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自然葬もいろいろ
人生いろいろ、自然葬もいろいろ
運動16年、大胆な議論のとき
山折さんの“一握り散骨”めぐり
朝日新聞の月刊誌「論座」の昨年11月号に山折哲雄・本会顧問と上田紀行・東工大助教授(文化人類学)の対談「新しい葬法を!」が掲載された。その中で、山折さんは遺骨(焼骨)の処理についてこんな提言をしています。
「僕は“一握り散骨”ということを主張しています。NPO法人の『葬送の自由をすすめる会』が海にまいたり山にまいたりという運動をしていますが、まだ不徹底です。本当は遺骨を灰にして、遺族や親しかった人たちがどこかで一握りずつまいたらどうか。これは誰にも迷惑をかけませんよね。先ほど言ったように、骨灰はゴミとしての遺体から生じた最も美しいものです。それが不吉なものとか、不衛生なものとかいう感覚論はおかしい。家の庭にまいたって肥料にこそなれ、汚すことにはならない。銀座4丁目にまいてもいいし、西本願寺の門前でもいいし、旅先でもいいし、どこかで人知れず一握りだけまく。そうすれば全部自然に返るわけです。問題は焼き場でもらってきた遺骨をどう灰にするか、ですね」“一握り散骨”が山折さんの年来の主張であり、それが自然葬の理想的な形であることはよくわかっている。ただ、これまでの運動の中では、節度という社会的な配慮のもとで一定のブレーキをかけてきた。個人がひっそりとまく自然葬にも、かなりの制約をつけた。しかし、運動を積み重ねて16年、社会的合意も進んでおり、山折さんの提言にとどまらず、もう少し自由な運動方針をとってもいいのでは、といった会員からの声もある。原則的に自然葬は本来自由だからあまり自己規制するなといった声が出るのもムリはない。
最近は業者の自然葬・散骨ビジネスも、墓ではあるが自然葬に似た樹木葬も、そして個人独自の自然葬もふえているようだ。山折提言をきっかに、運動方針などもふくめて会の中で自由かつ大胆な議論をする必要があり、その段階にきている。
その手始めに昨年暮れ、会の各支部長らに対して山折提言を運動方針にとり入れることについて意見を聞いた。
その結果は――山折提言は自然葬本来の姿であって理想だが、運動方針に組込むのは時期尚早というのが多数意見であった。少数意見は、山折提言を運動方針にとり入れて、もう少し自由に自然葬をできるようにしたらどうか、いまの形では業者の自然葬・散骨ビジネスと見分けがつかない、世論も自然葬賛成がふえており、これまでのやり方を再検討するときに来ている、というものであった。
もちろん、その中間に位置するような意見もあり、多数派、少数派にも微妙なニュアンスの差はあった。(別紙資料参照)
これまで、本会の世話で実施された自然葬は、海に山に合わせてざっと1200回、2020人に上る。海が8割、山が2割である。16年の運動のなかで大きなトラブルもなくやってこれたのは、自然葬に際して自主ルールをつくるなど節度に注意し、周辺への配慮をしたからである。自然葬がこれだけ社会に定着したのは、これまでの方針が誤っていなかったためと自負してもよいだろう。
自然葬の自主ルールとしては、まず遺骨(焼骨)を粉末にするのが大前提である。海では、海岸でなく沖で、養魚場、養殖場をさける、セロハンでまいた花束でなく、花びらだけをまく――など。
山(再生の森)では、?1本の樹木の根元に限らず、できるだけ森の自然を生かすように山全体を使う、人家、施設などから離れ、人目につかないよう配慮、飲み水の取り入れ口などを避ける、隣家に密着する自宅庭でまく場合は話し合いの必要もある。
散骨ビジネスの業者も、本会の自主ルールをほぼ踏襲しているようだが、北海道・長沼町で問題になったような業者もいる。
本会はきつい自主規制のなかで自然葬をしてきたが、山折さんがいわれるように、単に海、山にまくことだけに終わっているわけではない。実態は案外自由で多彩な自然葬を展開しているのである。
