(update_20070601_ed)
このページのドキュメントは日付を遡る順に掲載されています
(20070301_ss64p23_MMatsumoto)
●第1198回自然葬●
故郷の多摩で過ごした最期の日々(本会顧問・故森田宗一さん自然葬)
2004 年9月、母が他界しました。それまでの数年間、父宗一は生きる気力をなくしたかのように見えました。外界との接触をほとんど絶ち、東京・祖師谷の自宅で母 と2人だけの生活を送っていました。母が倒れて入院した際、栄養失調でかなり衰弱していた父も同じ病院に入院し、やっと体力を維持していました。母の死後、長女の私が福岡に引き取り、ともに暮らすようになってからはかなり元気を取り戻しました。
「再生」が届くと読んであげておりましたが、そのたびに「僕が死んだら遺骨の一部を『葬送の自由をすすめる会』に送り、山か海にまいてもらうように」といっておりました。
昨年9月頃からは強く「死」を意識するようになっていたようです。同時に、望郷の念が強まったようで、しきりに「故郷の多摩の空の下で死にたい」というようになりました。そして、暮れに多摩の「日の出ホーム」に転居しました。そこには103歳になる元気のよい義姉がおり、彼女から励まされ見守られなが ら、静かに残る日々を過ごしておりました。
2月6日まではそこそこ元気だったようですが、7日は朝から熱があり、2回ほど嘔吐しました。夜8時頃には熱も下がり就寝しました。しかし10時にスタッフが見回りにいったところ、既に心肺停止状態で、救急車で病院に運ばれましたが、11時27分死亡しました。
父は、こよなく愛した多摩で生涯を閉じることができて本望だったと思います。6月には92歳になるところでした。
残る日々合掌一筋秋桜
俳人「宗人」が、2005年秋に詠んだ最後の句です。
松本めぐみ(故人の長女)
(20070601_ssss65p35_YMorita)
●父、奥多摩の大地に還る●
父森田宗一が生涯を通して愛し、懐かしんでやまなかったふるさと奥多摩近くの西多摩日野原村の林の中に、遺灰の一部を散骨しました。それはかつて葬送の自由について熱っぽく語った父の遺言でした。
はや夏に 入りたる多摩の 瀬音かな (宗人)
父森田宗一は家庭裁判所の判事として、非行少年によりそうことにその一生を捧げた人として知られていましたが、同時に俳人としても一瞬をとらえた美やユーモアのある作品をたくさん残しました。生まれ故郷のふるさと奥多摩の自然の中で作った俳句も多く残しました。
林の中に散骨しながら、「こんな遠く離れた山の中で正一さんは寂しくないのかな」と誰かが言いました。「そんなことないよ。土にまじって、虫や草や種のいのちにかこまれているから」と答えました。父のたましいはふるさとの大地にかえって、大地のいのちの活力あるざわめきの中でやすらかに眠っていることでしょう。
河鹿聴く われふるさとの 子に還る (宗人)
(森田ゆり・故人の次女)
(20061217_sz_FSugita)
●第1171回自然葬●
母が雪に覆われていった
自然葬にあたっては自分で母の遺骨を少しずつ色々な語りかけをしながら3日がかりで粉末化しました。
当日はだんだん天候が悪くなってきて大観望に着いた時は雪がはげしく降ったりやんだりと、とても寒い日でした。山道を息子と、立会人の方々と歩いている 時は緊張気味でしたが、その場所に着いて木の根元に散骨する時に又雪が降ってきて母が雪におおわれていっているようでした。散骨が終わって来た道を戻っていると太陽が出てきて、周囲の景色が見えた時、本当に大きな大きな大自然に抱かれてもらったような気持ちになり、心の中で「よかったね」と話しかけまし た。帰りには私も自然に笑顔になる事が出来、何かとても安心しました。
