんの強いおすすめの電話に従って本当によかったと思いました。30分程沖へ出た相模灘で弔鐘が鳴り、水溶性の白い紙に包まれた遺灰を海に投じまし た。白い花々を散じ黙祷を捧げました。列をなしてたゆたう白の清らかさを目で追いながら、あんなに願っていたこの日をどんなに喜んでいるかと思いました。(故人の姉)


(20041120_sz_w)

●第941回自然葬

一部始終は夢のよう

 当日の日和の良かったこと、何もかもが美しく輝いて荘厳な大自然に抱かれた感激に至福のひとときを過す事が出来ました。母の希望が、こんなにも素晴らしい形で実現でき、すべての方々に感謝するばかりです。

 真鶴沖での散骨が本当に出来るのか不安でした。何か侘しい場面しか想像できなかったので、実際の一部始終は夢のようでした。クルーザーのような真白い船、 キラキラした波に漂う白や黄色の花々、透き通った海の中で静かに沈んで行く母の骨。これ以上望むべくもなく最高のセレモニーでした。身が震える程の感激に 言葉が見つかりません。感想文をと云われたのですが、何度書いても感傷的になってしまい、歯が浮くような文になってしまいます。(故人の娘)


(20041120_sz_w)

●第939回自然葬

祝福の赤い帆を張って

  昨年より縁あって事務局のお手伝いをしております。この1年、自然葬の契約事務や立会いをさせていただくという貴重な経験をしていますが、故人の人生の最 後にかかわらせていただくと、あたかも生前から知り合いだったような気がします。また、遺族とお話をするだけで、故人の生き様が伝わってきます。

 両親の生き様も実に沢山の事を教えてくれました。父は5年前、母は2年前に亡くなりました。相続の事務処理も終わり気持ちの整理もついたので、昨秋、両親の 希望に添って相模灘で自然に還しました。ふたりの旅立ちを祝福するようにシナーラ号に赤い帆を張ってもらいました。晴れて波静かな海面に、バラと百合の花 が別れを惜しむかのようにいつまでも漂っていました。10余人の私の友人たちにも一緒に見送ってもらいました。下船後の食事会での友人ひとりひとりのス ピーチに、私は両親が亡くなってから初めて涙をこぼしました。(故人の長女)


(20041117_sz_SYamazaki)

●第938回自然葬

「アア、よかった」

 昨年11月17日の 玉野市 宇野の海は小春日和であった。会員の持ち舟“瓢”号は四国高松の山々が見える小さな島影にエンジンを停めた。23年前に逝去した木村忠雄氏と13年前に逝去したマツエ氏夫婦の合同葬で 高松市 に住む次女の木村美智子さん1人が船に乗った。遺灰が撒かれ、弔笛が鳴り合掌し終わったとき、木村さんは「アア、良かった」と言われた。

 両親の葬式は世間並みに済ませ、戒名も付け、遺骨は長年付き合いのある寺の墓に埋葬した。しかし、暗闇の墓の中に遺骨を閉じ込めておくことに違和感を持って いた。姉とも相談して自然葬に踏み切ったのだそうだ。寺との話し合いは円滑に運んだ。、百姓をしていた父親手づくりの「わらを打つ木槌」で遺骨を砕いた。 心の動揺もなく楽に灰にすることが出来た。「アア、良かった。」と思わず口から出たのもこんな経緯があったからだろう。朝、夢の中で母が「起きなさい。遅 れるわよ」と起こしてくれたという。(中国支部長 山崎俊二)


(20041114_sz_d)

●第937回自然葬

後を追うように飛んできたカモメ

 父・靖に続き、昨年の11月14日、母・和子の散骨を駿河湾で行いました。はじめ10月21日の予定でしたが台風で中止になり、今回も朝から曇りでしたが不思議と散骨の間だけは富士山も顔を出し快晴となりました。

  花々が渦を巻き海面を漂っている様は父のときと同様に美しかった。散骨が済み戻る時、一羽のカモメが後を追うように何回も船に近づいてきました。まるで名 残を惜しむがごとくで、皆同時にカモメを母と思ったそうです。私は目が合ったので思わずありがとうといいました。上空でもう一羽が見守っていましたので、 父を思いました。

 人間みな、最期は思いだけ残し元来たところに戻って行くのだとつくづく感じさせていただきました。(故人の長女)(故人の次女)


(20041107_sz_f)