木下順二さんの“ひっそり死”と自然葬願望の背景には「自由に生きてきた者として、死後も自由にありたい」という哲学がある。また、本会への「入会の弁」でも「丈夫で長生きしよう(精神的に豊かに生きよう)と思って入会しました」と書かれていた。
木下さんといわず、これまで自然葬をされた方の思いはさまざまである。それぞれのやってこられた仕事や生きてこられた延長線上に死後の思いをふくらませておられる。それは、会誌「再生」の「心に刻む追悼録」に寄せられる遺族の感想文にも明らかである。
まさに、人生いろいろ、自然葬もいろいろである。
これまで実施された自然葬を類別にしてみると――。
(紹介するケースは順序不同)
本会が行った会員の自然葬(個人葬、合同葬、特別合同葬)・思想史家の藤田省三さんは、自然に還る入り口は、どこでもよかった。東京都の西多摩山系「再生の森」を選んだのも、「体調のすぐれない遺族のため交通便利なところがいい」という理由だった。遺体は杉の根っこに遺族、門下生、出版関係者らの手でまかれた。
・「自然の恵みで生きてきたのだから果樹の肥やしになりたい」と遺言した東京都内の眼科医の願い通り、遺灰は志賀高原の広いリンゴ園一帯にまかれた。ほかのリンゴ園にまいた名古屋の教員の妻も、夫の遺灰で育ったリンゴか食べられるのはうれしい、と喜んでいる。
・女優の熊谷真美さんは、母上の遺灰を、ヘリコプターで九十九里浜沖に空からまいた。“肝っ玉かあさん”と呼ばれた人にふさわしく「川や湖はいや、広い太平洋へ」との遺言だった。
・「旅立ちは暑い日にさようなら」という美しいデザイン入りのテレホンカードを用意して、夏の相模灘に還ったのが映画監督の藤田敏八さん。彼の映画のようにしゃれた演出だった。がんで医師から夏までの命といわれていた。
・死後のお別れ会より、生きている間に実のあるお別れをと、生前葬をした千葉県の高校教師夫妻は、がんで死期を知らされていた。夫に続いて妻、と数年の間に自然葬で海に還った。
・亡くなった児童のため、級友たちが童謡のコーラスで山に還した岐阜の小学生たち。
・旧制山形高校の仲間たちが、昔の白線帽を打ち振りながら寮歌斉唱で友人を信州の聖山高原に送った。
・女優の沢村貞子さんのように、連れ合いの遺骨と一緒に海に還してほしいという方も多い。また、連れ合いは瀬戸内海だが私は信州の山、とわかれた研究者夫妻。夫や先妻の墓に同居するのは真っ平という後妻のかたなど多様だ。
・好きだったビートルズの曲を友人のギターでききながら宮城県の山に眠った料理店のママさん。
・歌舞伎ファンで同好の仲間たちと上演までしていた故人は、海に還る際、下座三味線で送られた。
・このほか、本会が主催したインド、モンゴル、中国シルクロードなどの「心の旅」でガンジス川、ゴビ砂漠、敦煌(鳴砂山)などに故人の願い通りに遺族、友人らの手で一握りずつ散灰された。
本会と協力者の世話で行われた会員の個人葬、特別個人葬(自己所有・自己調達の船、山、自宅庭、思い出の場所など)
・若くして亡くなった北大生は学生寮近くにまいてほしいと願っていたが、大学当局の許しが出ず、北大山小屋がある大雪山に眠った。山小屋がある士幌町民は日ごろから北大生と親しくしており、本会からの懇望に町長がこたえてくれた。その後、学友たちが、故人が愛した北大ポプラ並木に遺灰ひとつまみをまいた、との便りをもらった。
・地域医療と福祉に貢献した元研究医は、八重山周辺の海に骨をまくよう遺言した。世話になった島民たちに祝福されて、色とりどりの花に囲まれて海に還った。
・朝焼けの東シナ海、沖縄・残波岬で10個の折り紙風船に分けられた遺灰が30メートル下の海へ遺族の手で次々と投げ落とされた。風船には遺灰とともに真紅のハイビスカス、黄色のアラマンダ、ピンクと紫のハイビスカスの花々を詰めた。紙風船は、本部事務局のボランティアの手作りだった。
・千曲川(長野県)の中流部で人家がまったく見えない場所、四万十川(高知県)の河口付近など、河川でも数回、自然葬をしている。いずれも故人が特別な愛情をもち、それ以外の場所は考えられないとの思いが強かった。