(故人の娘)
●1169回特別合同葬●
参列の人たちに励まされました
12月9日は生涯心に深く残る日になりました。雨の一日になりました。永久の別れに相応しく大自然の中に包まれて安らかな世界に旅立って行った妹のことを 思い、会に参加させていただいたことを感謝しています。私も、残り少ない月日を大切に妹の心残りだったことを少しでも努力して実行して行こうと思います。
9月頃になりますと、高齢者検診を区の開業医が順番で担当するようです。結果は異常なし、など信じるべきではありません。真剣に2人で生きてきて、1人 になって谷底に突き落とされた心境です。余りにも急激な病気の進行に、身の回りの整理もできないままでした。法律の事など人事と思っていましたが、次々と 処理しなければならない事が押し寄せ、経験した事のない忙しい毎日でした。
9日はお集まりになられた方々も大変な悲しみを乗り越えていらっしゃった方々と思いますが、皆さまの少しの事に動じない様子に出会い、しっかりしなければと励まされました。
心残りを沢山残してこの世を去った妹の事を考え、これから一生懸命に生きて行きたいと思っています。
(故人の姉)
(20061209_gsz_PatrickB)
●第1169回特別合同葬●
心を和らげ、恢復の一歩くれた自然葬
(原文は英語_故人の夫)ある時、産院での分娩の記事が目にとまりました。その記事を私は妻の陽子が妊娠を知るまで何年もとっておきました。息子の空海は産院で生まれました。私は妻の腕を抱え、分娩は畳の部屋の布団の上で2人の助産婦によって行われました。難産でしたが、それは私を妻と息子にぐっと近づけました。とても自然で、薬品やギラギラ光る金属がなく、天恵と感じました。
12年が経ち、息子を生んだ女性は突然死んでしまいました。私は何の覚悟も出来ていませんでした。火葬後、数週間して、遺灰を家に置いておくのは落ち着かない気持ちになりました。精神的に我々3人は安堵出来ませんでした。
遺灰を撒くことを推進するという記事をかつて読んだことを思い出しました。あれこれ調べてやっと、葬送の自由をすすめる会の柴田ひささんに連絡がとれました。これだと想っていたことに出会えたのです。
幸運にも柴田さんには英語が通じ、私の苦しみを理解して貰えたのは救いでした。この団体は悲しむ遺族にとって大切なことを分かっていてくれます。私の希望をはっきり理解してくれて、自然葬実施の詳細は心を込めて、本格的な方法で実行されました。私の感謝の気持ちが永久に変わることはありません。
妻は存命中に意思表示したことはありませんでしたが、彼女の成育歴を考え、息子に相談したところ、自然葬は最良の最も相応しい選択だと感じました。
妻、陽子にとって海は心の拠りどころでした。日々の生活のストレスや緊張の中で、私達、家族にとっての一番楽しかった思い出は海でした。2006年の7月 29日、湘南で波乗りをした時の陽子の子供の様な笑顔は一生忘れません。彼女の誇りであり、喜びの源である空海がボディーボードに興じるのを眺めるのは人 生の至福の時だったでしょう。私にとっても同様でした。ですから、海に還ることこそ彼女には自然で当たり前のことでした。
自然葬の全ては威厳を持って行われましたが、それは決して固苦しいものではなく、私にはより相応しく思われました。息子と私は夫々に陽子の遺灰を包んだ紙の端を持ってそっと海に滑り込ませました。
それは、私を和らげてくれ、自分の中での恢復の次の一歩となりました。他の遺族と一緒だったのも大切なことでした。理不尽に聞こえるかも知れませんが、陽子が他の人達と漂って行くのは慰めだろうと信じています。
