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私の遺言〜生者へのメッセージ
このほど2人の女性会員から前後して『遺書』が会に寄せられました。1人の方は亡くなられたご主人の遺書を、もう1人の方は遠くない自分の死に備えてあらかじめ準備した遺書だそうです。書いておこう、書きたいと思っても、いざとなるとなかなか書けないのが遺書。それに本来、遺書とは特別の場合を除いて広く公開すべきものではありません。それが掲載に至ったのは、次のようなわけがあります。
2 通の遺書はゆるぎない信念と決意に満ちています。その内容は読む人にきっと何らかの示唆を与えてくれるはずです。そう考えて、遺書を送ってくださった猪瀬孝子さん(72)と、塩田貞子さん(79)に『再生』へ掲載したいという、あえて無理なお願いをしたところ、おふたりとも、何かのお役に立つのならと実名での掲載を快諾してくださいました。以下に紹介する2通の遺書はその意味で私たち生者へのメッセージでもあります。
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私の遺言〜生者へのメッセージ
■釈迦の教えを信じて(猪瀬孝子)猪瀬孝子さんのご主人の裕計さんは1998年11月29日に亡くなられた。享年65歳。猪瀬さんは裕計さんの遺書を兄弟親戚に送り、遺言に従って僧侶も呼ばず、長女が司会をし、ごく親しい身内だけで密葬を営んだ。今、埼玉県で92歳の母を介護している猪瀬さんは、自分の死後に、夫と自分の遺灰を自然葬にする契約を会と交わしている。裕計さんの遺書は、釈迦への帰依を次のように綴る。
ご挨拶
このたび私は長い生涯を終えて、死への旅路に出立いたしました。この世に生を受けておりましたあいだ、皆様よりひとかたならぬお世話を頂きましたこと、厚くお礼申し上げます。
本来なれば、これまでの習慣に乗っとり葬儀を施行すべきとは思いましたが、私の信条にもとづき、たっての遺言を子供たちに残して、つぎのようなかたちで私への送別を頼みました。
まず葬儀は最も簡素なものであること、儀礼的なことは出来るだけ控えること、葬儀の通知は兄弟と数人の親友のみとすること、ご香典・花輪など一切頂戴致さぬように、もしたってのお申し越しの場合は飢餓に苦しむ国の子供たちの援助に全額寄付させていただく旨を申し上げること、また戒名は不要とし、散骨をもって私の終焉とすることなどを遺言しました。
ご不審はおありのことと存じますが、下記する私の存念をあえて通していただきたく、心よりお願い申し上げます。いろいろと思わぬ行き違いなど生じることのないようにと、いまだ意志のしっかりしているあいだに、このお知らせを予め準備しましたので、皆様方の最後のお許しを賜りたいと存じます。
私は今の日本の仏教の在り方に長らく不信の念を抱いておりました。まして、今の日本の「仏教の葬儀の在り方」に関しては、誤り、であると思います。
いまでは世界中の宗教に関する書物がたくさんあり、さらになんの拘束も受けずに自由に学ぶことが出来る現在、少し勉強すれば、いかに今の日本の仏教が不誠実であり、釈迦の教えに違背するものであるかは、歴然たるものがあります。釈迦の教えの基本理念を僭越ながら要約してみました。
(スッタニパータを土台に、般若心経・法華経・その他経文より)・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(1) 現にあるし、またあると思うすべては「虚妄(空)」である。
(2) いまを安らかに生きるために、欲望へのこだわりを捨てる決心をしなさい。虚妄への欲望こそが、人に苦しみを与えるのです。
(3) 欲望を捨て、理に合った叡智で、総てを見透しなさい。
(4) 人を差別してはならない。
(5) 生きている間の、清い行為だけが、死後を決定する。
この釈迦の教えを後世になって、多くの釈迦の弟子たちが釈迦の口述伝承を基に作ったのがお経なのです。しかし、この経文も、印度・中国・日本と伝わるうちに、内容がかなり変化してしまいました。それに加えて、中国から日本にもたらされた仏教は、日本では中国語(漢文)をそのまま「日本の音読み」にしたままの形で布教したものですから、われわれにはサッパリ理解できず、ただ何となく有難く退屈に拝聴しています。
それに加えて、日本仏教の始祖たちは、日本の風土・習慣・自然信仰(神教)に合致するようにと、経文の都合のよい部分を拡大解釈するなどしたものですから、釈迦の説いた基本理念とは大分乖離してしまいました。
もちろん古い時代のことですから、現代のような自然科学的知識もなく、全般的な釈迦の真実説いた内容を学ぼうにもその資料もなく、加えて多くの権力的圧力や政治的支配や思想的強制の中では、止むを得なかった面もあると思います。
しかし、こうした軛(くびき)のない現代にあっては、もう一度釈迦の原点的視野にたち戻り、現在の常識に立って誰にでも理解し納得しうる教理を分かりやすく説くべきで、ただただ古い時代の先達の残した布教を、そのまま権威的にこだわり続けるだけでは、いけないと思います。
現代科学によって明らかにされ、その科学的視点で教育を受けた今の人々には、もっと率直に釈迦の基本的教えに立ち返って、「空の思想」を説くべきであるのではないでしょうか。仏教に携わる出家者には猛省を促したいと思います。
殊に、いま私たちの周囲で催される仏式葬儀に関しては、憤りを感じております。出家者である僧侶は、釈迦の基本的理念に背いてまで行なう近頃のブッタクリ葬儀に手を貸す必要は全くありません。人の死は葬儀社営利事業の対象であってはなりません。まして「戒名料」の売買まがいなど、どのようにもっともらしい理屈で飾ってみても、差別するなという釈迦の教えに反することなのです。