・顧問の須川豊さん(予防医学事業中央会理事長)の葬儀は遺影の前にカーネーションの花を1本ずつ捧げるという無宗教形式、お別れの言葉も友人代表の大石武一元環境庁長官ら2人だけで、弔電はいっさい省略、遺影の両側に須川さん愛用の「健気」の2文字をクローズアップしただけの簡素さ、1000人余りの参列者は予防医学会のドンには珍しいすがすがしさに感銘を受けた。先祖の眠る熊野の山林に遺灰を還すよう遺言、墓碑群を取り巻く杉の樹林に広く散灰された。
・今治市の高校の美術教師だった独身女性は、両親の墓を整理して自然葬にし、数年後死去した。遺言で足摺岬(高知県)上空からの散骨を希望、教え子たちの手でセスナ機からまかれた。セスナ機の提供、操縦は会に同調する鉄鋼会社経営者だった。
・「母をどうしても山口県萩沖に還してやりたい。戦争中の女子学生時代に故郷の萩に疎開した。そのときのことをなつかしがっていたので……」という娘さんの訴えだった。山陰方面では初めての自然葬で、船の調達も難しかった。たまたまみつけた一軒の宿が釣り船をもっており、会の運動も知っていたので実現した。
・慣れ親しんだ北アルプスの八方尾根の一角に妻の遺灰をまいた登山愛好家。まきたい場所が国立公園、国有林、民有林など複雑な所有関係にあった。たまたま、いつも世話になる山の宿の民有林とわかり実現へ。妻の念願だった高山植物の咲き乱れる斜面に「妻よ眠れ!」と青空めがけてまいた。
・自宅の庭で、生前の約束に従って妻の自然葬をしたサラリーマン。「窓をあければいつでも妻と話すことができる」と妻が愛した北海道の湖に似せた散灰場所をつくり、青い玉をしきつめ、その上に遺灰をまいた。日ごろから周辺の理解を得ていたので、自然葬当日はたくさんの隣人から祝福された。
・「春がきて花が咲いたら、おばあちゃんが咲いたね、と笑ってごちそうでもたべて……」と自宅裏山の桜の根っこに遺灰をまいてもらった老女。
・別荘の庭の一角に沙羅双樹の木を植え、根元に遺灰をまいた会社社長。隣のもう1本は奥さまの分だった。散灰の間流された葬送の曲は、故人と音楽仲間が生前に選曲してCDにおさめたもの。この一家は、娘さんばかりで家族会議を開いた結果、先祖代々の墓から古い遺灰をとり出して社長のといっしょに葬ることにした。
本会と相談のうえ独自に行われた自然葬
・1997年に死刑になった連続射殺事件の犯人で獄中作家だった永山則夫は、担当のE弁護士に生前からこんな願いを伝えていた。 「ドイツの思想家エンゲルスが遺灰をドーバー海峡にまいて墓をつくらなかったそうだ。オレも墓はいらない。遺灰を生まれ故郷の網走の海に流してください」と。
E弁護士から永山の自然葬について遺骨の粉末化、船の調達方法など相談を受けた。E弁護士は立派な人権派弁護士で、永山の頼みを誠実に実行した。・コント赤信号の関係者から「師匠にあたるコメディアン杉兵助さんの遺灰を隅田川に屋形船から流してやりたい」と相談があった。杉さんは浅草出身で、にぎやかなことが好きだったから、という。「会として隅田川ではまだやっていないが、ほかの屋形船などに配慮して大騒ぎしなければ問題ないでしょう」と知り合いの屋形船を紹介した。新聞、雑誌が大きくとりあげた。
・中国文学者だった父親を上海の揚子江に還したいと考えた会員が会と相談、中国当局に文書で申請した。中国では周恩来、?小平はじめ一般市民も揚子江に遺灰を公然とまいているのですぐ許可されると思っていたのだが、1年たっても返事がない。独自に遊覧船をみつけて実施した。
・最近のことだが、若い新聞記者の妻が亡くなった。夫婦そろって記者、東大でも学友だった。仲間たちが追悼会をし、故人の愛した学内の三四郎池に遺灰を流すことになったが、どうだろうかとの相談である。
北大生のときの例(?)をひいて、故人とまく場所にそれなりの理由と必然性がある。池の状況、まく時間帯(朝、夕)などに配慮すれば、人つまみの遺灰をまくのに問題はないでしょうと答えた。