42歳の妻を亡くしたのは我人生の一大事でした。まだまだ苦しいのですが、極めてゆっくりと心の平安を取り戻しつつあります。息子には勿論辛いことでしたが、母の好きだった海に還るのを見届けた、この過程が彼を啓発し、慰めると確信しています。
ここまでの全行程は、大変苦しいものでしたが、自分をじっくり振り返る機会を与えられました。これまでは自分中心の人生でしたが、今、はっきり遺族の気持ちに寄り添えます。
悲しい出来事がきっかけだったとはいえ、皆様には大変感謝しています。出来れば、自分が経験した様な立場にある人々の何らかの役に立てればと願っています。今、まだはっきりとは分からないながらも、何か活動を通じて他の方々の力となりたいです。
この会の為に役立ちたいという感謝の念で一杯です。
(パトリック・ボウドリー=故人の夫)=原文は英文、柴田ひさ・訳
(20061209_gsz_KOzeki)
●第1169回特別合同葬●
春になったらまたこの船に乗って‥‥
孝夫さんへ
祭壇を飾ったコスモスの季節が去って、花屋さんの店頭はポインセチヤとシクラメンになりました。花いっぱいの祭壇の前で身内と山仲間だけで心温まるお別れをしてから2ヶ月半が過ぎました。まだまだ実感はないのですが、今日ひとつの区切りの日を迎えました。
去年のあなたの誕生日に臙脂色のマフラーをあげました。「あったかくていいね」と、冬の散歩には愛用してくれました。そのマフラーを私が首に巻いて、 71歳になるはずだった誕生日の今日、荒れた冬の海に船に乗ってあなたの骨を撒きに行くことになるとは、神を信じない私でも神様は意地悪だ、といいたくなります。
やっと医者に行ったときにはすでにがんは進行していて、医者から余命1年の宣告を受けましたが、「古希になるまで生きたから、いつお迎えが来てもいい」 と、いたって穏やかにその日を迎える生活でした。すでに5年前、心臓病を患って「死」を思ったときに自分の最後については自分で決めていました。葬送の自由をすすめる会への入会、葬儀なし、戒名なし、墓なしと、妻の私と息子宛の書付は、今回の入院で日付を改めてありましたが、5年前のものでした。
すぐ上の兄が今年3月に亡くなった折も義姉にさかんに自然葬を勧め、観音崎に散骨をしましたが、まさかこんなに早く自分の番が来るとは予想外だったのではないでしょうか。
今日は今年一番の寒さの日で、更にあいにくの雨でした。でも、あなたの誕生日であり、あなたが息子も連れて魚釣りによく行った八景島や観音崎です。どんなに寒くてもここには来なくてはと思っていました。これ以上揺られたら船酔いしてしまうと思った頃、まだ港を出ていないあたりでしたが、船長の判断もあっ たのでしょう、ここで散骨ということになりました。和紙に包んだ遺骨を海に投げ入れると、すっと沈んで溶けた紙から遺骨が波に飲まれていくのが分かります。ちょっと冷たいよね、「さようなら」。たくさんの花を撒きました。大好きだったコップ酒も。揺れるし、寒いし、冷たいし、感傷に浸る余裕もなく儀式のごとくに過ぎたのがちょっとの後悔です。春になったらお天気のよい日に、この船に乗ってここまで来ましょう。
あなたが逝って1ヶ月後の10月末、山の仲間たちが若いときに毎年テントを張ったマチガ沢の谷川岳のよく見える場所に散骨しケルンを積んでくれました。 後は、あなたが大好きだった三宅島で教え子たちが偲ぶ会をやって下さるそうですから、その時にあなたも泳いだ三宅の海に散骨します。2人でよく行った北アルプスにも、とも思いますが「やめとけ」といわれそうですから、どこか近くの山にしましょう。
墓に閉じ込められるよりよほどいいですね。暑い日も寒い日もありますから、どうぞお気をつけて。
(故人の妻)
(20061202_sz_AOtake)
●第1167回自然葬●
悲しさ超えた清々しさ