「死後のことは、あれこれと案ずることなく、ただ宇宙の摂理に任せなさい。生きている間の、清い行いだけが死後を決定するのです」と釈迦は説いているのです。私は真摯にこの釈迦の教えを信じます。
お金だけがステータスみたいになってしまった近頃の世の中で、少し貧乏だったけれども、心だけは豊かな生涯を送ることが出来たと感じている私にとって、ほんとうの葬送の在り方とは、この世で出会った人々から、ただ「長いあいだ、この<苦>の世界でご苦労様でした」の一言を手向けて戴けるだけで充分なのです。
これまで縷々申し上げた、このような私の葬儀の在り方は、最後の私の意気地とご推察の上、なにとぞご寛容賜りたいと存じます。このことについては、子供たちにもう少し詳しく書き記したものを残しましたので、ご希望がありましたら、お申し付けください。
長らくご厚情賜りましたこと、心よりお礼申し上げます。お別れのご挨拶を謹んで申し上げます。1998年11月29日
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私の遺言〜生者へのメッセージ
■大自然の完璧な調和の中に
もう1人の塩田貞子さんは今年79歳。薬剤師で戦時中は海軍糧秣廠に勤め、戦後も70近くまで現役で働かれたそうです。一人っ子のお嬢さんがインドネシアで学究生活をしているので、今は東京都下で独り暮らし。サプリメントを飲みながら、元気な毎日を送っておられます。4年前に書いたこの遺言は今でも全く変っていないと言います。
遺言〜散骨の意志とご依頼
1999年5月8日、私も75歳になりました。両親の享年も越えたこの頃ですが、実はまだ暫くは大丈夫ではないかと思ってはいますが、兄弟姉妹もすでに上は1名を欠き、他もすでにみな老齢となった今では、その死亡に後先なしと考えざるを得ません。
また娘敬子は外国在住にて、それなりの責任ある仕事を持っていることですから、突発事態に対し、どなた様かのお世話にならないとも限らず、何とか最小限のご面倒で逝かしてもらいたいものと、この書面を遺し、よろしくお願い致したく思う次第です。
私も娘敬子を幼児期に父方に手離すこととなり、その後独身で来ましたので、何とかあまり皆様にご面倒をおかけすることなく、さりげなく静かに骨になれる方法はないものかと思ってきました。献体とか臓器提供をすれば、社会のお役にも立ち、さりげなく骨になれるじゃないかと考えましたが、これを決することは真に勇気の要ることで、私は自分の弱さを知りました。
自然科学の分野に身を置きながら、魂はそれを欲していない矛盾、その昔、若き頃、蛙の解剖実験すらできなかった弱さが未だに私の裏にあるようなのです。自然死で静かに死んでゆきたいのです。私の独断的な定義では「自然死」とは心臓死なのです。
近年耳にする脳死とは、死には違いないけれでも、社会の要請に基づいた「社会死」とでも言うべきものであろうと考えているわけです。私の裏に内在する矛盾とエゴから、私はついに抜け出すことができません。私の死生観の限界かも知れません。
1991年に「葬送の自由をすすめる会」を知るまでは、私は亡骸を片づけてもらえるなら、どんな形式でもかまわないと思っておりました。私の魂を充足する形式がない以上、既存の法的な枠内でお願いするしか仕様がありません。
春霞の中にすうーと溶けて消えてゆけないものかなどと夢想もしていたものです。私はこの「会」を知り、歓喜しました。「会」の主旨が私の死生観と見事に一致することに共鳴したのです。私は95年に入会しました。自然葬(散骨)の生前契約もしておこうかと考えています。
私は自然科学の分野に身を置いてきましたので、必然的に自然科学的宇宙観とでもいうべきものが、物の考え方や精神の基軸を成しています。その中で私の死生観もあるのです。宇宙自体絶えず生成と消滅を繰り返し、その中から生物も発生しています。生死は連綿としてエネルギー不滅の法則のごとく、種々の形をとりながら引き継がれてゆきます。
森羅万象、生まれるべくして生まれ、死も必然にあります。万物は生死にかかわらず自然の一部、その体も心も大きな宇宙の運行とともにあるのです。ただ人間は卓抜した頭脳を持ったがために、社会文化の中で苦悩し、愚かな間違いを犯しています。しかし、人間もまた、自然を失っては生存することはできないのです。
人間は生死を全うするための苦悩の中で偉大な哲学、宗教などの精神文化を編み出しました。それは驚嘆すべき文化遺産です。その中でいわゆる正法の仏教思想が、自然科学に矛盾しないことを発見しました。輪廻転生を超え、解脱の境地、悟りに入ることこそ、自然をそのまま受容することに一致するのです。
自然科学の法則と真理とは、直観的に言って、仏の世界ということでありましょうか。六道、輪廻転生すらもあえて意味づけるならば、人間の行為の総体としての業の結果を強調することを除けば、自然科学では次の世代生物の構成物質となるということでしょうか。
自然に向き合っていると、その嘘のない静かで厳かな気品に打たれます。大自然の中に完璧な調和を観ることができます。宇宙は広大な魂を持っています。私は今、地球上のすべての生物のように静かに自然の懐に還りたく思っています。生死にかかわらず、それ自体が自然というものの認識ですけれども、人間は社会的動物でもありますので、本来の自然の中に還るということです。
自然への回帰願望が年を追うごとに高まって来ていることに私は喜びを感じ、21世紀の葬送の形式としてより多くの人々に認知されることを願っています。どうか皆様、あまり驚かれることなく、私の願望をご了承くださり、私の骨灰を散骨してくださるようお願いする次第です。さよならに代えて。
論語に曰く「七十、己の欲するところに従って法を越えず」と。