●第935回自然葬

妻と娘は昔話をしているだろう

 私が死亡の時は母親長谷川きぬ子が1999年11月3日に自然葬をした所に散骨して下さい。そう遺言した昌代を2004年11月7日、同じ千葉県岩井海岸沖 に自然葬にすることができた事を大変よろこんでいます。母親を自然葬した時に感想文を記載した通り、きぬ子、昌代の親子は昭和中頃より10数年間、毎年夏 を房洲岩井海岸でたのしく過した思い出がありました。現在は親子で楽しく昔話をしていると思います。きぬ子、及び昌代の自然葬は晴天で房洲方見えました。(故人の父)


(20041028_sz_SYamazaki)

●第929回自然葬

夫と母に続いて来島海峡に

 10 月28日の来島海峡の秋空は、天高く澄み、暖かく、波も静かでした。船は第3大橋の巨大な橋脚の近くの島影にエンジンを止めました。遺族は、故岡林照子様 の実妹の池内宏江様とそのご主人そしてその娘さんの3人でした。いつもは、潮流に乗せられて遠くへ流されてしまう花びらが、丁度、潮の変る時間帯だった為 か流されずに目の前の波間に長い間漂っていました。

 1999年9月19日、同じ海域で岡林様のご主人とその実母を自然葬に付していたことを知りました。ご 主人は内村鑑三を心酔する無教会派クリスチャンで、早くから当会の主旨に共鳴して入会し、瀬戸内海での自然葬を希望していたのです。前回も今回も池内宏江 様が実質的な自然葬実施者でした。(中国支部長 山崎俊二)    


(20041023_sz_d)

●第924回自然葬

自由な葬送ができたことに感謝

  母は、亡くなる1年8カ月前には四肢麻痺・遷延性意識障害でいわゆる植物状態でした。散骨は車イスで半身不随でありながらも元気で居た頃の母の希望でし た。最初の脳梗塞まだ64歳で、これから旅行などに出歩こうかという時でした。それから車イス。想うことは死や苦しみ、悲しみだけといっても過言ではあり ません。子供達に迷惑がかかる、申し訳ない、など折にふれてメモを書き綴っていました。3人の子供達はお墓にそうそう参ってはくれないだろう。朽ち果てる 自分のお墓を想像して散骨を思いついたようです。孫たちにまで“散骨希望”を言っていました。

 度々の入院の後、たまに目を開くだ けの物言わず微動だにせぬ母を在宅看護としました。1年8ヶ月の在宅療養は短かすぎです。自室で出社する私を見送って母はひっそりと亡くなりました。私の 子供たちと一緒に身体を拭き、最後は骨まで手でさわって海へ還しました。最後の最後まで、母に触れることの出来た私は幸せでした。(故人の娘)


(20041016_sz_w)

●第921回自然葬

きらきら輝きながら海へ

 主人が肺がんの末期と告げられたのは昨年7月でした。家族と一緒に主治医からすべてを聞きました。そして、治療はしない、できるだけ家族と過ごす、最後は 海へときめました。主人は若いときから「この狭い日本の土地にお墓ばかりつくってどうするんだ」といっておりましたので、新聞で会を知ったとき、すぐ入会 しました。

 東京で生まれた主人にはやはり東京湾口がいいのでは、と2人で話し合いました。平成16年10月16日、あいにくの曇 りでしたが、波もそれほど荒くなく、水の中できらきら輝きながら主人は海に還りました。「いつの日にか、私も傍に行きます」と約束して最後のお別れをしま した。  (故人の妻)


(20041013_sz_h)

●第920回自然葬

何と自然で解放的だろう

  10月13日、仙台・松島湾沖で花と一緒に散灰、かもめの群れる島にはお地蔵様が海の護衛官のように鎮座していて、四方に微笑みを湛えています。花は波間 を舞ながら寄り添い、花筏となって大海原に旅立ちました。墓地という名の寂しい石の下に封じ込められるより何と自然で解放的であろう。翌14日、夜、 NHKテレビで「お墓への狭き門」と題して墓に不安をもつ人たちの選択肢が放映されていた。自然破壊の進む現状も合わせて取材してほしいものだ。友人知人への報告書の末尾に「旅先で海を見たら思い出してください」と。 (故人の夫)


(20041007_gsz_d)