12月2日、網代で姉3人と私だけの散骨になりました。弟の希望でもあるので初めての散骨でしたが、無事に済ます事が出来ました。
船は最初の予定よりかなり大きく、初島が近くに見ながらの送骨でした。島々も遠くまで見渡せ、悲しさを超えた清々しさを感じるものでした。
散骨中、7回以上の虹を見ることも出来ました。船は散骨中に回遊して下さったりと心使いには深く感謝しています。
浅草に墓地を持っていましたが、とくに問題はありませんでした。
(故人の兄)
(20061125_sz_HTatumi)
●第1166回合同葬●
一緒に夫の自然葬
私たちそれぞれの夫は子供の頃より海が大好きでした。私たちは友人の紹介で葬送の自由をすすめる会に入会し、一緒にそれぞれの夫の自然葬を相模湾で行いまし た。平塚のホテルに着き、立会の方にとても良く教えて頂いて不安が晴れました。空も青く良い天気にめぐまれ富士山が心強くそびえていました。
バスの運転手さん、3名の乗組員さん、何かと気を使って頂きました。湾の中央あたりで船が止まり何のためらいもなく散骨が出来ました。海も青々ときれいで 散骨のあと3度廻り1回ごとに鐘を鳴らし汽笛をならし、まいた花びらがきれいで、夫たちも大変喜んでいると感じました。私たちが死んだ時も、今日のようでありたいと願っております。
(それぞれの故人の妻)
(20061103_sz_KMiyata)
●第1162回自然葬●
孫も美しい眺めを覚えているでしょう
11月3日は、好天に恵まれ、波も穏やかで家族全員で気持ちよく、さわやかに、散骨させていただきありがとうございました。長年の夫の希望でした。大自然の中 に返すことが出来て、私達も約束を果たせた思いで、海面の花びらの円のまわりを船で廻って下さるのを、感謝しながら帰路につかせていただきました。5歳の 孫達もいつまでも、目にした美しい眺めを覚えていることと存じます。
(故人の妻)
(20061102_sz_YTanimoto)
●第1161回自然葬●
九州と朝鮮半島結ぶゆかりの海へ
母が身罷って半年。11月2日に自然葬をしていただきました。
終日快晴に恵まれ、関門の海は穏やかで、故人を送るにはまことにふさわしい日和だったと思います。この海を選んだには、母の生地九州と幼い頃に過ごした思い出深い朝鮮半島を結ぶゆかりの海であったことによります。
門司港を出港した「とびはた丸」は、30分で田ノ浦沖合いに停留、ささやかなバックミュージック、いっしょに捧げた黄色や白の花片が濃紺の海面にゆらめき、その波間に母の遺灰は還っていきました。
初めて経験する海の自然葬はすっきりと簡素ですがすがしく、最後の儀式として心を洗われる思いでいっぱいになります。改めて、自然葬というものの意味について頭の中で反芻しながら帰途につきました。
(故人の長女)
(20061029_sz_MAbe)
●第1159回自然葬●
写真は大森山での安田会長と筆者
いち早く、運動に「全面賛成」の手紙
東北の女性歯科医の草分け
岡光さん阿部みちよ(東北支部長)
10月29日、大森山は快晴、澄みきった空気の陽だまりに、冬眠前の小さな灰色の蛙がぴょんぴょんはねていました。9月に亡くなられた岡光さんの自然葬の日です。大袈裟にはしないで、と言っていらしたので、身内だけの密葬でお骨になりました。
この日のために草刈りされた小さな広場のまん中に、夏椿がすっくと立っています。岡先生は、この木のところから自然に還りたいと言っていたそうです。
岡先生は、東北での歯科の女医さんの草分け的な方でした。とても闊達で、尊敬の念をこめて女傑と呼びたい方でした。1990年、安田会長が朝日新聞の論壇欄に「遺灰を海や山に、は違法か」という文章を発表したとき、いち早く「全面的に賛成します」と手紙を書いたそうです。