・会の世話で相模灘に散骨した土木技師は、黒四ダムとスイスのレマン湖にも遺灰をまくようにといい残した。一部親族が散骨に反対したが、孫に当たる会員が「おじいちゃんの夢をかなえてあげて」と訴えて実現した。黒四ダムには生命をかけて取り組んだ。またレマン湖には学生時代に旅をした。それぞれ思い出があった。・相模灘で散骨した貿易商は、そのあと遺族の手でパリのセーヌ川にも遺灰を流した。貿易商は年に1回はパリに出かけていてセーヌ川を愛しており、相模川でまいた灰とセーヌ川でまいた灰がどこかで会うのが楽しみと笑っていた。
・新聞記者だった父親の海外勤務に伴って中学、高校時代をドイツ、オーストリアで過ごした会員は、相模灘に父親の遺灰をまいたあと、父親が望んだライン川にもひとにぎりの灰を流した。
・ギリシャ出身のソプラノ歌手、マリア・カラスに若いころ心酔していた母親の遺灰を、娘さんの会員はカラスが還ったというエーゲ海に流した。
・反原発の科学評論家・高木仁三郎さんは、故郷の赤城山の国有林に遺言通りに散骨された。通学のときに仰いだ赤城山にという強い願いだった。M新聞社の前橋支局の記者を通じて高木夫人から問い合わせがあった。「問題はありませんか」と。
本会はいま、国有林を自然葬に開放、「再生の森」構想で荒廃した森林を復興させたらと申し入れ中だ。赤城山の一角に使える民有林もあるので少し待つように伝えた。
2日後にM新聞記者から「地元の弁護士が自然葬は法的にまったく問題がないといっている。高木夫人もそれに従うことになった」といってきた。
翌日だったか、M新聞の社会面に「高木さん、赤城山国有林に散灰」の記事が6段抜きの見出しで踊った。林野庁から特段の反応はなかった。・ある会員から「父の遺灰を福島の国有林でまかせてもらった」との報告があった。亡父は故郷の森にどうしても還してほしいと遺言していた。たまたま知り合いの営林署員に相談したら黙認してくれ、自然葬にも立ち会ってもらった。
・その一方では、こんな話もある。国有林に自分の遺灰をまきたいと考えた会員が林野庁の分収育林(緑のオーナー)制度を利用しようとした。国有林に植えた木を一定期間育てた後に伐採して収益を投資者と林野庁が分収する制度だ。
会員は高知県にある国有林の緑のオーナー2口(100万円)に応募したところ、投資した樹林の所在地図が送られてきた。会員は緑のオーナーよりもそこに散骨するのが目的だから林野庁にその旨を申し入れた。林野庁の回答はつめたかった。国有林を分譲したのでなく、植樹育成、利益分配という投資契約だから応じられないというもの。林野庁は本当に森を愛しているのだろうか。本会の会誌「再生」、ホームページなど参考にした自然葬
・都内の中華料理店主は中国・南昌の出身で、故郷に近い洞庭湖に父親の遺灰を流した。故人は死ぬまでに洞庭湖をもう一度みてみたいといっていた。たまたま友人から借りた会誌「再生」がきっかけだった。それには「戦後に旧満州から日本に引き揚げてきた方が、父親の遺灰を北朝鮮と国境を接する中国・丹東側の鴨緑江で現地の友人らに助けられてまいた」とあった。中華料理店主はそれにヒントを得たという。
本会発足後の非会員の自然葬(異色ケースと有名人)
・横浜で行われた第10回国際エイズ会議(1994年)に参加したアメリカのエイズ支援団体が亡くなった仲間の追悼集会を開き、会場前の横浜港に遺灰をまいた。日本のNGOメンバーら70人もその海に花束を投げた。マスコミの問い合わせに神奈川県警は散骨は法的に問題ないとして静観した。
・著名な美術評論家は、茶道の師範だった妻の遺灰を長野県の別荘の築山に差した直径20センチの竹筒に納めた。自分も死後はそこに入れてほしい、と願っている。まさに“偕老同穴”の契り。
・都内にある教育研究会の幹部の妻は、数年前に旅立った夫と同じ小平市内の玉川上水わきに一部の遺灰をまいた。夫妻は30年以上も「玉川上水を守る会」を支えてきた。死んでも同上水を守りたいとの執念か。「上水の土となれかし二輪草」
日本の有名人ら(新聞、雑誌に掲載されたもの。カッコ内は散骨場所)
作曲家、いずみ たく(相模灘)▽漫才師、横山やすし(広島県宮島競艇場)▽俳優、勝新太郎(ハワイ、オアフ島沖)▽Xジャパン・ギタリスト(ロサンゼルス・サンタモニカ沖)▽コメディアン、荒井注(オーストラリア)▽俳優、天本英世(スペインの川)▽作家、中島らも(海)