●第919回自然葬

ママチャンまた皆で来るからね

 10月7日、石垣島の海に母の散骨を無事済ますことが出来ました。

  風が発生し波が出ていたため、本来の場所ではないそうですが、黒島の珊瑚礁の辺のとても美しいところを選んでいただきました。船も止めておくことが出来 ず、ゆっくりと動く中の散骨となりました。海は太陽の光の下、エメラルドグリーン・トルコブルー・コバルトに輝き、波の下は様々な珊瑚の間を色とりどりの 熱帯魚が群れ泳ぐとても豊かな海でした。「ママチャン。この海で寂しくはないよね。また皆で遊びに来るからね」 (故人の娘)


(20040925_sz_w)

●第913回自然葬

さわやかでホッとした気持ちに

 朝6時、バスに乗った時は小雨、夕方バスを降りた時も雨。それがうその様なさわやかな菅平の1日でした。

行くまで何か不安な気持ちもありましたが、案内の水野様のお人柄、そして白樺、霧。そんな気持ちはいっぺんにどこかに飛んでいってしまいました。とにかく山 が大好きで、スキーは85歳で亡くなる2年程前までやっておりました。まだまだそのつもりだったと思います。菅平。子供も孫もこの場所を選んだ事をとても 喜んでくれましたが、一番喜んでくれたのは主人と思います。

 孫娘は、何時も身近におじいちゃんの気配がしていたのに全然感じなくなってしまった、と申します。きっとあのお山が気に入ってあそこにいるのよ。きっとそうだと思います。

 もうすぐ主人の大好きな雪も降ります。悲しいとか淋しいとか云うより、さわやかな何かホッとした気持ちです。(故人の妻)


(20040925_sz_d)

●第913回自然葬

 森に到着した時はうっすらと霧がかかり、雨上がりの木々の緑と山の様子がとてもきれいで空気も本当にさわやかでした。山やスキーが大好きだった父が、秋は紅 葉、きのこや木の実、冬は白樺に雪景色、春の新緑、夏の青葉に囲まれて季節ごとの様子をたのしみながら眺める事でしょう。(松谷利枝子=故人の2女)


(20040925_sz_dl)

●第913回自然葬

 直前まで「これでお父さんを感じるのも最後かも知れない」と何か不安のような感じがして気持も沈みがちでしたが、現地は静かな中にも森の息吹が体をつつんで 一気に晴々しい気分になりました。白樺の木々の間からみえるスキー場、山道の端に顔をみせる秋の草花、キノコ、どんぐりの実。自然の生命を十分に浴びて平 安な気持でお別れする事が出来ました。

 人の死を送ると云うことは、本当に残されたものたちのものなのだと実感しました。おとうさんが私達に大きなプレゼントをしてくれたような気がします。

 インドの水葬やチベットの鳥葬を行う人々も、同じように自然と一体となった安らかな気持で死者を送ったのだろうと思います。季節季節に又この地を訪れたいと思います。(長男の妻)

(この自然葬参加者からは、剣道仲間などたくさんの感想が寄せられましたが、誌面の都合で割愛させていただきました)


(20041204_gsz_w)

●第903回特別合同葬

リハーサルの機会与えてくれた姑

 家族6人で埼玉県から参加した方など計5組。私も懸案の姑の遺灰を、夫、長男同伴で希望通りに北の海に還すことができました。

 姑 は夫を出産して2カ月後に未亡人となり、やがて再婚したため、5歳だった夫は母方の実家で育てられました。諸々の事情から、老後は北海道で……という強い 思いを知り同居を目前にして脳溢血。65歳でした。少子化の時代となり、自然葬への要求は高まるものと思われますが、世間体という制約を脱することにもそ れなりの時間が必要です。本州生まれの夫の同意を得るまでに9年かかりました。

 いずれ旅立つ身です。リハーサルの機会を与えてくれた姑に感謝しております。 (故人の息子の妻)


(20041204_gsz_h)

●第903回特別合同葬

いつか一緒に雲となり雨となろう

  小樽に生まれ育ち、遊び、学び、働いていたひとりの北の女が、運命の神の悪戯かそれとも前世よりの定めか、戦後復員まもなく北海道に新天地を求め、リュッ クひとつで海峡を渡ったひとりの南の男と白髪の誓い以来60年近い歳月。そして、自然葬の海を一望できる現在の住所に居を定めて40年余。妻の最後の旅立 ちに最も相応しい処だと思っている。

 ここには、葬儀という式次第で順序よく進行する儀礼とは違う心うつ何かがあった。今はもう、小樽ッ子と自称して憚らない私は87歳。妻の旅立ちした海の見えるこの小樽で残り少ない人生の終末を迎えよう。 (故人の夫)


(20041204_gsz_w)