「私は里山を所有しています。私はそこに散骨するつもりです。山での散骨を希望して、この山がよいという方がいればお使い下さい」。そう言って下さって以来、この大森山からは30人の方が自然に還っていかれました。寄付もたくさんいただきました。
身内の方など十数人が集まって、11時を少し過ぎた頃、自然葬が始まりました。安田会長が岡先生の思い出と感謝の気持ちを話しました。会長は、とても力を戴いた方なので是非お送りしたいと参加しました。甥ごさんは、自然葬にほんの少し戸惑いながらも、岡先生の意思をできるだけ大切にしたい、と話しました。
そのあとみんなで夏椿のまわりに灰を撒きました。白いサラサラの粉骨は、なんだか今にも土に溶け込んでしまいそうな風情です。少し水をかけたあと、花を散らしました。本当は、その辺に咲いている野の花がいいのでしょうが、今はもうありませんから、岡先生のお好きだったリンドウの花一輪一輪、カスミソウの花のところなど、心ばかりのはなむけです。
それから1分間の黙祷、静まり返る里山、何事かとよって来ていたカラス3羽もこのときはなぜかしんとしていました。会長から自然葬実施証明書が渡されて終わりました。
みんな帰った里山はいっそうしんとしています。これから深い秋に彩られ、やがて眠りの冬を迎えます。
(20061029_gsz_JMatsuyama)
●第1158回合同葬●
水面にはっきりと父の笑顔
10月29日、朝まで降り続いていた雨が上がり、うそのような青空が広がりました。おだやかな秋の日ざしの中、母、夫、息子、夫の弟で、89歳で逝った父 を観音崎の海に還しました。葬送の自由をすすめる会の記事や切り抜きを父の残したたくさんのメモの中から見つけ出し、これが父の遺志なのだと母と判断した のです。
それなら、父が幼いことから慣れ親しんだ鎌倉に近い観音崎にと、まるで始めから決まっていたかのようにことがトントンと進みました。
奇しくも、待ち合わせ場所の三笠公園に立つ東郷元帥は、亡父の父親が副官を務めていたという不思議なご縁……。デッキから遺灰を投げ入れた時、水面にただよう美しい花びらの向こうに父の笑顔がはっきり浮かんでまいりました。
まさに自然の懐へと還っていく父の船出を安らかな想いで見送って、一同、家路に着きました。
(故人の長女)
(20061012_sz_KIshikawa)
●第1152回自然葬●
紺青の海に吸い込まれた
エンジンの軽い振動を伝えながら相模湾上空を南下するセスナ機の後部座席、その心地良いリズムに先刻から膝頭のあたりが暖かい。そこには和紙袋に包まれた純白な舎利(焼骨灰)が抱かれて居るのだ。
スーパーの紙袋を手本に水溶性和紙で自作した二重構造の角底袋、完成に何日も要した。
舎利の精成には更に神経を使った。焼骨の片を一つかみずつ壷から厚地のキャラコ袋(20×30センチ)に移し、丸い川原石を用いて石器時代さながらに「コツコツ」と、ゆっくり打ちつけて粉砕すると、やがてそれは米粒より小さい真白い舎利となる。
我知らず、彼女に話しかけて居る自分に気づいて苦笑することもあった。何日でもかける当初の心積もりがその日の午後に終わってしまった。
「どうぞ御散骨なさって下さい。」とのパイロット女史の声にハッとする。飛行機は相模灘黒潮分流の直上300メートルで翼を左に大きく傾けての旋回飛行に入った。今、富士山頂と箱根神山が首尾線上に直列した。開かれた窓から暖い舎利の袋と白菊の手製の花環をそっと押し出す。吸いこまれるようにそれは一瞬 空中に舞い落下してゆく。
「ありがとうございました」。相識って57年、不覚な私の人生をささえて下さった和子さん、そして梢君。白い物体は見る見る小さな白い塊となって眼下紺青の海面に着水した。それはナギの鏡面にしばしたゆたい、更に一旋回、今は青黒い黒潮の面にその最後のキラメキをのこし、そして溶け合った。
(故人の夫・父)
(20061008_sz_HOkumura)
●第1151回自然葬●
たくさんの楽しみありがとう
10月8日、阿蘇外輪山で最愛の息子の自然葬を行うことができました。快晴で、大観峰からの雄大な眺めは素晴らしく、狭い暗いお墓ではなく、大自然の中に還すことができて本当に良かったと思いました。草刈りに立ち合っていただいた方々には、感謝の気持ちでいっぱいです。別れのとき「母さんもあとから行くか ら。たくさんの楽しみをありがとう」と再会を祈りました。
私と自然葬の出会いは書店で見つけた本でした。両親を葬式仏教で見送った経験から、いずれやってくる自分たちの葬式、お墓のことを夫と話し合い、シンプルで自然が一番と決めました。平成13年、夫は病でこの世を去りましたが、元気な時に決めておいたので迷いなく散灰できました。
夫の出生地である熊本で、父の眠る同じ桜の木の回りに還してあげ、安らぎを覚えました。日々の生活の中で「裕ちゃんの分までもう少し楽しんでおみやげ話を持っていくからね」と、元気をもらっています。
(故人の母)
(20061008_sz_HToda)
●第1150回自然葬●
夫は母の待つふるさとの海へ
10月8日、14時、夫、博之は最愛の家族全員に見送られて、大好きなふるさと土佐の海に還っていきました。「遅くなってしまってごめんなさい、お母さん待っていてくれましたか、これからは、貴男らしく世界中の海を自由に伸び伸びと行き来して下さいね」。青い大海原に吸い込まれていく夫の白い遺灰に向かって心の中で語りかけました。
平成12年2月18日に55才で急死した夫の遺骨を土佐湾に散灰することは、亡くなる前から決まっていた事でした。しかし、遺骨を手元から手離す事は寂しいし、夫も寂しいのではと思えて、今年7回忌を終え、やっと決心をするまで随分と月日が経ってしまいました。夫の父は昭和20年にフィリピンのルソン島で長男である夫の顔を見ることなく戦死、遺骨はひとかけらも戻ってきませんでした。それゆえ母は「お墓の事は息子にまかせる」との思いで、自身では用意することなく平成9年5月14日に亡くなり、その頃、夫と私は「葬送の自由をすすめる会」の事を知り、会の主旨に賛同してさっそく入会しました。平成10年5月5日に母の遺骨を、そして今回夫の遺骨を同じ土佐湾に散灰したのでした。南国の明るい陽光に照らされてキラキラと輝く美しいふるさとの海は、夫を優しく温かく迎え入れてくれたように思え、「死んだら土佐の海へ」という夫との約束も果たすことができ、今は寂しいながらも心安らぐ思いがしております。(故人の妻)
(20060930_sz_RHaruta)
●第1144回合同葬●
夢多き住かでやすらかに
観音崎で昨年9月30日、自然葬。
当日は穏やかな海、静かに私の手から姉のお骨がはなれ、海に沈む瞬間胸にこみあげました数多くのよき思い出、沢山残して下さいました。紫、白、赤のお花、ゆっくりと浮きしずみをくり返しお別れを惜しむようでした。
姉はおっとりとした性格で周りの人に温かみを沢山下さいました。いつも笑顔で皆さんと接しておりました。
穏やかな海、きびしい海、限りなき想像もつかない夢多き住か、やすらかにお過ごし下さい。(故人の妹)
(20060902_gsz_GTakahashi)
●第1138回特別合同葬●
弟を送り、会の重要性を再認
趣味を海に遊んだ弟は、わずかな年月で結婚生活を解消し、子も無く独身を通した。彼は9人兄弟姉妹の8番目に生まれて69年11ヶ月でがんの病魔にたおれた。海に自然葬(散骨)にしたいとの意思表示は友人にも漏らしていた。