●第903回特別合同葬

つり好きの夫の声が聞こえた

  夫はつりが好きでした。小樽沖にはカレイ、ソイといって、季節になると出かけていきました。今回の支部10周年記念に参加出来ましたことは、もう一度つり をやりたいと言っていた思いが通じたのでしょうか。当日の天候は不安定でしたが、良い具合に合間をみて流すことが出来ました。

 「つり場はこれぐらいの波がないと釣れないよ」と、夫の声が聞こえてきたようです。

 散骨を終えた今、落ち着いた気持ちでおります。 (故人の妻)


(20040817_sz_w)

●第902回自然葬

子どもたちも感動

  8月17日午前10時45分、そよ風号で葉山沖にて家族4人で無事主人の散骨を行いました。ス―っと沈んでいく様子が神秘的で、主人が語りかけているよう で涙があふれました。主人が隣にいて家族と風景を眺めながら、語り合っている錯覚にとらわれました。子どもたちも感動して「私たちも是非、この葉山沖に散骨してね」と申しますので、「それは先に行くママのせりふでしょう」と申しました。友人が私の自然葬の話を聞いて詳しく知りたいといっています。自然葬が どんどん広がっていくことと思います。 (故人の妻)


(20040807_sz_s)

●第895回自然葬

森の中での不思議な気持ち

 8月7日、甲府市の昇仙峡において父の自然葬を行いました。他界してからちょうど6カ月後の実施となりました。率直に申し上げれば、遺志とはいえやはり幾ばくかの迷いがありました。最終的に半年も引き延ばしたのはその現われだったのでしょう。

 当日の朝でさえ完全に納得していなかったように思います。しかし、実際に「再生の森」に足を踏み入れ、豊かな風景の中で父の骨粉を撒いていると不思議な気持 ちになっていました。この感覚があってこそ故人と改めて向き合える、これこそが自然葬という行為の本質ではないかと感じた次第です。 (故人の長男)


(20040801_sz_f)

●第894回自然葬

思い出したカブト虫、クワガタ虫探し

  長男の彼は今年になってから病状が悪化してきました。ときに、大森山再生の森に眠る母のもとに眠りたいと言うようになり、そして3月9日、入院治療の甲斐 もなく力つきました。故人の希望と、8月1日は母の命日なので自然葬の日時に決めました。この日も猛暑なのに大森山はさわやかな風で暑くもなくセミと鳥た ちの合唱でした。

 故人の勇人は子どものころ、とても元気で、甲虫やクワガタ、カミキリ虫など、弟たちのリーダーとして探しまわったことを三男が思い出し、そういう虫たちの居そうなところに多く散灰しました。 (故人の父)


(20040801_sz_w)

●第892回自然葬

「最後は自然に帰る」といった夫

  台風10号の停滞により当日の朝まで実行が危ぶまれましたが、8月1日14時15分、相模灘にて無事夫の散骨を済ませることができました。初めのうちは波 が高く、船は大揺れでどうなることかと心配しましたが、沖合いに着くと静かになり、美しく青く澄んでいて撒いた遺灰は海の底深く沈んでもひときわ白くいつ までも輝いて見えました。

 遺言状に「自然に生まれ、自然に生きたのだから、最後は自然に帰ることが私には相応しい」と、自由奔放に生きた人らしい言葉があり、生前から会の会員にもなっていましたので、私も子どもたちも迷いはありませんでした。 (故人の妻)


(20040530_sz_w)

●第870回自然葬

国有林の北岳は断念

 5月30日は、西多摩再生の森に夫の骨を散骨したという忘れることのできない日となりました。

散骨は違法。そう信じきっていただけに、どうしたら故人の遺志を生かせるか、紆余曲折の日々。この日を迎えるのに3年近くかかりました。

 夫が亡くなった年の夏、写真を持って大好きだった北岳に登り、こんな素晴らしいところに散骨できたら本望……狭くて暗い墓の中は夫は望まない。そんなことを 思っていた折、新聞で自然葬のことを知り勉強もしました。残念ながら国有林はだめということで、北岳は断念せざるを得ませんでした。

 うみ、やま、そらへ帰る旅。死は決して暗いものではない。自分の死後のこと、選択できるなんて楽しいね、と身近に輪が広がってきています。

 この日、まだ踏み跡の新しい山道を下りながら、「ありがとう」という夫の声が聞こえたように思えたのは、幻覚だったろうか。

 風になり好きな山々かけ巡る (故人の妻)


ホームページへ