独身の気楽さなのか、家族を持たない豪気からか「俺の死は兄弟姉妹の生まれ順番だから」と豪語し、海に散骨するから心配不要の言動は伝わっていました。
最後まで強気の彼は瞬く間に逝って仕舞い、相続は兄弟が担い本人の意思尊重を柱に存命中の言動を遺言と認めました。
秋の特別合同自然葬によって賑やか好きの彼は皆さんに従い海原に解放され大自然に包まれて、永遠に歓喜していくだろうと思っています。
独身を通した身内逝去の体験から、葬送の自由をすすめる大切さや本会の重要性を改めて感じました。ありがとうございました。
(故人の兄)
(20060902_gsz_NFujita)
●第1138回特別合同葬●
ワインとともに送る
9月2日、父の遺言に従い自然葬を行う事ができ、安堵しております。
父は生前、葬送の自由をすすめる会と契約書を交わし、場所の指定(太平洋上)、諸費用の払い込みなど全て自分自身で決め、対処しておりました。一人娘である私が嫁いでいる事、お墓を建てる事によって生じる後継者問題を考えての結論だったのではないかと思います。何よりも体の大きかった父は狭いお墓より、広大な海を望んだのかもしれません。供物、花など一切無用とまで言っておりましたが、この日ばかりは私の独断でお骨と共に船上で開けたワインをそそぎました。病気をして以来お酒は禁じられていたので、少しは喜んでもらえたのではないかと勝手に思っています。
(故人の長女)
(20060819_gsz_KKito)
●第1135回特別合同葬●
お母さん、よかったね
夏の盛りの小樽で母の自然葬の日を迎えました。
お母さん、よかったね。9年前に亡くなった母の願いをようやく叶えることができ、私達姉妹はほっと安堵感に浸りました。母は生前からお骨はお墓に入れないで海か山に散骨して欲しい、と言っていました。暑がりの母を、小樽の涼しい海に、好きだった小さいランの花びらとともに投げ入れることができた時、肩の荷を降ろした気持ちになりました。深いブルーの海の中で母も喜んでくれていると思います。
船中でボランティアの方から証明書をいただき、最後の親孝行ができたと実感しました。私も母にならい、広い海の中で眠りたいと思っています。(故人の3女)
(20060819_gsz_MYasuda)
●第1135回特別合同葬●
ちょっと浮いてからすーと海に還った父
父の骨を海に還すにあたっては、いくつものハードルがありました。
「散骨する 」と言ってしまったばかりに、市営墓地からすぐ出してもらえませんでした。予想外でしたが、早目に取り組んだので、間に合うことができました。
私の心の問題もありました。散骨が最良とわかっていても、骨をみたり、さわったり、更にこまかくくだく作業は、「これでいいんだね、」と父に話しながらでした。
父の骨はわたしの衣類といっしょに、小さなボストンバッグに納まって飛行機に乗りました。小樽のホテルでの最後の夜は、わたしのベッドの枕元に置きました。
もうすっかりお別れという気持ちと、あの墓石の小部屋より海の方がずっといいという気持ちが交互にゆれていました。でも、他のご家族の方々や、北海道支部の皆さまにお会いしたら、楽になりました。
水溶性の和紙の小袋に入った父の骨は、次々にお別れを惜しむようにちょっと浮いてからすうっと、青春時代を過ごした大好きな北海道の海に還っていきました。
(故人の長女)
(20060811_sz_YIgarashi)
●第1132回自然葬●
人間も自然の生態系の一員と実感
8月11日、聖山高原にて母の自然葬を行いました。
木々の葉が落ちると近くの山々が見渡せるというクヌギの木の根元に、白い粉となった母の骨をまきました。
昨年の11月に母が呼吸不全で心肺停止になった時に、亡くなったことを受け入れたつもりでしたが、遺骨を粉にする段になって「形ある骨はまだその人なのだ」と実感しました。粉にした母はずいぶんとコンパクトになってしまいました。
私が今までに衝撃を受けた出来事のひとつは、「人間も他の動物も無機物もみんな繋がっている」という生態系の考え方に出会ったことでした。骨灰を土に溶け込ませる自然葬を実際に行って、母が生態系の一員としての人間となることを望んだのだと気づき、感動しました。
個人としての母は、私を生んでくれた人、育ててくれた人、として家族の記憶の中に生きているから、これでよいのだと思います。
(故人の長女)
(20050710_sz_w)
●第1017回自然葬●
自然の浄土へ還った夫
7月10日、菅平再生の森で夫を送りました。夫は亡くなってから6年、仏事でいえば7回忌でしょうか。心配だった天候にも恵まれ、あふれる緑の薫りを感じ、川が流れているような風の音が吹きぬけて行く自然の浄土へ夫を帰すことができました。夫が思う場所ではないのですが、山を管理する水野俊哲さんの純粋な気持ちに助けられて、すがすがしい優しい時間を持ち、私自身ちょっと「神様」かななんて思ってしまうほどの時間と空間でした。
(故人の妻)
(20050618_sz_w)
●第1006回自然葬●
たとえようない清々しさ
6月18日、標高1300メートルの菅平再生の森は梅雨の晴れ間に恵まれました。輝く緑、澄み渡る空気、爽快でした。春蝉と小鳥の声は絶え間なく、菅平での自然葬を大歓迎してくれているようでした。森の緑の中、山ツツジのとき色がなんとも優しげでした。
親族9名は思い思いに白樺、カラマツ、ツツジの根元により、ゆっくりと灰を撒きました。夫は望みどおりに今から樹木に生まれ変わり、この再生の森を深くはぐくんでいくのだなあと実感しました。清々しさはたとえようもありませんでした。
自然葬という選択肢があり、そして滞りなく遂行できるのは、関係者の方々の幾多のご苦労のお陰に他なりません。
(故人の妻)
(20050605_sz_w)
●第1004回自然葬●
イルカ達にも送られて
6月5日、怪しげな空模様が乗船の頃には夏の日差しとなりました。シーフレンド2号は静かな波の上を快適に進みます。正午前、目的の場所に到着。船のエンジンが静かになり自然葬が始まりました。小分けした遺骨を家族がそれぞれ波の上に放します。白い包みはゆっくりと波間に消えて行きます。「ああこれで永遠 にお別れね」としみじみと実感が湧き、こみ上げてくるものを感じました。花びらが波間に道しるべのように漂います。ボーッと汽笛が尾を引くなかで黙とう。 何というスマートで、胸に沁み入る別れでしょうか。
船長さんの「イルカがいますよ。こんな事は珍しいです」の声。皆で歓声を上げました。
沢村貞子さんの海葬にあこがれて選んだこの自然葬。「すすめる会」のお力添えによって、実践することができました。海のマップは墓標とします。
(故人の妻)
(20050601_sz_w)
●第1002回自然葬●
素もぐり楽しんだ真鶴で
6月1日、朝から晴れ上がった。家族と主人の同級生2名がご参加。男盛りの頃、夏の休日には毎週、真鶴岬に。素潜りを楽しんだところです。会の皆様のご配慮 で網代から船を出して下さった。一路エンジンの音と共に白波立て沖へ向う。沖に近づくこと、走馬灯のように想い出が懐かしい。安堵に満ち足りました。
時 おり、飛魚が光ってダイビング。不思議と哀しみは湧かない。各人が遺骨を静かに花とお酒で流しました。故人は長崎県出身、早く平戸迄行って下さい。透けて 見える海の底へ沈む様子は、現役の頃、足袋を履き垂直に潜ってゆく姿とオーバーラップしました。同級生が高校校歌斉唱、思わず別離の実感と目頭が熱くな り、男の友情のすばらしさを知らされました。主人も満足でしょう。
(故人の妻)